岡部宿 (道の駅「宇津ノ谷峠」→蓮華寺池公園前バス停) <旧東海道20回目>

 2003年4月19日(土)晴  

 今回も自家用車で7:30に出発し、途中、安倍川橋の「石部屋」で前回気に入った『安倍川餅』を購入して、丸子10:45着。午前中 車で「柴屋寺」、「誓願寺」を回り、丁子屋で昼食後、前回の終着点「道の駅・宇津ノ谷峠」に車を置いて(勿論無料)街道の続きを歩きました。

  (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「府中・丸子宿」 ← 「目次」 → 「藤枝宿 ・島田宿(前半)」


【吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ) 

 私達は車で行きましたが、「丁子屋」先の丸子橋を渡らずに真直ぐ1Kmほど行ったところです。

   

 吐月峰紫屋寺は、今川六代当主義忠と七代当主氏親に仕えた連歌師・宗長が、永正元年(1504)五十五歳で草庵を結び余生をおくったところである。この頃は,禅宗の影響で孤独閑寂の生活を楽しむことが流行し、宗長自身もここに京都銀閣寺を模した庭園を築き、四季の風物を眺めて暮らしていたという。風雅な庭園は、本堂の正面はるか南方にある。“丸子富士”や、庭から西方にそびえる“天柱山”などの美しい自然をたくみに取り入れた借景園と、庵の背景となる枯山水の庭園は国の名勝・史跡に指定されている。庵の前庭には、北斗七星をかたちどって配置した“七曜石”や宗長が月の出るのを座って待ったという“月見石”などがある。その月見石の背後に師の宗祇と並んで宗長の墓がある。

 当寺は、京都の嵯峨から移植したという竹林に囲まれ、宗長の手工に始まるという竹細工が今も民芸品として即売されている。

 なお、寺宝に後水尾天皇御真筆の短冊、足利義政から賜った芦屋釜(文福茶釜)、頓阿法師作柿本人麿像及び一節切(ひとよしぎり)の笛などの文化財が保存され、公開されている。

     昭和五十八年 静岡市


【誓願寺】 

 車では柴屋寺から西へ1Km 。徒歩では、丸子橋から旧道を進み、右手に流れる丸子川の歩行者専用橋を渡って国道1号線の高架下をくぐり、少し行ったところです。

 誓願寺は、建久年間(1190〜99)に、源頼朝の両親追善のために建立されたが、天文年間(1532〜55)の丸子城の戦火で類焼した。しかし、永禄十一年(1568)駿府へ進出した武田信玄がこれを惜しんで再建したものである。

 この寺はまた、大阪冬の陣を起こしたいきさつの舞台となったところである。慶長十九年(1614)、豊臣家の重臣で、賎ヶ岳七本槍の勇士でもあった片桐且元は、京都方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」の文字について、駿府城の徳川家康に申し開きのため、この寺に滞在していた。有名な方広寺大仏鐘銘事件である。しかし、家康には且元の意がくまれず、遂に大阪冬の陣を起こし、続いて翌年元和元年(1615)五月の大阪夏の陣で、豊臣家は亡びてしまうのである。

 境内には、子孫の片桐石見守貞昌によって建てられた且元夫妻の墓が、二基仲良く並んでいる。また、本堂右側にある古池には、珍しい産卵法で知られる「モリアオガエル」が生息しており、五月から七月にかけて、その産卵風景を見ることができる。

     静岡市


<昼食> 丁子屋 のとろろ汁★★★★

 開店(11:00)の5分前に着いたおかげで、すでに待ていた5人と一番乗りでした。おかげで、ととろ汁セットの「丸子定食」(¥1,380-)と「むかご揚げ」(3個¥400-)を注文したところ、アッという間に運ばれてきました。

 麦ご飯はおひつ入りで、大きな茶碗3杯分はありますが、2杯でギブアップ。

 


 前回終えた「道の駅・宇津ノ谷峠」に車を置いて、12:00スタート。

 静岡市側の「道の駅」は国道の両側に駐車場があり、双方にトイレがあります。

 丸子宿から国道の左側を歩いてこられた方は、左側「道の駅」から新宇津ノ谷トンネル入口手前の陸橋を渡ってそのまま右の道に入ります。右側を歩いてこられた方は、右側駐車場からそのままトンネルの手前を右折します。

