日光御成街道(6) 岩槻一里塚 ~ 「鹿室」信号

2016年10月29日(土) 晴のち曇

  「岩槻駅」を10:35出発。

(注:解説で街道の左側、右側とは幸手に向っての左右です)

「さぎ山記念公園~岩槻一里塚」← 「目次」 → 「鹿室信号~幸手駅」


【岩槻市の由来 
 岩槻駅を出た所のロータリー右端、『彩の国 人形のまちいわつき』と題する案内板に、岩槻市の由来と周辺のロードマップが掲げられていた。
【岩槻市の由来】
 岩槻市は埼玉県東部のほぼ中央に位置しており、元荒川と綾瀬川にはさまれた岩槻台地を中心に発展した街です。
 当地には室町時代終わり頃に扇谷上杉氏の命に従い太田道灌等によって岩槻城が築かれてからは、その城下町として発展し、江戸時代には日光御成道の宿場町としても栄え、武蔵国東部地域の経済の中心地となりました。
 明治4年(1871)7月、岩槻藩の廃止にともない岩槻県が誕生し、一時期県庁の所在地となったが、同年11月に埼玉県に統合され、以後、東部地域の政治、経済の中心として栄え、昭和29年(1954)には1町6村が合併し岩槻市が誕生しました。
 その後は城下町のたたずまいを残す自然豊かな都市として発展してきております。
 当市の地場産業である岩槻人形は、江戸時代頃から起り、現在その生産量は日本有数の位置を占め、「人形のまち いわつき」として全国にその名を知られております。
     平成10年11月 彩の国 人形のまちいわつき 埼玉県・岩槻市・岩槻市観光協会


【東玉大正館 (左側) 10:42
 駅前通りを進み、「岩槻駅入口」信号で左折して日光御成道に合流。
 「岩槻駅入口」の次の信号を過ぎた左側に東玉大正館が建っている。

【「岩槻大正館」の由来】 登録有形文化財(第11-0109号)
 明治初期、いち早く埼玉県に進出した両替商中井新左衛門商店が、明治十六年に合名会社中井銀行に改組、岩槻出張所を開設しました。
 その後、大正年間この地に現在の煉瓦造りの二階建て店舗を建てました。
 昭和二年、金融恐慌の影響を受け、整理され昭和銀行となりました。
 昭和十九年に安田銀行、さらに昭和二七年に
富士銀行となりました。
 昭和三五年、当時の富士銀行より故戸塚 巌(東玉社長)が譲り受け、現在に引き継がれています。
 岩槻地域においては西洋建築は極めて少なく、大正時代の建築意匠を、今に伝える貴重な建築物です。
 平成十九年十二月五日、国の「登録有形文化財」として登録されました。

【願生寺 (左側) 10:48~10:55
 大正館の少し先、左側に願生寺の標柱が建っている道を左折すると、突当りに真新しい本堂が建っている。
  

 本堂左手の墓地の中に六基の石仏・石塔と並んで阿弥陀三尊図像月待供養板碑が建っている。
  
 説明文と場所は、寺入口の駐車場の手前左側に掲げられている。

【阿弥陀三尊図像月待供養板碑 一基】 さいたま市指定有形文化財(考古資料) (平成17年3月2日指定)
 板碑は鎌倉時代から室町時代にかけて墓塔、供養塔などとして建てられたもので、板石塔婆、青石塔婆ともいわれます。秩父に産する緑泥片岩など、石材に恵まれている埼玉県付近には特に多く見られます。
 現在高七十センチメートル、幅三十三センチメートル。線彫りした阿弥陀如来像しか残っていませんが、欠損した下部の一部に月輪が見えることから、観音菩薩と勢至菩薩を従えた阿弥陀三尊像を図像で表現したことがうかがえます。また、残っている銘文から室町時代から盛んに行なわれるようになった「月待供養」の板碑であったと考えられます。月待供養とは、二十三日などの月の出を待つ民間信仰で、月宮殿におわす月天子を拝み無病息災を願ったもので、さいたま市は、県内でも月待信仰が盛んな地域であったといわれており、この板碑も、当時の民間信仰を知る上で貴重な資料です。
     平成十九年三月 宗教法人願生寺 さいたま市教育委員会

