江尻宿・府中宿(前半) (清水駅→静岡駅) <旧東海道18回目>

2003年2月8日(土)晴のち薄曇

 道草することも大きな目的なので、旧東海道の近くだが歩くには遠すぎるという所も別途訪れることにしています。今回も 自家用車で家を出て、午前中「三保の松原」、「日本平」、「久能山東照宮」を回わってきました。午後からは車をJR清水駅前スーパー西友の駐車場に置いて街道の続きを歩きました。

  (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「由比(後半)・興津宿」 ← 「目次」 → 「府中宿 (後半)・丸子宿」


【三保の松原】 

海岸側から見た、羽衣の松

 霊峰富士の眺望絶佳をもって天下に識られているここ三保の松原は遠く万葉歌人に詠まれ、また日本の伝統芸術である能楽「羽衣」によって多くの人に親しまれている名勝地で、大正五年五月日本新三景の一つに選ばれ記念碑が建っている。

 四時緑たたえる東遊の駿河舞を偲ばす。また欧州各地に「羽衣」を演じまた見せ、三保の松原にあこがれながら若くして逝ったフランスの舞姫ジグラリスの碑などが観光客に美しい夢を抱かせる。

 大正十一年三月八日、国の文化財名勝地指定。

     清水市教育委員会

 

三保の海岸から望む富士山

【羽衣伝説】

 その昔、三保の松原のとある松の枝に美しい衣が掛かっていました。漁夫の伯梁がそれをとって帰ろうとすると、どこからともなく天女が現れ、それは私のものだから返して欲しいと言います。それならばなおさら返すわけにはいかないという伯梁に、天女は天に帰れないと嘆き悲しんだ。伯梁は天人の舞を見せることを条件に羽衣を返すと、天女は喜んで舞を踊って見せましたが、やがて霧の彼方に消えてしまいました。

【エレーヌの碑】

 日本の能楽「羽衣」に傾倒したフランスのバレリーナ、エレーヌ・ジュグラリスは、1951年7月憧れの三保の松原を見ぬまま、パリで没しました。この碑は、「私の髪を羽衣の松近くに埋めて欲しい」という遺言により建てられたもので、この碑の下には彼女の遺髪が埋葬されています。


【日本平】 日本観光地百選

 日本平の中腹の展望台から富士山と清水港、三保の 先端が見えます。広重の 「江尻・三保遠望」は俯瞰図なのでここから見る景色に近いです。下記「江尻宿」で広重と並べている現代の風景はこの展望台から写したものです。

 頂上まで行くと海は見えません、但し頂上の展望台には登っていないのでそこからどの様に見えるのかは分かりません。


【久能山 】 国指定史跡

 日本平 に車を置き、ロープウェイで久能山に行きました。

 久能山は日本平とともに太古海底の隆起によって出来たもので、長い年月の間に浸食作用等のため堅い部分のみ残り、現在のように孤立した山となったが昔は日本平と続いていた。

 高さ270m、前面は眼下に駿河湾を見下ろし、東は近くに伊豆半島を西は遥かに御前崎を一望できる山です。

 また、久能山は徳川家康が遺言により埋葬されている場所で、神廟と言われる墓は境内の一番奥、東照宮の後ろにあります。さすがに立派な墓です。

 訪れた日は、寒桜と紅梅が満開でとても見事でした。 御朱印をいただく 『久能山東照宮』。

緋寒桜が満開でした

唐門(社殿入口)

徳川家康の墓(社殿の裏)


【久能山の歴史】

久能寺

 久能山には、古く平安時代初期に開創された「補陀落山久能寺」(天台宗のち真言宗)があり、山の上には多くの僧坊が建てられていた。久能山は、周囲を断崖絶壁に囲まれた天然自然の要害の地をつくる孤立した丘陵となっており、南北朝時代の観応の擾乱(じょうらん)(1350〜1352)や室町時代の今川氏の内紛花蔵の乱(1536)などに際しては兵が立て籠もることがあり、次第に寺院城郭としての一面を持つに至った。