 右側の駐車場には、案内板が立っており、『道の駅 宇津ノ谷峠 周辺ガイド』と称して、「旧東海道」、「つたの細道」、「明治時代のトンネル」の解説と、岡部町側駐車場までの4本のトンネル道・旧東海道・つたの道の地図が掲げられています。

 左側「道の駅」の裏(陸橋の登り口前)の左手細道を登るのが、宇津ノ谷峠に最初に通された古道「蔦(つた)の細道」で、案内標識もあります。機会があったらこの古道も歩いてみたいものです。

【宇津ノ谷峠のトンネル】   

 宇津ノ谷峠には、明治時代のトンネル、昭和初期のトンネル、国道1号線 上りの昭和中期のトンネル、1号線下りの平成七年完成の新トンネルの計4本のトンネルがあり、一つの峠に4本も掘られているのは世界でも珍しいとのことです。

【つたの細道】

 蔦の細道は、宇津ノ谷峠越えの最も古い道で、天正十八年(1590)豊臣秀吉が小田原の北条氏征伐のために旧東海道をひらくまでの、重要な道路であった。
 在原業平の「伊勢物語」にも登場する古道です。

   駿河なる宇津の山辺のうつつにも、夢にも人に逢わぬなりけり

【明治時代のトンネル】   

 明治・大正時代(1876年〜1930年)の東海道です。

 今見られる「レンガのトンネル」は、明治二十九年に照明用カンテラの失火によって新たに造りかえたもので現在は、国の登録文化財に認定されています。

 最初のトンネルは日本ではじめて通行料を取ったので「銭取りトンネル」と言われていました。

 「道の駅」から右折して、緩やかな登りカーブの先、Y字路を左の道に進むと宇津ノ谷の小さな集落(間宿)になります。こちらが江戸時代の旧道です。


【慶竜寺】 (右奥) 12:10

 宇津ノ谷集落に入りすぐ右手裏側、赤い橋を渡った所にあります。

 慶龍寺は、天正六年(1578)歓昌院第四世宗旭和尚が開いた曹洞宗の寺で、当山の鎮守として延命地蔵尊(弘法大師作)が祀られており、本尊は十一面観世音菩薩である。

 当寺は、室町時代から伝わる「十団子(とうだんご)」が有名で、毎年八月二十三・二十四日の両日催される縁日の際に、この「十団子」が参詣者に売られている。

 この「十団子」の由来を要約すると、昔、宇津ノ谷峠に旅人を食べてしまう鬼が現われるため、諸人の難を救おうと在原業平の祈願によって地蔵菩薩が旅僧に姿を変えて、宇津ノ谷峠で鬼と対決した。旅僧は人間の姿に化けて現れた鬼に「すみやかに本体を現せ」と言うと、たちまち六メートルの鬼の姿に変身した。「なるほど、お前の通力はたいしたものだ。今度は、できるだけ小さくなってわしの手のひらに乗ってみよ」。鬼は「よし」と答えて小さな玉となって旅僧の手のひらにぴょんと飛び乗った。旅僧はいち早く手に持った杖で、その玉を砕き「お前はこれで仏になった。これからは旅人を苦しめてはならぬぞ」と悟し、砕かれて十粒になった鬼を飲み込んでしまった。その後、鬼の災いもなくなり、道中守護のために、お団子を数珠の型にして「十団子」を作り、魔除けとしたもので、それが今も当寺に伝わっているのである。

     昭和六十年一月 静岡市

 実際の十団子は、慶龍寺例祭の2日間だけ、参拝者に売られており、写真等で見ると1cm以下の団子十粒を糸に通し、その輪を9つ束ねたもので、魔除けとして、往時は道中守護、現在は家内安全、交通安全を願って玄関などに吊るされる慣わしとのことです。


【お羽織屋】 (右側) 12:13

 旧道の階段状に民家が並ぶ集落の右側にあります。敷地正面の塀内に「明治天皇御小休碑」がありました。(写真は宇津ノ谷集落)