【久保宿町 (右側) 10:57
 街道に戻って、次の信号を渡った右側に久保宿町の説明文付き標柱が立っている。

【久保宿町】
 岩槻城下九町のひとつ。市宿町から渋江町に至る町。日光御成道の両側に広がる町で、上・中・下宿・大工町・旦過町に分かれる。往昔は「窪宿町」とも書かれ、戦国時代には六斎市が開かれたという。
     平成元年七月一日 岩槻市教育委員会

【一里塚跡 (右側) 10:59
 次の十字路右手に、建物が何も建っていない広い敷地(旧岩槻市役所跡)があり、その街道沿い右角に一里塚跡の説明文付き標柱が立っている。

 江戸時代。全国の主要な街道には一里(約4Km)ごとに、榎や松などを植えた塚が道の両側に設けられ、旅の行程の目標とされていました。これを一里塚といいます。
 日光御成道が通っていた岩槻でも、笹久保、岩槻城下久保宿町、相野原(現存、県指定史跡)の三か所に一里塚が設けられていました。その内の岩槻城下久保宿町の一里塚は、現在の岩槻市役所前あたりに設けられていました。日光御成道は、幕府将軍が日光東照宮に参詣する際の通行路として整備された街道です。

【旧役場跡記念碑 (右側) 11:00
 上記敷地の左側の塀(左端に見える民家の塀)の前に、左から合併記念碑(二基)、岩槻町役場跡記念碑と碑文、平和の灯太田道灌公之像が建っている。
  

 合併記念碑、岩槻町役場跡記念碑と碑文

【旧役場跡記念碑の建立について】
 この事業は、昭和六十三年六月定例市議会において、旧一町六か村役場跡地に記念碑を建立することについての請願が採択されたことにより、市政施行三十五周年記念事業の一環として計画し、平成元年度から二か月度にわたって実施した。
 実施に当っては、旧役場跡記念碑建立審議委員会を設置し、記念碑及び碑の建立趣旨、形態、材質、建立位置、碑文等について慎重審議し、成案を得た。建立地は旧町村の役場跡とし、経費は一基二百万円を充てた。市政施行三十五周年に当る平成元年七月吉日をもって、慈恩寺村から工を起し、以後新和・川通・河合・和土・柏崎の各村と順次実施し、岩槻町建立を結びとしてつつがなく完了した。
 この記念碑が広く市民に活用され、旧町村の歴史や先人の業績の理解、及び郷土愛の涵養の資し得れば幸いである。
 よって、ここに一碑を建てて記念碑建立の経緯を刻し、その巧を永く伝えるとともに、併せて当市の益々の発展隆昌を祈念するものである。
     平成二年七月吉日 岩槻市長 斉藤伝吉 旧役場跡記念碑建設審議委員会


 平和の灯と碑文、太田道灌公像。

【碑文】
 一九五三年一町六ヵ村が合併し明るく住み良い郷土の建設を誓い、市民は一致協力し、人形の町岩槻市の庁舎は全市民の期待に応え五億一千万円にて、目出たく完成した。この機にあって「平和の灯」を庁舎建設の記念として建立し、岩槻の灯として全市民の幸福と当市の発展を永久に希うものである。
     一九七一年四月 岩槻市長 折原一謹書

【大龍寺 (左側) 11:05~11:12
 岩槻町役場跡の向かいに大龍寺がある。
 本堂は奥だが、入口(街道沿い)の標柱の前に、六地蔵と享保十年(1725)の庚申塔が建っている。
 庚申塔の
左側面には『奉安置庚申尊像為現生安穏後生善處』、右側面には『兼城邑巷陌結縁四衆平等利濟 享保十龍集乙巳重陽二十六庚申』と刻まれていた。
  