久能山城

 駿府に攻め入った武田信玄は、永禄十二年(1569)に要害の久能山にあった寺院を移し、本格的な山城を築いた。この久能山城は、武田氏の北条氏・徳川氏への備えの重要な役割をになった。

久能山東照宮

 元和二年(1616)四月、大御所徳川家康が駿府城にて薨去(こうきょ)。家康の遺言により、御尊骸を久能山に埋葬。二代将軍秀忠が山の上に本殿等諸建造物の造営を命じ、久能山城を廃して久能山東照宮を創建した。

 このように久能山は、寺院・城郭・神社という宗教、戦略上の重要な拠点として、歴史の表舞台に登場したのであった。

【久能山東照宮】 国指定重要文化財

 久能山には、推古天皇のころ(592年〜628年)、久能忠仁が建立したと伝えられた久能寺があり、奈良時代の僧行基を始め、静岡茶の始祖といわれる聖一国師など、多くの名僧が往来し隆盛をきわめた。

 下って永禄十一年(1568)駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を清水市(今の鉄舟寺)に移し、この要害の地に久能城を築いたが、武田氏の滅亡とともに徳川氏の領有するところとなった。

 徳川家康は、大御所として駿府に在城当時「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれる。死後、その遺言によりここに葬られ、二代将軍秀忠によって社殿が造営された。日光東照宮へは、ここから御霊の一部を移したといわれている。

 権現造り総漆塗り極彩色の社殿は、国の重要文化財に指定されており、彫刻、模様組物等、桃山時代の文化の影響を残しながら、江戸初期の特徴をよく表している。そのほか、神庫、神楽殿。鼓楼等の建物も重要文化財に指定されている。

 みどころ   博物館、神廟、勘介井戸、石段等

     静岡市

 

【楼門】(重要文化財)

 前面の後水尾天皇御宸筆の「東照大権現」の額が掲げてあるので勅額御門とも称え、左右に極彩色の随身を後面左右に生彩色の狛犬と獅子が据えてある。

【家康梅】

 徳川家康は生前梅をこよなく愛し中でもこの家康梅は、水戸の初代藩主頼房(家康 十一男)の出産を祝い無事成長を祈り家康自らの手で植樹された。

 当初、浜松城内で栽培されていたが、後に水戸へ移された。その後、静岡の丸子梅園にて接木を施し育成したものを、由縁深き当宮に移されたものである。

【八房梅】

 この八房梅(紅梅)は家康が生前愛賞され、三百数十年の樹齢を保ったが惜しくも枯れたので、これを分けて育成していたものを当宮 三百五十年の大祭に当たり奉納されたものである。

【社殿】(重要文化財)

 久能山東照宮の中でも最も重要な建物である。元和三年(1617)に造営された権現造りで拝殿、石の間、本殿の三棟からなっており、建物、彫刻など総漆塗、極彩色を施し、桃山時代の技法をとりいれられた江戸初期の代表的な建物である。

【神廟】 重要文化財

 家康公は元和二年(1616)四月十七日に薨去せられ御遺命によってこの地に埋葬し奉った。

 廟の高さ6m。西向きになっている。

 

 帰りには、東照宮で結婚式を挙げるカップルが乗った化粧仕立のロープウェイとすれ違った。これが久能山で結婚式を挙げる人の売りなのだろう。しかし、久能山駅に着いてから社殿までの長い階段道は普通の人にはそれほどでもないが、文金高島田の花嫁には大変だと思いました。


【江尻宿】 江戸から41里半17丁(164.8Km)、京へ83里 21丁 人口約 6500人 

安藤広重の東海道五拾三次之内・江尻『三保遠望

駿河湾に突き出た三保の松原に囲われた清水湊は天然の良港。

この絵はこれらを俯瞰して描いている。人物のない珍しい絵である。

日本平中腹の展望台から見る現在の風景

 