  ここでは、秀吉から贈られた陣羽織、家康や慶喜から送られた茶碗などが公開されていますが、入口は裏側です。

 入館料は200円で、本物より大きく色とりどりの十団子もお土産として売っています。

 但し、私達は入口から覗いただけで入館はしませんでした。

【秀吉公のお羽織の由来】

 天正十八年(1590)秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、宇津谷に休息した。その際、当家の祖先が馬の沓を献上し、また戦陣の勝利を示すような縁起のよい話しをしたので、帰りに立ち寄って与えたのが、当家所蔵のお羽織である。表は紙、裏はカイキ、後に家康もこの羽織を見て記念に茶碗を与えたが、これも当家に所蔵されている。

     東海道宇津谷 石川家

 お羽織屋を後にして集落の階段を登って行く途中で、縁台に座っていたご老人につかまりひとしきりこの辺りのうんちくを聞かされてしまった。どうやら、ウォーカーをつかまえては話をするのが趣味のようである。


【宇津ノ谷峠】  

 話が長くなりそうなご老人からなんとか逃れて、更に登ると一旦車道に出ます。左は「明治のトンネル」に続く道で峠を貫通していますので、旧東海道は右の道を進み、すぐ山道に入ります。

 山道に入ったところに、「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。

岡部宿(宿境まで二十六町) ← 静岡市 宇津ノ谷 → 丸子宿(宿境まで十町)

 標柱の先に「旧東海道のぼり口」の小さな案内板が立っていますので、左に登ります。(左の写真)

 ここから本格的な峠道になります。ここで12:25。

 登り始めてすぐ左手に二体の馬頭観音がひっそり立っています。

 (右の写真)

 登り口は細道ですがすぐ広めの道になります。

 (下記【岡部宿】の写真参照)

【宇津ノ谷集落】

 間も無く、集落が良く見える場所に出て、昭和初期の写真と解説が掲げていました。

 左の写真が現在の風景です。

 宇津ノ谷は丸子、岡部両宿の間に位置する間宿です。行交う旅人が、宇津ノ谷名物「十団子」を求めたり、無事に峠を越えてほっと息をついたところです。ここからの眺めは昔も今も変わらず、山間の集落の景観は当時を彷彿とさせてくれます。