 参道を進んだ先の山門には、見事な龍等の彫物。
    


 本堂の左横の小堂には地蔵と庚申塔が二基ずつ安置されている。
  


【時の鐘 (右奥) 11:18~11:21
 街道に戻り、次の「渋江」信号を右折し、その先左折した所に時の鐘が建っている。
 ちなみに、日光御成道は、この「渋江」信号を左折するのであるが、前回廻れなかった所を寄り道している。

【時の鐘】 岩槻市指定文化財(工芸品) (昭和33年2月21日指定)
 岩槻城下の時の鐘は、寛文十一年(1671)、城主阿部正春の命令で鋳造されました。渋江口に設置された鐘の音は、城内や城下の人々に時を知らせていました。五〇年後の享保五年(1720)、鐘にひびが入ったため、時の城主永井直信(陳)が改鋳したものが現在の鐘です。鐘は一日三回搗かれたとも言われていますが、江戸時代後期には、一日十二回搗かれていたようです(『新編武蔵国風土記稿』他)。
 鐘楼は、嘉永六年(1853)に岩槻藩により改建されており(棟札銘)、方十三、一m、高さ二、一mの塚の上に建っています。
     岩槻市教育委員会

【大手口跡 (右奥) 11:23
 時の鐘入口の、次の道を左折すると、すぐ右側に『広小路』『渋江小路』と刻まれた石柱が立っている。
  


【大手口 (右奥) 11:25
 次の点滅信号がある十字路右角の民家の窪んだ塀に大手口と刻まれた石柱が立っている。
 この十字路の左右の道は諏訪小路である。
  
  


【三の丸跡 (右奥) 11:30
 その先、道は左カーブして、この辺りに大手門があったとのことだが、碑などは無かった。
 程なく、消防署がある所で県道2号線に合流する。その消防署の前に三ノ丸の石柱が立っている。
  


<昼食> 11:35~12:13
 三の丸跡で岩槻宿の寄り道を終え、県道を「渋江」信号まで戻る。
 この交差点の角にある蕎麦屋で昼食をとった。


【渋江町 (右側) 12:15
 「渋江」信号を岩槻駅方面からは左折。
 曲がった御成道は、渋江通りで昔の町屋だった通りである。
 程なく右側に浄安寺の入口があり、その右角に渋江町の説明文付き標柱が立っている。
【渋江町】
 岩槻城下九町のひとつ。渋江口と田中町の間に位置する。中央を日光御成道が貫き、街並みはその両側に広がる。この付近は中世には渋江郷と呼ばれ、町名はここに由来する。
     平成元年七月一日 岩槻市教育委員会
  


【浄安寺 (右側) 12:15~12:28
 上記写真の右手に浄安寺の標柱が立ち、その先に山門がある。
  

 山門をくぐるとすぐ左側に閻魔堂が、正面に本堂が建っている。
  

 本堂左手の墓地に入り、右方向に進むと児玉南柯の墓がある。

【児玉南柯の墓】 市指定文化財(史跡)
 姓は児玉、名、琮、字は玉卿と号し、通称を宗吾といった。武蔵国岩槻藩大岡氏の儒学者である。延享三年(1746)十一月四日豊島俊暠の子として甲府に生まれ、十一才のとき児玉家の養子となる。十六才のとき二代の藩主忠喜の小姓となり江戸の大岡藩邸に勤務し、この間の勉学著しく二十五才の時昌平校(現東京大学)へ入学する。安永七年(1778)藩の領地房州朝夷郡奉行となり、清国の商船の漂流を助け「漂客紀事」を書いた。五代藩主忠政の時、遷喬館を創建した。藩の子弟教育に努力し、その指導方針は民生教育の先駆者として単なる学者を養成するだけではなく、純真な人材を世に出すべく専念した。
 文政十三年(1830)一月四日八十五才で病のため永眠された。
    岩槻に過ぎたるものが二つある
        児玉南柯に時の鐘
     昭和三十五年四月一日指定 岩槻市教育委員会


