日光御成街道(3) 鳩ヶ谷駅 ~ 東川口駅

2016年5月15日(日) 晴

  「鳩ヶ谷駅」(10:00スタート)の西側にある「真光寺」に寄ってから、前回終えた「昭和橋」信号(10:35)に戻って再出発。

(注:解説で街道の左側、右側とは幸手に向っての左右です)

「東十条駅(南口)~鳩ヶ谷駅」← 「目次」 → 「東川口駅~さぎ山記念公園」


鳩ヶ谷の歴史】 
 鳩ヶ谷駅西口ロータリーに、「鳩ヶ谷の文化財散策コース案内板」が立ち、その中に鳩ヶ谷の歴史が載っていた。

【鳩ヶ谷の歴史】
 鳩ヶ谷の範囲は、東西2.8Km・南北3.8Kmで、面積は約6.2Kmです。
 市内の地形は、北部に標高10~20mの台地と、その裾を西から東に流れる見沼代用水を境に、その南部には標高2~5mの荒川低地が広がっています。
 当市の歴史は、今から約1万5千年以上前の先土器(旧石器)時代に始まり、これに続く縄文・弥生・古墳・奈良平安の各時代を通じて人々が生活していたことを示す遺跡が数多く所在しています。鎌倉時代には、鳩井郷と呼ばれ、鎌倉と東北地方を結ぶ幹線道路が通り、幕府と直結した地域となっていました。江戸時代初期ともなると、江戸と日光を結ぶ日光御成道の整備とともに鳩ヶ谷宿が成立し、以来、周辺地域の交通・商業・文化の中心地として発展してきました。特に、江戸時代中期頃から始まる三八市は県内屈指の賑わいを見せ、綿布・米穀・野菜・植木苗木などの集散地として栄え、米穀問屋や織物中継商が軒を並べておりました。
 鳩ヶ谷出身の有名人として、江戸時代の社会教育者・小谷三志や日本近代彫刻の先駆者・大熊氏広がいます。また、昔から続く地場産業としては、竹の和竿作りがあります。

真光寺】 (左奥) 10:10
 昭和4年(1937)頃に鳩ヶ谷本陣を移築したものと云う真光寺に寄り道。
 鳩ヶ谷駅西口からの経路:ロータリーを右に進み、最初の角を左折して県道に出たら右手の信号を渡って真直ぐ進むと、二つ目の右角に建つ下記写真の山門が見つかる。
 御成道からの経路:「鳩ヶ谷庁舎(西)」交差点を左折し、岩槻街道を歩道橋で渡って、左「コジマ×ビッグカメラ」・右「日本一のパチンコ・パラッツオ」を過ぎた先の信号を左折すると、二つ目の右角に山門が見える。
  
 山門から左周りに行くと本堂に入れて、右回りに行くと裏門の前に立つ本陣の標柱が見られる。
    


【吹上橋 10:37
 岩槻街道を渡って、県道105号線にある前回終えた「昭和橋」信号に戻る(10:35)。
 信号の直ぐ先に見沼代用水が流れ、その上に「吹上橋」が架かっている。
 「吹上橋」手前の右側に日光御成道と鳩ヶ谷宿の説明板が立っている。説明板には、日光御成道の経路図(前回2回目の【川口宿絵図】に添付)、分間延絵図の鳩ヶ谷宿部分、鳩ヶ谷宿全体図、昔の見沼代用水の説明と古い写真が掲げられている。

【日光御成道と鳩ヶ谷宿】
 現在地は、鳩ヶ谷宿の下宿で、左の吹上橋を渡って坂を上ると宿の中心・中宿です。
 日光御成道の前身は、鎌倉時代の幡ヶ谷を通り奥州へ向う幹線道路の鎌倉中道です。慶長5年(1600)に、徳川家康は会津の上杉景勝を攻めようとこの中道を北上して鳩ヶ谷に泊り、小山に至った時、石田光成の挙兵を知りました。すぐさま引き返して関ヶ原の戦いで勝利し、江戸幕府を開きました。家康は遺言により日光東照宮に祀られましたが、間もなく、将軍家は、この道を縁起のよい道として整備し鳩ヶ谷宿もできました。以来、将軍が日光社参に利用したので、その名があります。
 日光御成道は、江戸の本郷追分(文京区)で中山道から分かれ、幸手宿の手前で日光街道に合流するまでの12里30町(約50Km)の街道です。さおの宿場町・鳩ヶ谷宿は、江戸から4里30町(約19Km)にあり、北から上・中・下の宿に分かれた家並みは4町20間(470m)、天明6年(1786)の記録では、家198軒・人口821人でした。
 鳩ヶ谷宿は、周辺の商業や文化の中心地として栄え、特に江戸時代の中頃に始まった三八市は、出店が並びたいそう賑わい、市の神を祀る市神社は、今も、当時の面影を伝えています。また、旅人のために榎を植えた一里塚が、吹上橋の北袂の両側にありました。
 この前方の坂を上った宿の中心地・中宿にあたる本町商店街は、江戸時代の町割をほぼ残しています。