【舟の話】

 江戸は生産力のない消費専門の都市であったので、江戸の物資の多くは上方から船で運ばれていた。

 これらの「菱垣廻船(ひがきかいせん)」は、通称「千石船」と呼ばれた和船で真ん中に大きな帆柱があり1枚帆が特徴である。

 1石は150Kgであるから、千石とは150トン積めることになる。千石の米を大阪から江戸まで馬で運ぶとなると、1250頭で10日〜15日かかることになるそうです。米だけではなく、何でも運んだ船だが、後には酒を専門に運ぶ船も出来た。

 途中、清水湊のような寄港地が沢山あるとともに、風向きや天候を観測する日和山も沢山点在していた。当時も湾内の状況や天候が読める今で言う水先案内人がいて、船の出港を司っていた。

 当時の江戸では、上方からくる物を「下りもの」と呼んでいた。それに対し、江戸で作られた品質の悪いものは「下らないもの」と云われた。


 清水駅傍の西友に車をとめて、7階のラーメン屋(西友内で食事が出来る所は一店しかなかった)で昼食後、前回終了した地点(西友の裏)を本日の出発点とし、13:00スタート。

 駅前大通りを過ぎて、JRのガードが見える手前の清水銀座商店街を左折。2つ目の橋(四隅にカッパの像がある)が右側に見えたら右折して下さい。


【稚児橋】 13:17

  

 巴川に架かる 2001年8月完成の橋。四隅の親柱にそれぞれ異なった子供の河童の像が飾ってあります。

【稚児橋の由来】

 慶長12年(西暦1607年)徳川家康の命により、東海道五十三次沿いの巴川に橋が架けられ、江尻の宿にちなんで江尻橋と命名されることとなり、渡り初めの日とはなった。 さて儀式に先がけて、かねて選ばれていた老夫婦がまさに橋に足をかけようとした瞬間、川に中から一人の童子が現れたとみるやするすると橋脚を登り忽然と入江方面へ消え去った。渡り初めに集まっていた人たちは、あまりに突然のこととてあっけにとられたが、このことから橋名を江尻橋から童子変じて稚児橋と名付けられたといわれている。 なおその不思議な童子は巴川に住む河童だったとも語り継がれている。

 清水の名物、いちろんさんのでっころぼう人形の中に河童がいるのは、この伝説による。

 渡り終えた所に「船高札」の案内と「河童のこしかけ石」があります。

 

【船高札】

 徳川時代の初め頃、河川交通の重要な場所であった巴川畔のこの附近に現在の掲示板にあたる「船御高札」が建てられていました。記録によると、正徳元年(1711)六月に代官より、この町に船高札が御下渡しされました。

     定

一、公儀の御船(官船)は無論、諸国回船共すべてに暴風などの時には、助船を出して難破させない様にする事。

一、船、破損せる時は、近くの浦の人達は力を合せ、荷物、船具等を引揚げる事。褒美として海船には浮いていた荷物は二十分の一、沈んだ荷物は十分の一を、川船には、浮荷物の三十分の一、沈んだ荷物は二十分の一を引揚げた者に遺すと     他五條略

 明治の初め、取り払われました。

     平成二年三月 入江まちづくり推進協議会

【河童のこしかけ石】 (左側)

 平成三年秋の台風により石垣が崩れ、修復工事を行った時、五つの石が掘り出され、誰言うことなく、稚児橋のかっぱ伝説にちなみ「河童のこしかけ石」と呼ばれる様になりました。

 これらの石は、駿府城を築くため、石垣の石を伊豆から運んだとき、巴川に落ち、そのままになったものと思われます。

 昔、巴川は駿府への大切な交通路でした。その証として、この石をここに置くことにしました。

     平成四年十月吉日 入江まちづくり推進協議会


< 土産> 羊羹★★★

 稚児橋を渡って190m先の Y路地を右方向に入り800m程行くと、左側に赤い大暖簾の「追分 羊かん」があります。この店の創業は元禄八年とのことで、造りは外も内も古風です。店内に入ると緋毛氈の長いすが置いてあり、お茶と名物の羊羹を出してくれます。店の人は一段上がっている畳に座って対応してくれます。