 墓地に入り、真直ぐ進むと高力清長・竹の局・徳松丸の墓及び供養塔がある。

【高力清長・竹の局・徳松丸の墓及び供養塔】 岩槻市指定文化財
(記念物・史跡) (昭和60年9月3日指定)
岩槻城主高力清長の墓
 高力氏は、武蔵武士熊谷直実の後裔と伝え、三河国(現愛知県)高力郷に住し、高力を姓とした。清長は父祖以来徳川氏に従い武功を挙げ、また清廉潔白の士であったため、家康の信任が厚かった。天正十八年(1590)家康の関東入国の際には、江戸城防衛の重要拠点とせれる岩槻城主に封じられた。入封後の清長は、領民の帰住と掌握に努め、寺社の保護や市の奨励を図り、領内の安定に努力するなど、岩槻発展の基を作った。
徳松丸・竹の局墓及び供養塔
 徳松丸は、徳川家康の六男松平忠輝の子息である。父忠輝は、伊達政宗の娘、五郎八(いろは)姫を妻とし、とかく粗暴の振舞いが多かったため、大御所家康や将軍秀忠の勘気に触れて、改易、蟄居を命じられた。忠輝は妻との間には子がなく、徳松丸は側室の竹の局の子であったが、父の改易に伴い、母子は岩槻城主阿部重次に預けられた。寛永九年(1633)四月十三日、母竹の局(見相院)は卒し、続いて同年五月二十七日徳松丸も没し、共に浄安寺に葬られた。徳松丸の法名は朝生院殿珠晴光空大禅定門と号した。

【田中町 (右側) 12:38
 街道に戻り、東武野田線のガードをくぐり、少し進んだ右側「久伊豆神社入口」看板の直ぐ先に田中町の説明文付き標柱が立っている。
【田中町】
 岩槻城下九町のひとつ。渋江町の北側にあり、町の北端には城下町の出入口があり、田中口と呼ばれた。日光御成道の両側に街並みが広がる。
     平成元年七月一日 岩槻市教育委員会


【出口町 (右側) 12:45
 少し進んだ二股の手前右手に龍門寺の入口があり、その街道沿いに出口町の説明文付き標柱が立っている。

【出口町】
 岩槻城大構の外。日光御成道沿いに広がる町で、田中口より元荒川田中橋までをいう。本来田中町に属するが、江戸時代の終わり頃から大構内と区別されるようになった。
     平成元年七月一日 岩槻市教育委員会

龍門寺】 (左側) 12:45~13:09
 上記写真の参道を入って行くと山門に突当り、その左横に龍門寺の文化財と称する説明板が立っている。

【龍門寺の文化財】
 戦国時代の天文十九年(1550)、小田原後北条氏の重臣佐枝若狭守が自らの館内に開創したのが龍門寺です。そのため、境内の西側と北側に残る土塁は佐枝氏の館の名残りと言われており、山号の玉峰山もこの若狭守の法号に因みます。
 江戸時代には、幕府の祖、徳川家康を祀った日光東照宮に将軍が参詣する日光御成道に面するようになり、岩槻藩主大岡忠光の菩提寺としての歴史を刻んできました。

国指定重要文化財(工芸品) 刀 無銘 伝助真 一口
 長さ七十センチメートルあまり、銘は失われていますが、備前国(岡山県)の福岡一文字派の名工助真(すけざね)の作と伝えられています。豪壮華麗で、鎌倉時代中期の特徴を持っています。岩槻藩主大岡忠光の遺品で、現在は埼玉県立歴史と民俗の博物館に寄託。

市指定有形文化財(歴史資料) 龍門寺所蔵資料 一括
 宝暦十年(1760)に死去した岩槻藩主大岡忠光の墓誌のために、子の忠喜が、後に幕府を批判した思想書『柳子新論』を著した医師兼儒官・岩槻藩士山縣大弐に作成させた「大岡忠光行状記」や大岡忠光公関係甲冑その他や龍門寺の開基佐枝家関係資料、龍門寺経営資料など龍門寺に伝来した資料です。
 現在は埼玉県立歴史と民俗の博物館、埼玉県立文書館に寄託。