     静岡市教育委員会

【地形変化の解説】 12:32 

 更に少し登ると、江戸時代より地形が変化してしまったという説明板が立っていました。

 登り始めて少し行った辺りは、明治43年8月に起きた集中豪雨による山崩れのため、地形が大きく変わってしまったところです。

 階段は整備に伴い便宜的に設けたもので、江戸時代には今より山側上方を、幅2間(約3.6m)の道が通っていました。

【地蔵堂跡】 12:34 

 上記説明板の先で右へ大きくカーブした所の右側が空き地になっており、地蔵堂は無く、わずかの礎石が転がっていたのみであった。

 この奥の空き地は、もと延命地蔵堂のあったところで、礎石が散乱し、わずかに往時を忍ばせている。

 江戸時代末期の歌舞伎脚本作家、河竹黙阿弥の作で、丸子宿と宇津ノ谷峠を舞台にした「蔦紅葉宇都谷峠」という芝居がある。

 盲目の文弥は、姉が彼の将来を憂いて京で座頭の位を得させるために身売りして用立てた百両を持って京に上がる。

 文弥は、道中、護摩の灰、提婆の仁三に目を付けられながら丸子宿にたどり着く。

 一方、伊丹屋十兵衛は、かつての主人の恩義で借りた百両の返済工面のため京の旧知を頼ったが果たせず、失意のうちに江戸へ戻る途中、丸子に投宿する。

 丸子宿の旅籠藤屋にこの三人が同宿したことが、文弥の百両をめぐる凄惨な結末への始まりとなる。

 文弥の百両ほしさに十兵衛が宇津ノ谷峠で文弥を殺害してしまう芝居の山場、『文弥殺し』の舞台がここ延命地蔵堂前である。

 この延命地蔵尊は、現在慶龍寺に祀られており、縁日は、毎年八月二十三・二十四日である。

     平成十年八月 丸子路会

宇津ノ谷峠】 12:37 

 地蔵堂跡からすぐ峠に着きます。この峠には平らな所がなく道はすぐ下りになり、「宇津ノ谷峠の道について」の下記説明板が置いてありました。

 天下の公道となった東海道宇津ノ谷峠はさまざまの人が越した。将軍・公家・大名行列・いろいろな庶民。最後の大行列は明治天皇であった。明治九年(1876)トンネル(現在のレンガ作り)が峠の真下に出来るまで二百七十年間、天下第一の公道だった。峠の標高は170m。東海道分間延絵図によると峠地蔵・六地蔵・供養搭二基・傍示杭二本、有渡郡志太郡境とある。峠地蔵堂は現在慶龍寺本堂となり、供養搭一基は原位置にそのままある。

【髭題目碑】 (左側) 12:45 

 

 峠を下ると少し広い道になり、そのまま右へカーブしてゆく道と、更に左へ下りる道(旧道)があります。

 左の旧道へ下りてカーブした所に碑があります。

 碑の書面に「南無妙法蓮華経」の題目が筆端を髭のようにはねて書く書体で刻まれている。側面には「為人馬安全」「天下太平五穀成就」と刻まれており、旅の安全と世の平和・豊作を願って建立されたことがわかる。裏面には建立年月の「天保六年霜月再興」と「備前国(岡山県)木綿屋門平」をはじめ、清水市から島田辺りまでの建立者達の名前が刻まれている。

 このような髭題目は日蓮宗の信仰が盛んな県東部にはごく普通に見受けられるが、中部のこの辺りでは非常に珍しいものである。

     岡部町教育委員会

 

 宇津ノ谷峠を下りきって、左後方から「蔦の細道」と合流する直前に、「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。

岡部宿(宿境まで十八町) ← 岡部町 東海道参勤交代の道 → 丸子宿(宿境まで十八町)

 蔦の細道との合流点である車道に出たら右へ行くと、すぐ下記案内板が立っていました。

【旧東海道(別名:大名街道) 12:49 

 この道は、駿河国の安倍郡と志太郡のさかいにある宇津の山の一番低くなった鞍部にある峠道で、二つの峠越しがあった。一つは、源頼朝以後に開発された東海道本筋の通っている宇津の谷峠で、もう一つは、それ以前の蔦の細道の峠である。鎌倉幕府は部隊の行進ができない旧道を廃し、新道を開いたのが宇津の谷峠道である。上り下り八丁(約870m)の険路であった。ここで鬼退治にからむ十団子の伝説が生まれたのも、難所であった証拠であろう。豊臣秀吉が天正十八年(1590)七月、小田原城を落し、戦勝を誇り、蹄の音をこだまさせつつ通ったのも今は兵士共の夢のあとである。慶長六年(1601)徳川家康が、五街道を設け、交通の便を図ってからこの街道は人や物資の往来がひんぱんとなり、殊に参勤交代の大名行列は豪華絢爛たるもので、二十万石以上の大名は武将が二十騎、足軽が百二十人から三百人もあり、一万石の大名でも五、六十人の共揃えで、その行列はこの峠をうめつくしたことであろう。この道も明治九年トンネルの開通によってとざされたが、明治初期までは上り下りする旅人の難所であった。

     岡部町教育委員会


【坂下地蔵 堂】 (左側) 12:51 

 上記案内板のすぐ先にあります。

 建立年代、建立者は不明ですが、元禄十三年(1700)に、岡部宿の伊東七郎右衛門、平井喜兵衛、中野陣右衛門の三人が発願して地蔵堂を再建し、堂内の仏具をそろえ鴻鐘を新たに鋳して鐘楼も建立しました。霊験あらたかと村人や近隣の人々に信仰され、その霊験のあらたかさを示す二つの伝説「鼻取地蔵」「稲刈地蔵」が残されています。