 追分羊羹の特徴は竹の皮包 みのむし羊羹で素朴な野趣と竹の皮の香りの深く染み込んだ味です 、なにも入っていないものときざみ栗入りの2種類があります。どちらも一本800円。

 お土産に「きざみ栗入り羊羹」3本と 本日のおやつ用として「うぐいすもち」2個購入しました。

 

〔追分羊羹の由来〕

 江戸三代将軍家光のころ府川のあるじ箱根の山中に旅に病める明の僧と出合いこころあたたかく介抱。

 やがて病癒えたかの僧は感謝の涙とともにあずきのあつものづくりの秘法をねんごろに伝授して去った。

 それがそもそもこの追分羊羹のことの発(おこ)り。

 ひたすらな善意と素朴な感謝がいみじくも交流したところからこの羹(あつもの)の風味は生まれ出で、爾来300年ひとの口にひとつのこころにしみじみわたってきている。

 つゝましくほのぼのと いまも。  詩人 長田恒夫(清水市)

 


【追分道標 】 (左側) 13:35

 追分羊羹本店の手前角に建っています。 (右上の写真)

 正面には「是より志ミづ道」と彫られていました。


【延寿院 不動堂】 静岡県指定文化財(建造物) (右側) 13:45

 追分から200m先に室町時代に建立された不動堂があります。

 この堂は、室町時代末期の優美な建築様式を保つ方三間堂で 、細部には江戸時代初期の手法が見られます。

 寛文八年(1688)に大内霊山寺の旧本堂を移築したものと伝えられています。当初は茅葺の屋根でしたが昭和四十八年の解体復元工事により、茅葺形銅板葺方形造に改められ ました。

 昔から、東海道を行き交う通行人や郷人の憩いの場、願所として親しまれ守られています。

     入江地区街づくり推進協議会


【都田一家諸精霊供養塔】 (左側)  13:47

 延寿院のすぐ先にあります。

 春まだ浅き文久元年(1861)正月十五日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討った。その是非は論ずべくも無いが吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐み里人が供養塔を最期の地に建立して侠客の霊を慰さむ。

 此処を訪れる諸士は彼のために一掬の涙をそそぎ香華を供養されるならば、黄泉の都鳥もその温情に感泣するであろう。

     入江地区街づくり推進協議会 清水観光協会

 供養塔のすぐ先に「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。    

府中宿(宿境まで二里七町) ← 清水市 元追分 → 江尻宿(宿境まで七町)


【金谷橋】  13:50

 やがて大沢川に架かる金谷を渡りますが、ここに橋の案内板があります。

【追分と金谷橋の今昔】

 昔からこのあたりは、東海道と清水湊への道「志ミづ道」の分岐点であることから「追分」と呼ばれていた。

 周囲には数軒の家が並び街道の両際は松並木が続き、その外側には田んぼが広がり遠くには富士山が望めた。

 往来の旅人は土橋であった金谷橋を渡ったが、重い荷物を運搬する牛馬は橋横の土手を下り渡川して土手に上り街道に合流した。

 古来、牛道と言われた名残りを今にとどめている東海道の史跡である。


【東海道の案内板】 14:05

 JR東海道線と静岡鉄道の踏み切りを渡り、静鉄の狐ヶ崎駅そばに案内板があります。

 東海道という言葉は崇神天皇十年九月、四道将軍として武淳川別(たけぬなかわわけ)東海(うみつみち)に派遣した日本書紀の記事に始まる。ヤマトタケルが東征の道に草薙剣の物語りを残し、古代大和朝廷確立と律令国家のための重要路として、防人(さきもり)達が遠く九州に下り、調(ちょう)を積んだ荷駄が大和に向けて通ったことであろう。

 中世には「いざ鎌倉」のために整備され徳川時代になり東海道に松並木を植え一里塚を築き整備された。慶長十二年(1607年)徳川家康公の命により、当時の東海道は今の北街道を通っていたものを七日市場の巴川に大橋(現在の稚児橋)を架け追分上原を通り駿府横田迄駅路(正規の道)となった。善男善女が旅を急ぎ、大名行列が通り村人は助郷の課役に難渋し、幾多の物語を残した東海道も国の発展と共に昔日の面影は消えてしまったがここに日本の歴史と共に歩いて来た古道が有ったことを末永く記憶の中に留めておきたい。