市指定有形文化財(建造物) 龍門寺山門 一棟 (左の写真)
 一間一戸で、柱が四本からなる薬医門形式。桁行約三・五メートル、梁間約ニ・四メートルを測ります。本柱は断面長方形の材の長辺を正面に据え、重厚な外観を創出しています。建立年代は明確ではありませんが、建築部材の絵様は江戸時代前半の特徴を示しています。なお、解体修理の際に、東側の破風登裏甲上面で寛政十年(1798)の墨書銘が発見されました。

市指定史跡 大岡家の墓
 江戸幕府側用人で、岩槻藩主大岡忠光(1760年没)の墓。石組の基壇上に巨大な五輪塔を据え、他にも忠光の墓碑や石灯籠を配しています。
 境内南側(山門入って左側)にあります。

     平成二十八年三月 さいたま市教育委員会


 山門を入った左手の墓地入口に、元禄十二年(1699)の十字剣を持つ庚申塔が建っている。
  

 上記写真の道の途中右側(人が居る所)に、山縣大弐先生ゆかりの地と題する標柱が立っている。

【山縣大弐先生ゆかりの地】
 山縣大弐先生は岩槻藩主(侍医兼儒官・藩主補佐役)時代、徳川幕府側用人・岩槻藩主大岡忠光公からの情報をもとに維新の書『柳子新論』を宝暦九年(1759)完成させた。宝暦十年、忠光公没後、当山寺宝の「忠光行状記」(さいたま市指定文化財)を記し、忠光公の墓碑、墓地造営(市指定史跡・境内)に尽力した。なお『柳子新論』は幕末の思想家吉田松陰・久坂原玄瑞にも影響を及ぼした。


 上記写真の突当りに、巨大な五輪塔を据えた大岡家の墓が建っている。

【大岡家の墓】 さいたま市指定史跡(昭和35年4月1日指定)
 江戸幕府側用人で、岩槻藩主大岡忠光(1760年没)の墓です。扉に大岡家の家紋を配した瑞垣の中、石組の基壇上に上から空、風、火、水、地を表す巨大な五輪塔を据え、地輪の正面には「得祥院殿義山天忠大居士」、右側面には「武州岩槻城主従四品前雲州太守大岡氏藤原忠光之墓」と刻まれています。他にも明和事件の中心人物となる山縣大弐が関係した忠光の墓碑や石灯籠が残されています。
 大岡家は三河以来の徳川家の譜代の幕臣で、一族の中からは名奉行として知られる大岡越前守忠相を輩出しました。
 忠光は三〇〇石の旗本の家の生まれでしたが、その才能を発揮して、御側衆・御用御取次、若年寄(奥勤兼帯)、さらに側近として最高職の側用人まで出世し、第九代将軍徳川家重近くに仕えて厚い信任を得、幕府政治を長い間動かしてきました。
 宝暦元年(1751)には勝浦(千葉県)一万石の大名となり、その後加増が続き、宝暦六年には二万石の岩槻城主となりました。
 岩槻城主としての忠光の在任期間は四年と短く、幕政の中心人物として多忙を極めました。宝暦十年四月に亡くなり、後の側用人田沼意次ほか幕閣要人や諸大名が関与する中、僧侶五十人余による盛大な葬儀が当山で行なわれています。
 明治維新まで続く岩槻藩主大岡家八大の基礎を作った名君で、幕藩体制の維持に尽力した忠臣でもありました。
     平成二十八年三月 さいたま市教育委員会