 堂内には地蔵菩薩像が安置されており、この地蔵尊は宇津ノ谷峠を越えようとする旅人の安全を守り、また、堂前の木陰は旅人の疲れを癒しました。

 今でも八月二十三、四日の大縁日には、串に刺した十団子をお供えして供養します。また、新盆供養のために遠方からも参拝者が訪れます。

     岡部町教育委員会

 地蔵堂で国道1号線に合流。すぐ先の「廻沢口」歩道橋を渡り、右斜めの道を行きます。歩道橋手前右側には岡部町の道の駅があります。

 やがて県道208号線に入り、この先しばらく県道を歩くことになります。県道の途中左側に岡部宿の案内板がありました。


【岡部宿】 江戸から48里8丁(189.4Km)、京へ77里2丁 人口約 2320人

安藤広重の東海道五拾三次之内・岡部『宇津之山

 由比の薩捶峠と並ぶ険路。この絵の時代より昔は、更に標高の高い険しい山道で「蔦の細道」として有名です。

現在の峠道


【岡部宿のあらまし】

 岡部宿は東に宇津ノ谷峠、西には大井川という難所を控えていることから、平安時代後期より宿としての形を整え始めました。鎌倉・室町時代と発展を続け、慶長7年(1602)の宿の指定を受けました。

 岡部宿は当初、川原町・本町・横町の3町で構成されていましたが、交通量の増加から寛永年間に内谷村が加わり、明治5年(1872)1月の伝馬所廃止を機に宿駅制度が急速に機能を失うまで、東海道の要衝として栄えました。

 江戸時代の作家、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」にも登場します。雨中の宇津ノ谷峠で滑って転んだ弥次さんと喜多さんが、増水のため大井川が川留めと聞いて岡部宿に投宿する際に一首「豆腐なるおかべの宿につきてげり足にできたる豆をつぶして」と交通の難所であった様子が描かれています。

【当時の宿場の様子】

 天保14年(1843)の調べによると、約1500mの町並みの中に487戸・2322人が住み、宿場の両端には岡部宿の入り口を示す桝形が設けられ常夜灯が置かれていました。また宿場内には幕府からの禁令などを掲示する高札場が置かれていました。

 中心部には大名や公家が宿泊する本陣が2軒、本陣の予備の宿舎である脇本陣が2軒、人馬の継立などを行う問屋場、飛脚、一般の人々が宿泊する旅籠屋などが軒を連ね、その先には茶店や米屋などの店に交じって、職人や日雇稼、荷物の運搬役を行う人馬役の家、農家などがありました。町並みは街道沿いに広がり、裏には神社がありました。

     県道に掲げられていた岡部宿の案内板より


【十石坂(じっこくざか)観音堂】 町指定文化財(昭和48年4月指定) (右側) 13:25

 岡部宿案内板のすぐ先にあります。観音堂の右側には沢山の石版・石仏が 整然と並んでいました。

 入母屋造りの瓦ぶきの観音堂で内陣、外陣の境の格子は非常に細かい技巧が施されている。

 江戸時代末期の作と思われ、この観音堂の中に二基の厨子が安置されている。

  厨子一

 中央にある厨子で、宮殿造り。屋根は入母屋造り、柿ぶき(こけらぶき)で二重垂木、妻入である。彩色がほどこされていて江戸もやや末期の作と思われる。

  厨子ニ

 観音堂の向かって右側にある。宝形、板ぶき屋根、黒漆塗りで簡素ではあるが品格の高いものである。

 江戸も中期以降の作と思われる。

     岡部町教育委員会


【笠懸松と西住(さいじゅう)の墓】 (右奥) 入口の説明板で12:34。墓まで登って13:43

 観音堂から少し行き、岡部橋を渡る手前の右角に「笠懸松と西住墓」の説明板立っています。ここで県道は左カーブしていますが、旧東海道は説明板の矢印に従って斜め右へ入ります。

 入ってすぐの「笠懸松」の案内板に従って右に曲がると竹林の小山に細くて急な階段が見えます。3〜4分ぐらいの登りですがかなりきついので、上り口に置いてあるで竹の杖を借りた方がいいです。