     昭和五十九年一月 有度まちづくり推進委員会 有度公民館歴史クラブ


【上原子安地蔵堂】 左側)  14:10

 上原の町に入ると一段高いところに地蔵尊があります。

【上原延命子安地蔵尊由来略記】

 上原延命子安地蔵尊は、古来世の人々の、長寿、安産、子育、安全の守護として、近隣の人々の信仰を集めて来た。創建時代は明らかではないが、焼失した木像の御本尊は、行基菩薩作との伝説があった。之に従えば奈良時代となる。然し庶民一般に地蔵信仰が普及し、各地に地蔵堂が建立されるようになったのは、鎌倉時代とされている。

 上原の古地名は地蔵原ともいわれていたが、室町時代後期には既に正式に上原の地名が用いられている。これ等の事を思い合せれば、創建は鎌倉時代或はそれ以前と考えられる。

 永禄十一年十二月(1568)武田信玄が、駿府の今川氏真を攻める時、本体の部将、山県昌景の部隊がこの地蔵堂を中心とする、上原の地に宿営布陣した記録がある。

 次いで天正十年二月(1582)徳川家康が、武田勝頼を攻めるに先立ち、武田の宿将江尻の城主穴山梅雪と、この地蔵堂で会見した。その結果梅雪は家康に降り、武田氏滅亡の切掛となった。

 元和元年大阪夏の陣の直後、秋十月(1615)吉川福聚院の住職明眼和尚の尽力と、付近住民の協力により、荒廃していた地蔵堂も立派な堂宇として再建された。

 然しこの堂も明治二十四年九月(1891)、何者かの失火により、御本尊と共に焼失した。以来地蔵堂は、間口1.2米、奥行1.8米程の仮堂で、四十一年間を過ごすことになったのである。

 昭和七年四月(1932)上原区民の、長い間の悲願であった地蔵堂も、区民四十余年に亘り積み立てた浄財により立派に再建され、今日に至っている。

(後略)


【十七夜山千手寺】 14:15

 地蔵堂のすぐ先にあります。 


【草薙一里塚】 (右側) 14:25

 広い通り(県道407号線)に出たら、右側ショッピングセンターの前に碑があります。隣に大きな狸の焼き物が立っています。

【一里塚の由来】

 一里塚は徳川幕府より慶長九年(1604年)大久保長安を一里塚奉行に命じ一里(3920m)を三十六町と定め東海道・中山道に一里塚を築いた。東海道は江戸(今の東京)日本橋を起点に京都までの120里(約470Km)の道の両側に松並木を植え、一里毎に塚を築き此処に榎を植え目印とした。

 草薙一里塚は江戸より四十三里(170Km)の処で四十三番目の塚です。道を挟んで南塚が在り一対となって居た。塚は五間(9m)四方高さ一間(1.8m)と大きなもので塚の脇には高札所があり、榎の大木の枝が繁り街道往来の大名の参勤・飛脚・旅人の道しるべ・休息所等と成って居た。

 榎の木蔭で旅の疲れを癒した旅人達が「府中(駿府、今の静岡市)二里半あと一息だ頑張ろう」と道中合羽に三度笠、振り分け荷物を肩に、旅立つ姿が偲ばれます。

 因みに一里山の起源は此の地に一里塚が築かれており一里山と呼ばれる様になった。


【草薙神社鳥居と道標】 (左側) 14:37

 広い通りをしばらく行くと、左側に大きな鳥居が見えてきます。その下に小さな道標が立っており、「くさなぎ大明神の道」、「従是草薙大明神江有道」 、「元禄十二年十一月吉日」と彫られていました。。