 上記写真の左手に墓碑大岡忠光公行状記の説明板が立っている。

【大岡忠光公行状記】 市指定有形文化財(古文書)
 大岡忠光は、江戸幕府九代将軍徳川家重の寵臣として若年寄・側用人などの要職を務めた。宝暦六年(1756)岩槻城主に封ぜられ、藩領二万石、同十年歿するまで五年間、領下の支配に当った。山県大弐は宝暦四年以来忠光に仕え、よく輔弼の役も果たしたが、同十年四月、忠光が病歿すると致仕、のち明和の変に連座し死罪となった。
 本書は、宝暦十年五月に、藩主忠喜大弐に命じて、父忠光の頌徳の碑文を大学頭林信言に求めた際、大弐が主君忠光の系譜並びに略伝を叙して行状記としたものである。
 内容は、大岡氏の先世から筆を起こし忠光の生涯の功業と事跡や事に処しての恭謙な態度、並びに龍門寺に墓塋(えい)を定めた経緯等を簡潔な漢文体で叙述し、また文中には忠光を敬慕した大弐の心情を窺うことができる。寛政元年(1789)沼野武英は本書を和訳して「得祥院様御行状和解」を作った。
     昭和五十三年三月二十九日指定 岩槻市教育委員会


 山門に戻ると傍に次の文章が掲げられていた。
【幕閣大岡忠光公と龍門寺】
 江戸中期に至り、宝暦7年(1757)、幕府側用人で岩槻藩主の大岡忠光公は忙しい政務の合間をぬって岩槻領内を見分して歩いた。そして龍門寺の付近に来たとき元荒川の清流が蛇行して流れる様があまりにも素晴らしく、「美なるかな山川、寡人寵霊、この邑を有することを得、若し終にここに葬られば、死すとも悔やまず。・・・我死せんの日、魂當に城邑に帰す」と感激し、龍門寺を自己の菩提所と定めたのである。
 大岡家は三河以来の徳川家譜代の幕臣であり、一族には名奉行の大岡越前守忠相がいる。大岡越前守より幕臣としての心得を学び、徳川9台将軍家重に仕え、病弱な将軍を補佐し、幕府政治の安泰のため貢献した。そのため宝暦元年(1751)旗本より大名となり、さらに宝暦6年(1756)、岩槻藩主となり、側用人となるに至った。忠光公が龍門寺を訪れたのは岩槻藩主となった翌年のことである。
 そして、忠光公は、自己の木像を当寺に安置し、墓の側に墓誌を作るよう遺言し、宝暦10年亡くなった。
 ところで、大岡忠光公が当山に奉納した文化財には優れたものがあり、なかでも備前助直作の刀剣(鎌倉時代)のものは国指定重要文化財になっている。
【革命思想家・山県大弐と龍門寺】
 大岡忠光公は経王暦10年(1760)4月23日病没した。その際、忠光公側近の儒学者の山県大弐は忠光公の墓誌造立に深く関係し、さらに忠光公の生涯についてまとめた「行状記」を当山の一室に籠もって書き残した。これが現在当寺に残されている「大岡忠光公行状記」(市指定文化財)である。
 山県大弐は忠光公の家臣時代に藩幕府思想の「柳子新論」を脱稿した。忠光公側近として幕府政治をつぶさに見、その実体験をもとに幕藩体制を痛烈に批判したものである。忠光公没後、当寺に残る行状記を書き記し、岩槻藩を致仕した。そして江戸に出て塾を開いた。そこで、兵学の話として「江戸城攻撃」について議論したため、先の「柳子新論」とあわせて幕府の怒りにふれ大弐に関係した者は捕らえられ、大弐は処刑された。これを明和事件という。大弐の著述は、没後も多くの人に密かに写本として読まれ百年後の明治維新の思想的原動力となった。
 当山に残る「行状記」は、大弐が実践活動に移る、その転機に書かれた日本の近代成立史上の極めて重要な史料と言うことができる。

 次に、山門の右手
(左下の写真)に進むと、本堂手前左に鐘楼、突当りに本堂が建っている。
  
  