 頂上の笠懸松は近年枯れてしまったが、その根元に西行を慕ってここまで来て亡くなった西住の小さな墓があります。

 時期的なのでおびただしい数の竹の子が生えており、この日は近所の人達が周りを整備していました。山頂のベンチで休んでいたら、整備していた人から大きな竹の子を頂戴した。重かったが持ち帰って翌日食べたら柔らかくてとても美味しかった。

 下記写真で、お墓の後ろのこんもりしたものが、枯れた笠松の根っこです。

【笠懸松と西佳墓】

 「・・・やがて西行は駿河国岡部の宿にさしかかった。荒れはてた小さな堂に立ち寄って、一休みしているときなにげなく後ろを振り返って見ると、戸に古い檜笠が懸かっていた、胸騒ぎがして、よくよくみると過ぎた春、都で共に修行した僧の笠だった。― 中略 ― 

 笠はありその身はいかになりぬらむ あわれはかなき天の下かな・・・」(『西行物語』より)

 ここは、歌聖として有名な西行が西佳と東国へ旅をした時に起きた悲しい物語の舞台である。「笠懸松」は右手西行山の中腹にあったが、松喰虫の被害を受けて枯れてしまった。その根元には「西佳墓」と伝えられる古びた破搭がある。

【西住法師】

 岡部の里人伝云、西佳は西行の弟子、西行に従って東遊す。遠州天龍川に於て西行武人の船に乗合て及危難、西佳怒て武人に敵す。於之、西佳師の勘気を蒙る。西行独歩東国に趣く。西佳非難愁絶して其師に追及んとす。自足煢々として独住。岡部里に至て病て不能行。終にこの里にて卒す。旁に一松樹あり、竹笠を掛け一首の辞世を残す云々 (新庄道雄著「駿河国新風土記」より)


【大旅籠柏屋】 (左側) 14:00〜14:23

 

 旧道は左折して岡部川を渡るとすぐ県道に戻りますが、合流した所に貴重な建物をそのまま利用して歴史資料館となっている「大旅籠柏屋」があります。

 建物内を見学するには300円かかりますが、通行権をもらえば裏の庭に出られます。通り抜けるときに内部の一部が見られました。

 裏の土産店兼お休み処で、ところてんとアイスクリームを食べながら一休みしました。

 大井川の増水で足留めをくった旅人が、岡部宿に泊まることが多かったという。


【岡部宿本陣跡 】 (左側) 14:25 

 岡部北信号の所で、大きな黒門の前に標柱のみ立っていました。


【問屋場跡・高札場跡】 問屋場跡で14:28 

 本陣趾の先で、旧東海道は左の古い町並みに入ります。

 その旧街道に問屋場跡と高札場の案内プレートがありました。

【問屋場跡】

 幕府の公用旅行者のためにつくられた施設で、人夫や馬を常備し、次の宿場まで、旅行者や荷物を無料で継ぎ送りました。しかし、公用の仕事がない時には、一般旅行者や荷物を有料で送りました。

 岡部宿には、岡部本町と加宿内谷の二か所に、問屋場がありました。

【高札場跡】

 高札場は、宿場内の目立つ所や、人々の多く集まる所に設置され、法度や掟(法律や条令)、犯罪人の手配などを木札に書き高々と掲げて、社会の人々に知らせたところです。

 高札が、四辻(交差点)などに建てられると、そこを「札の辻」と呼んでいました。


【小野小町の姿見の橋】 14:31  

 小さな川(溝に毛が生えた程度の川)に架かる橋に案内板がありました。

 小野小町は絶世の美人であり、歌人としても有名であった。晩年に東国へ下る途中この岡部宿に泊ったという。

 小町はこの橋の上に立ちどまって、夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に映すと、そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして、過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだと言う。