【草薙神社】 (左奥) 15:00〜15:30

 大鳥居から左に真直ぐ、1.3Km入った所にあります。

 古事記や日本書記に登場してくる『日本武尊(やまとたけるのみこと)』を祀った神社で、『草薙の剣』ゆかりの地です。

 神社に向うときは下記龍勢煙火を見ながら20分かけて歩きましたが、帰りは運よく30分間隔の路線バスに乗ることができ、楽して元の街道まで戻れました。

 山門を入った左側の御神木は、樹齢1000余年の大楠で、現在根元が朽ちかかった状態で傾いています。その根っこはまるで龍がのたうち回っているように見え、一見の価値があります(写真参照) 御朱印をいただく『草薙神社』。

【由緒】 景行天皇第二皇子日本武尊を祀る神社。

 国史社伝によれば尊は東国の蝦夷が叛いたので、之を平定するため吾嬬国(あづまのくに)に赴く途中、このあたりで逆賊起こり原野に火を放って尊を焼き殺そうとしたので尊は出発の折、伊勢神宮に参拝し倭姫命より戴いた佩用の剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払う様に唱え、祓ひて剣を振り、あたりの草をことごとく薙ぎ払った処で手打石により火をつけた。その火は逆賊の方へ烟りなびいて、尊は無事にこの難をきり抜けられました。

 その後、佩用されていた天叢雲(あまのむらくも)の剣を草薙の剣と名称を変更になり、尚、尊を焼き殺そうとした時に尊が草を払われた処を草薙と言われる様になりと、語り伝えられている。

 その後景行天皇が日本武尊の勲功の地を尋ねようと、五十三年(123)八月に天皇は郡郷に詔して曰く「冀(こいねがわ)くば、日本武尊の征定された国郡を巡視する」そこで天皇は直ちに出発せられ、先ず伊勢に行幸され、次いで東国に向はれ九月二十日に当地に御着になり尊の奮闘の跡を封じて御親しく一社を建立し、日本武尊を奉祀し、御霊代として、草薙の剣を奉納されました。

 その後草薙の剣は第四十代天武天皇の朱雀元年に勅命により現在の熱田神宮に奉祀されました。

【御神木】 清水市指定天然記念物

 樹名  大楠

 樹齢  1000余年

 樹高  6m余

 周囲  20m余

 この大楠は樹心は朽ちて外皮を残すのみと雖(いえど)も今尚枝葉は繁茂し御神木の威厳を保っている。

 昭和三十七年九月十七日清水市指定文化財の天然記念物に指定された。

 


龍勢(流星)煙火】 静岡県指定無形民族文化財(昭和59年3月指定)

 草薙神社に向かう途中に案内板と、その先小さな川に架かっている日本橋の手前左側に実物大模型が置いてありました。

 長い竹ざおの根元にかなり大きな弾頭が取り付けられていました。草薙神社入り口と境内にも案内があります。

 

 

【由来】

 戦国時代の天文十二年(1543)初めて火縄銃と黒色火薬が伝来したのち、城攻め用の「火矢」から転じて「のろし」が考案された。「昼のろし」(龍勢)は煙や布きれ又は旗などを漂わせて「夜のろし」(流星)は光で合図しあうものであった。駿府城と久能東照宮の守りとして、この技法が当地に口秘伝のまま受け継がれきて、更に工夫改良され、安政年間からは日本武尊を祭神とする草薙神社の秋の季例大祭日( 九月二十日)に打上が行われ現代に伝わっています。

 

【龍勢(流星)煙火の仕組み】

 この龍勢(流星)は「のろし」に始まったと言われます。約15mもある尾竹竿に、ロケット式火薬噴射竹筒を結びつけ、その上端部に各種の変化花火を仕込んである仕掛筒を固着した構造です。

 発射ヤグラに掛けロケット式火薬噴射竹筒に点火、火薬の燃焼ガスの大音響とともに、自力により上昇展開する仕組みになっている。龍勢花火の製作・打上げは保存会員より実行される。

     昭和六十年二月 草薙神社龍勢煙火保存会・有度まちづくり推進委員会

 