 本堂の左手にある墓地の中に関根家の墓児玉南柯撰文の碑がある。

【割元名主関根家の墓・藩校校長児玉南柯撰文の碑】
 関根家は戦国時代は岩槻城の重臣であり、江戸時代には割元名主となる。岩槻藩主に依託され、村々の実際の行政を担当しているのが割元名主である。地域は本宿村を中心とした近隣二十ヶ村、藩領の北半分一万石分に相当する。戦前までは数百町歩の大地主で、代々当山の檀家総代を担当している。なお墓所内には岩槻藩校校長・児玉南柯が当主関根總右衛門のため、その徳を讃えた墓碑がある。
【日展特選・さいたま市名誉市民関根将雄(雅雄)画伯の墓】
 割元名主関根家当主の関根将雄画伯(1919~2013)は東京美術学校(東京芸術大学)日本画科卒業(川端奨学賞受賞)、在学中から日本画院展など数種の展覧会に出品受賞する。戦後、歌川派の伊東深水画伯に師事する。日展入賞二十六回、日展特選・白寿賞を二回受賞、依嘱となり、日本画壇の頂点を極めた。
 埼玉県展運営委員・審査員・埼玉県文化団体連合会会長・宮様が中心の慈彩会理事等を歴任した。岩槻城址の人形供養塚、多数の学校の校章・施設の緞帳のデザインも行なっている。紺綬褒章、瑞宝章、埼玉文化賞、埼玉教育功労表彰、文部大臣地域文化功労賞、埼玉県彩の国特別栄誉賞などを受賞している。

【地蔵尊・庚申塔 (右側) 13:17
 御成道は龍門寺入口から右カーブして「人間総合科学大学」の前を進む。この辺りに田中橋跡の碑があるとのことだが、見つけられなかった。
 次の信号の二股道になっている所に地蔵尊と元禄八年(1695)の庚申塔が建っている。
  


【馬頭観世音 (右側) 13:22
 次の信号を越えた先に、立派な門と塀をめぐらした関根家があり、その南角に馬頭観世音が建っている。
 左側面には『上野村関根金次郎建之』、右側面には『明治廿三年六月廿一日』と刻まれている。
 この辺りには関根という姓が多く見受けられる。
   


【猿田彦大神 (左側) 13:27
 すぐ先の元荒川に架かる「慈恩寺橋」を渡った左側に猿田彦大神が建っている。
 猿田彦は、日本神話で、邇邇芸命
(ににぎのみこと)降臨の際、先頭に立って道意案内をし、のち伊勢国五十鈴川上に鎮座したと云う神。中世に至り、庚申の日にこの神を祀り、また、道祖神と結びついた。
  


石橋供養塔】 (右側) 13:34
 「岩槻工業団地入口」信号を渡った右角に天明元年(1781)の石橋供養塔が建っている。
  


【慈恩寺の道標 (右側) 13:39
 次の信号(手前に飲食店が並んでいる)を越えた二股道に慈恩寺道の道標が建っている。
 年代は分からなかったが、正面像下に『是より右慈恩寺道』と刻まれている。
  


【地蔵堂・馬頭観世音 (右側) 13:44
 「表慈恩寺ハバス停」を過ぎた信号の右手に元文五年(1740)の地蔵堂とその右脇に小さな明治三十年(1897)の馬頭観世音が建っている。
   


【道標兼庚申供養塔 (右側) 14:03
 暫く進んだ「慈恩寺入口」信号を渡った右側民家のブロック塀に引っ込んで宝暦五年(1755)の道標兼庚申供養塔が建っている。庚申塔の上には「慈恩寺観音 ここを右折1.2Km」の看板が掲げられていた。
 正面に『(梵字)奉造立青金剛供養塔』、下部に三猿、右側面に『是より 志おんじミち』、左側面に『此方 よしみミチ』と刻まれている。
   


【道標兼庚申塔・供養塔 (左側) 14:10
 次の信号を越えた左側、パチンコ「アリーナ岩槻古ケ場」店の直ぐ先、樹木の中に引っ込んでいて見つけ難いが、永田家隣の林の中(左下の写真で塀のすぐ後ろ)に文化九年(1812)の道標兼庚申塔と文化十四年(1817)の供養塔が並んで建っている。
 二つの石碑は接して並べられているので、庚申塔の右側面しか見られないが『さって 三り』と刻まれている。左側面は『いわつき 一り』と刻まれているとのこと。
 供養塔の正面には『天下泰平 秩父 奉納西國百ヶ所供養塔 坂東 五穀成就』と刻まれている。
   