 こんな事があって、宿場の人たちはこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名づけたという。


【五智如来像】 町指定文化財(昭和48年4月指定) (右側) 14:48

 途中「正鷹院」を軽く覗いて、岡部町役場前で県道に再び合流します。

 県道に出たところのバスターミナル裏に「五知如来像」が横一列に並んで座っています。新旧の像が前後に五体ずつありますが、古い如来は新しい如来の後ろに隠れています。

 誓願寺の境内で街道に面して安置されていましたが、寺が移転したため現在の場所に移されました。

 地元産の三輪石で作られ、石造りの五智如来像としては大きなもので二組あります。一組は宝永二年(1705)に陸奥棚倉城から駿府田中城に移られた内藤豊前守弌信の家老脇田次郎左衛門正明が同年に寄進したもの。もう一組は、明治の中頃、鬼島の森川重蔵と静岡市寺町の藤田権三郎が作ったものです。

 宝永二年に田中城主となった内藤豊前守弌信には、上手く話のできないお姫様がいました。殿様と奥方にとっては、このことが大きな悩みとなっておりある日、静岡の宝台院で徳川家の奥方にこのことを話すと奥方は「岡部宿にある誓願寺の本尊である阿弥陀さまにお願いすると良い」と教えてくれました。

 そこで早速、奥方は家老を連れてこの寺に参り願をかけました。お参りを続けた満願の日、お姫様は自由に口がきけるようになり、数年後には立派な大名の許へ嫁ぎました。

 殿様はこのことにいたく感激し、誓願寺へ田畑を、家老の脇田次郎左衛門は五智如来像を寄進しました。

   向かって右から

 阿弥陀如来  釈迦如来  大日如来  阿閦(あしゅく)如来  宝生如来

     岡部町教育委員会


【岡部宿の松並木】 

 五智如来像の先、県道81号線に入るとしばらく立派な松並木が続き、「東海道岡部宿の松並木」の標柱も立っています。

 やがて国道1号線藤枝バイパス(高架)にぶつかった交差点の道路側に、茸型の常夜燈が建っており、高架を背にした裏側に「これより東海道岡部宿」の石碑が貼りついていました。岡部宿京側の入口です。ここで15:05。


【岩村藩領傍示杭】 (右側) 15:08 

 藤枝バイパスをくぐったらすぐ斜め右へ国道1号線から離れて進むと、すぐあります。

 二方が竹造りの塀に囲われて太い木柱が立っており、「従是西巌村領 横内」と書かれていました。

 この杭は、江戸時代享保二十年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領であったことを標示した杭を復元したものである。

 岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城として松平能登守が三万石の領地を持っていた。

 駿河国に十五ヶ村、五千石分の飛領地があり横内村に陣屋(地方役所)を置いて治政を行っていた。

     横内歴史研究会

 旧街道沿いの民家には真新しい屋号が掲げられています。

 横内橋を渡り、仮宿交差点で再び国道1号線に合流する手前に「従是東巌村領 横内」の傍示杭が立っています。ここまでが岩村藩で850mしかありません。


【一里塚跡】 史跡 (左側) 15:42 

 国道1号線に合流したら、次の八幡信号の手前で斜め左へ、再び県道208号線に入ります。

 右手に竹細工の人形が飾っている民家の先、左手の小さなアパート前に一里塚跡の木柱のみ立っています。

 木柱の側面に「東海道百八十里塚 江戸から四十八番目」と書いてありますが、百八十里は何かの間違えでしょう。約百二十六里のはずです。赤穂まで行っても百七十里とのことですから。


【須賀神社 】 (右側) 15:55

 

 八幡橋を渡って右へ、川沿いをしばらく行くと、右手に巨木が見えてきます。須賀神社内にある大楠で、樹齢約500年の老木は治療の痕がありますが壮観です。

【須賀神社のクス】 静岡県指定天然記念物(昭和33年9月指定)

 このクスは樹齢およそ500年で、県下でも有数の大きさを誇り、御神木として大切にされてきた大木です。旧東海道の脇にあって、古くから往来する人々を見守ってきました。近くには「東海道中膝栗毛」などにも名所として登場する鐙ヶ淵など、東海道ゆかりの史跡があります。

 樹高:23.7m  根廻:15.2m  目通:10.9m  枝張:東西21.2m 南北27.9m

 (データーは指定の時の数値)

     平成13年 

 