 大龍勢のサイズ:全長16m。全重量25Kg。黒色火薬3Kg。打上高度300m。

 毎年9月20日に近い日曜日又は祝日に、昼の部(龍勢)は15時頃〜、夜の部(流星)は18時頃〜打ち上げているようです。


【東光寺】 (左側) 15:42
 旧街道は大鳥居より一本左の道になります。大通りに平行して突き当るまで行きます。

 東光寺はその途中にある新しい寺ですが、門前には「日本一石仏だるま」と称する達磨大師の像が立っており、そばに近寄ると念仏を唱えます。

  境内にもたくさんのユニークな石仏があったり、中国の友人から贈られたという「再見(サイツェン)かえる」などがあり、楽しいお寺です。トイレあり。

 横浜は咲き始めたばかりなのにこのあたりの梅はもう満開でした。草薙地方はやはり暖かいのだろう。


【旧東海道記念碑 】 16:07

 東光寺の先、東名高速をくぐって、突き当たったら右折して大通りを横断して下さい。静岡鉄道の県総合運動場駅の前を斜め左に進み、JR東海道線にぶつかったところに 碑があります。

【記念碑由来】

 東海道は昔このあたりを通り、西は古庄へ東は国吉田へと通じておりました。これは古来より主要街道の一つであり、府中(静岡)生まれの十返舎一九が書いた東海道中膝栗毛の中で、弥次郎兵衛喜多八が滑稽な旅をしたことでも知られております。

 国道一号線(静清国道)が整備されたことから交通量も減り、旧東海道と呼ばれるようになりましたが、昭和三十七年、国鉄操車場の建設により、栗原の西側が分断され、さらに静清土地区画整理事業による新しいまちづくりが行われたことから、栗原地内の旧東海道もその姿を消すことになりました。

 その昔を偲び、なおかつ旧東海道と共に発展してきました「栗原」の歴史を正しく後世に伝えたいとの願いを込めて、この記念碑を建設することにいたしました。

 尚、この記念碑のみかげ石は静岡市追手町にありました静岡御用邸に使われていた由緒あるもので、昭和初年の御用邸改修の折、栗原町内会が払下げを受けたものであります。

     平成三年五月吉日 静岡中央ロータリークラブ

 旧東海道は、このあたりから伝馬町通りまでJRの線路で寸断されて正確に歩けないので、JR線と国道一号線をそれぞれ3回づつ横断します。

 まず「旧東海道記念碑」右脇の細い「北村地下道」にもぐり、反対側に出たらすぐ左の階段を上がって下さい。目の前の静鉄ガードをくぐったら、右斜めに曲がり、「後久橋」を渡るとマンション前に「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。

府中宿(宿境まで三十町) ← 静岡市 古庄 → 江尻宿(宿境まで一里十九町)

 

 国道一号線に出たら「長沼交差点」で斜め右の道を行きます。交差点手前右側に「道行く人 差なきや」の可愛らしい石碑(長沼仲よし花壇)があります。

 此処は旧安倍郡長沼村字石原坪六番地望月家屋敷跡地の一部である。

 このあたりでは、半分焼いたミカンを棒に通して玄関先に刺している家がたくさんありました。節分の風習なのだろうか?聞いてみたかったが適当な人が見当たらなかった。「長沼一里塚」は見逃してしまいました。寄らなかったが、静鉄の反対側には大きな護国神社がありました。

 再び一号線に出たら静鉄の柚木(ゆのき)駅前を左折してJR線の下を横断。最初にぶつかった道が旧東海道。少し行って再びJR線をくぐり、一号線の曲金交差点を真っ直ぐ進みます。入ったこの道が伝馬町通りです。


【久能山東照宮道 】 (左側) 17:10

 伝馬町に標柱が立っています。

 東海道府中宿(静岡市伝馬町)から、久能山の麓に通ずる久能街道はここから始まります。目の下に青い駿河湾、遠くに伊豆半島をみることができる久能山の頂には、久能山東照宮があり、そこには300年にわたる平和な江戸時代を築いた徳川家康がまつられています。江戸時代、東海道を上り下りする大名たちは、ここで東海道を離れ、久能山にお参りに行きました。幕府に仕えた大名たちにとって、家康は神様と同じに考えられていたからです。昭和20年代まで、この場所には、「久能山 東照宮道」と記した石碑がたっていました。