【一里塚 
 直ぐ先、と言うかほぼ隣の「オオトモ工業」の凹んだ塀に10番目の相野原一里塚があるのだが、石碑や説明板等が一切無い為、見逃してしまった。
 悪いことに、その先「コメリ」を過ぎた歩道上に、塚の様な石組みに大きな木が聳えていて、これに目がいってしまったことも見逃した理由の一つである。


【庚申塔 (右側) 14:22
 少し先に「鹿室
(かなむろ)バス停」があり、左「和幸流通サービス」の向かいに、祠に入っている明和八年(1771)の庚申塔が建っている。
 鍵が掛かっていなかったので扉を開けて見させて貰った。正面に『青面金剛』と刻まれ、三猿も彫られていた。
  


【宝国寺 (左側) 14:31~14:36
 10分弱進んだ「鹿室宿バス停」の所に宝国寺がある。
 幼稚園の送迎バスが並んでいる参道を入って行くと、左手に綺麗な庭園がある。
   
 
 境内に入ると右手に本堂が建ち、本堂の左手は幼稚園になっている。

【曹洞宗 宝国寺】
 
大本山は福井の永平寺(道元禅師さま)と鶴見の総持寺(瑩山禅師さま)である。
 當寺は上総国葛飾郡山王山村(五霞村)東昌寺の末寺で、龍澤山宝国寺と云う。
 開山は本寺二世の僧、能山聚芸大和尚で、師は永正九年(1512)十一月二十六日七十一歳で没している。
 江戸文九年間(1861~1863)に火災にあい、本堂、古記類は残らず焼失する。当寺の名残りとして鹿室上耕地に、今も寺原と云う地名が残っている。
 現本堂は焼失後に現在地に建立、再興したものである。
 御本尊の釈迦牟尼佛は創建当時のものを修復し、今も檀信徒信仰の拠りどころとなっている。
 昭和二十九年、本堂の破損甚だしく大改築を行なう。(十五世、誓鎧代)
 昭和五十一年庫裏新築、さらに平成八年客殿を新築し現在に至る。(十六世、道淳代)
 *徳川家実記によると、徳川十代将軍家治や十二代将軍家慶等歴代将軍が日光社参の折、門外富士見所で、茶屋を設け休息したと記されている。
     平成十九年年七月吉日 宝国寺十七世俊雄合掌


 正面には子育て安産延命地蔵尊が祀られている御堂が建っている。

【子育て安産延命地蔵尊】
 宝国寺西側の沼地からお地蔵さまが出現したと云われる。ときの住職がこの場所に、霊験新たにお地蔵さまをお祭りする。当時から、祭礼は毎月二十四日で正月の初詣、お嫁さんの村入り、お産の前後、子どものお祝いの祈願には欠かせないお地蔵さまとして、親しまれている。 


 地蔵堂左の塀に鹿室学校在此地の説明板が掲げられている。
【鹿室学校(公立小学校)在此地】
 明治六年五月十日に設置し、村の中央宝国寺を鹿室学校とした。当時の生徒数は六十七人、女子三人であった。
 現在の慈恩寺小学校発祥の地である。
     埼玉県郡村誌より


 地蔵堂左の墓地入口に石仏が沢山並んでいた。
  



 宝国寺の直ぐ先にある「鹿室」信号で本日の行程を終了し、この信号を左折して780m先にある「江戸崎馬場」バス停より朝日自動車の路線バスで蓮田駅に向う。



6回目の旅終了(14:40)。「鹿室」信号。

本日の記録】
 江戸時代の街道のみの距離は、5.5Km(岩槻一里塚~「鹿室」信号)
 本郷追分から、九里十四町(36.9Km) (日本橋からは一里を加える)。
 寄り道を含めた実歩行距離は、10.0Km(岩槻駅~「江戸崎馬場」バス停) 累計:65.6Km
 4時間15分 17,000歩。

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