【鐙ケ渕(あぶみがふち)と観音堂】 史跡 (右側) 16:00 

 須賀神社のすぐ先にあり、奥にお堂が建っています。現在渕は無く広場になっています。

 此処の広場は、元葉梨川の渕でその形が馬具の鐙に似ていたので古来より鐙ヶ淵と呼称されていた。

 崖上の観音堂は通称山之堂と言われ人々に親しまれて来た。御本尊は蛇柳如意輪観世音菩薩と言い、お腹篭りという珍しい尊像で胎内仏は、平安時代中期の名僧で恵心僧都の御作と伝えられる。昔から子宝、安産等に霊験あり婦人の参詣者が絶えなかったという。

 昔、渕のかたわらに柳の大木が有りその木に触れたものは、浄土往生の志を覚え渕に身を投げたという。人々はこれを「人取り柳」と呼び恐れて近づかなかった。後に聖僧により切り取られ一体の観音像として鐙堂の御本尊となる。(鐙堂略縁起より)

 伝説に依れば徳川家康は戦勝祈願の為、愛用の鐙を渕に沈めたという。(鐙堂略縁起より)

 弥次喜多道中で有名な十辺舎一九は「東海道中膝栗毛」三篇の中で鐙ヶ渕の歌を詠んでいる。

   ここもとは鞍のあぶみが渕なれば

    踏んまたがれて通られもせず

     奉納者・松本宏雄・下山馨・重山春男・丸子丁子屋・檀家世話人一同


【藤枝宿東木戸跡】 (右側) 16:15

 観音堂を過ぎたS字カーブの先、「水守」の交差点で国道1号線を斜めに横断すると、藤枝宿に入って行きます。

 右側の歩道に「東海道藤枝宿東木戸跡」の木柱があり、側面には「領主番所跡」と書いてあります。

 どこでもそうだが、この様な標柱の正面は道路の方に向いていることが多く、歩行者は車道に出なければ読むことも、写真を撮ることもできない為、いつも妻に車を見張ってもらいながら撮影しています。車から分かるようにするのは良いとするが、歩行者の為に歩道側にも同じ文字を書くべきだと思います。


【成田山 不動寺】 (右側)  

 「東木戸跡」のすぐ先、本町4丁目にあり、県下唯一の成田山です。

 残りの旅の安全を祈願して先を進めると、信号を越えた所に「藤の里・歴史探訪 東海道藤枝宿絵図」が掲げられていました。

 旧東海道沿線の史跡や神社等が載っています。


【蓮華寺池 公園】 (右奥) 16:45 

 大きな蓮華寺池があり、藤の花で広く知られている総合公園です。

 かなり大きな公園ですが藤の季節でないので入口部分から池を見ただけで、そのまま公園側から蓮生寺に入りました。


【蓮生寺】 (右側) 16:52

 本町一丁目にあります。

 本堂の裏手には、樹や枝が複雑にねじれている天然記念物のイブキがあります。

 源氏の武将・熊谷直実(後に出家して蓮生法師)ゆかりの古刹。

 山門は、文化八年(1811)、田中城主本多正意によって寄進されたもの。

【蓮生寺のイブキ】 藤枝市指定天然記念物(昭和32年3月指定)

 イブキは、ヒノキ科の常緑高木でビャクシンともいわれ、幹がねじれる性質もある。雌雄異株であるが、蓮生寺のイブキは雄株である。球果は熟して紫黒色となる。

 蓮生寺のイブキは、明治36年1月木町から出火した大火のため一部類焼したが、その後授樹勢を復活し今日に及んでいる。

 根廻:1.65m  目通:1.55m  樹高:6.8m  枝張:東西7m 南北7m

     藤枝市教育委員会

 蓮生寺隣の駐車場に、大きな秋葉山常夜燈と「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。

島田宿(宿境まで二里九町) ← 藤枝市 藤枝宿(長楽寺町) → 岡部宿(宿境まで一里十四町)



  20回目の旅終了(17:00)「蓮華寺池公園前」バス停。 ◆本日総歩数:27,600歩

 ラッキーなことに1分でバスが来て「宇津ノ谷口」まで戻りました。5時間掛かって歩いた道がバスでは20分でした。

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