 もともと久能街道は、久能海岸で作られた塩を始めとする海の産物を駿府に運び込むために、古代から使われてきた、静岡で最も古い街道の一つで、駿府の町に北側から入ってくる安倍街道や藁科街道につながります。そして、町の中央には、東海道が東西に走っています。駿府の町は、南北から生活物資が運び込まれた久能街道や安倍街道と、東西から人や情報が流れ込んだ東海道とが交差するところに発展したことになります。久能街道は古くから、駿府を支えてきた大切な道でした。

 その先右側に今時珍しい「もぐさ屋」がありました。ひさし瓦の上には「艾」の看板。これを読める人は少ないのではないか。


【東海道府中宿 下伝馬本陣・脇本陣跡 】 (左側) 17:15

 静岡駅に近い右側に標柱が立っています。

【東海道府中宿】

 「府中宿」は安倍川に近い新通り川越町から人宿町・七間町・呉服町・江川町そして伝馬町を通って横田町に至る東海道を軸にした駿府の城下町全体を指していました。

 府中宿は東海道の中でも最大級の宿場の一つでした。その府中宿の宿場の役割を担っていたのが、「伝馬町」で宿場の公の施設である荷物貫目改め所や問屋会所をはじめ、上と下の伝馬町にそれぞれ本陣と脇本陣、それに四十三軒の旅籠が建ち並び、賑わいを見せていました。

 徳川幕府による参勤交代の制度が確立されるに伴い、勅使や大名達の宿泊場として各宿場に「本陣」「脇本陣」が設けられました。

 府中宿には、上伝馬町と下伝馬町に本陣と脇本陣がそれぞれ一軒ずつ設けられていました。

 下伝馬町の本陣は、下本陣と呼ばれた小倉家、脇本陣は平尾家でした。


【伝馬町】 

 本陣跡碑のすぐ先に、伝馬町界隈の案内板と「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。

丸子宿(宿境まで一里三町) ← 静岡市 府中宿(伝馬町) → 江尻宿(宿境まで二里二十二町)

【府中宿(伝馬町)界隈】

 伝馬町界隈の歴史的な場所として徳川家康公の外祖母が眠る華陽院や、朝鮮通信使の休憩場所となった宝泰寺や法伝寺、新光明寺などの寺院や、怪力鬼彦の伝説が伝えられている珠賀美神社があります。

 また、古くから久能や高松など駿河湾沿岸の集落との交易の道であって、江戸時代徳川家康公が亡くなり久能山に葬られてからは、参勤交代で往き来する西国の大名が必ず東照宮参詣の為に通った「久能街道」が華陽院門前近くの東海道から始まっています。

 やがて県道27号線と交差した江川町交差点で本日の行程を終了としました。ここを左折すると静岡駅です。



18回目の旅終了(17:30)JR東海「静岡駅」    ◆本日総歩数:21,000歩


<夕食> にぎり鮨 (値段を考えると★★★★)

 駅ビル「パルシェ」6階レストラン街の「沼津 魚がし鮨」で近海にぎり(\1500-、カニ汁付\1800-)を注文。

 「魚がし鮨」は、14回沼津宿で夕食に行った「魚がし」前にある店のチェーン店で、ネタは大きく新鮮で美味い店です。静岡でも有名らしく同じ階の他の店はガラガラでもここだけは並んでいました。また沼津に 食べに行きたいと話していたところ、東京に新装なった丸ビルにもチェーン店が出来たとのことです。

〔後日談〕2004.1.10に新丸ビルの6Fにある店に行ってきました。東京のど真ん中でもランチは安く食べられます。 その後横浜など各地に展開していますが、あまり手を広げて質が落ちないように願う。



  「静岡駅」より東海道線で「清水駅」へ戻り、車で帰宅。

 

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