【昔の見沼代用水】
 見沼代用水は、江戸時代中頃の享保13年(1728)に完成した農業用水で、行田市の下中条で利根川から水を引き込み、各地の水田を潤しながら幡ヶ谷に至っています。
 この吹上橋の袂からは、平柳用水が分流して、小渕村や中居村などに水を供給していました。
  明治25年頃  昭和初期  
現代


【鳩ヶ谷一里塚跡 (両側) 10:40
 「吹上橋」を渡った両側に一里塚跡の標柱が立っていて、次の様に書かれている。
 右の標柱には、江戸の日本橋から五番目の一里塚でした。
 左の標柱には、吹上橋の両側にあり、塚には榎が植えてありました。
  
左  


【鳩ヶ谷氷川神社 (左奥) 10:45~10:57
 「吹上橋」を渡ってすぐ左に入る道の入口に、江戸時代の道・宮道と書かれた案内板が立ち明治時代の写真が添付されていた。





【宮道】
 この先で鳥居をくぐり氷川神社に通じています。

【昔の様子】
 2枚とも、明治時代に、ここから撮影された写真です。
 ①は南方の吹上橋方向、②は逆の北方の上り坂方向の様子です。人々の着物姿からも当時の様子が伺える貴重な写真です。

①吹上橋から下宿(町)方向を見ています。明治43年頃。
②前方の坂を上ると中宿(町)です。明治30年頃。


 街道からそれて鳩ヶ谷氷川神社に行くために、宮道へ左折。
 すぐ右に赤い一之鳥居とタイル道の参道が現れる。
  

 参道の軽い坂を登ると突当りに二之鳥居、13段の石段を上って三之鳥居、更に8段の石段を上ってをくぐると本殿がある。
 境内に由緒が見付からなかったので、ホームページの御由緒を載せる。



【御由緒】
 当社は、旧鳩ヶ谷宿の中心地で、日光御成街道からやや西に入った高台に鎮座し、 ご創立は1394年(応永元年)と伝えられております。
御祭神の須佐之男命(スサノオノミコト)は、ヤマタノオロチを退治して稲田姫命(イナダヒメノミコト)とご結婚した後、出雲国須賀の地に降り立った。そこで「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言って宮作りをされ、 「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」と詠んで、稲田姫命と仲睦まじく幸せに暮らしていった。
 御祭神は、荒々しく強い力の持ち主でありながら清々しく全てを清めてくださる神として厄除けの神様
 社会の繁栄と安住の天地を作る事を教えとする、夫婦円満の神様
 稲田姫命と様々なことを乗り越えてめでたくご結婚され、夫婦神様となり末長く仲良く暮らしていったことから、縁結びの神様(結びの神)として信仰を集めております。



【社殿の沿革】
 
本殿は、元禄年中に再建築をなし、1545年(天文14年)と1585年(天正13年)に修復が行われたと言われております。また、1600年(慶長5年)7月、徳川家康が奥州出陣の途中に同社境内で休息したという故事があります。
 昭和52年に拝殿屋根を銅板へと葺き替え、さらに弊殿など新築し、手水舎移転修理工事など一連の造営工事が終了しました。
 平成5年に御鎮座600年を記念し、ご神門とお神輿を新調し御社頭の面目を一新し、御鎮座600年式年祭が斎行されました。また、平成22年に天皇陛下ご即位20年奉祝記念事業とし、社務所・参集所を新築致しました。


 二之鳥居に戻って、境内を右手(脇参道)に行くと、文化二年(1805)の道標が建ち、正面に『冨士仙元道 右江三丁』と刻まれていた。
 また、その右隣に、鳩ヶ谷八景・氷川神社夜雨の碑が建っている。
  
  


【御成坂公園 (左側) 11:00
 宮道の入口(吹上橋)まで戻って、御成道の坂を上り始めるとすぐ左に御成坂公園があり、私達が到着した瞬間にからくり時計が作動した。今日は日曜日なので十一時の回に見ることが出来、ラッキー!

   【からくり時計】
 この「からくり時計」は月曜日から土曜日の間は、次の時間に作動し、人形による演出が繰りひろげられます。
  一、午前十時
  一、正午
  一、午後三時
  一、午後五時
  一、午後七時
 又、日曜日は午前十時から午後八時まで一時間ごとに作動します。


 この公園の壁には、『日光御成道のみちすじ』と題して、「荒川の渡し」から「幸手市の日光街道合流点」までの埼玉県内の地図と共に、道筋に点在する名所旧跡が紹介されていた。

【日光御成道のみちすじ】
 日光御成道は、中世の鎌倉街道中道と重複、あるいは沿って通っています。徳川家康が久能山より日光山へ改葬され、東照宮が造営されてから、江戸幕府将軍の日光社参への街道となったのがこの道です。
 日光道中の脇往還として、江戸日本橋を基点に本郷追分で中山道とわかれ、岩淵宿(現、東京都北区岩淵町)、川口宿、鳩ヶ谷宿、大門宿、岩槻宿を経て、幸手宿まで五宿十二里の街道で、埼玉県内の日光御成道は、四宿をもつ総延長九里の道、いわば将軍専用の道路でありました。


 また、徳川将軍・日光社参時の行列のタイル画も何点か嵌め込まれていた。

  


【千住院跡 (右側) 11:06
 御成坂公園の斜め向かいに千住院跡の説明板が立っている。
【千住院跡】 
 千住院は、昭和45年(1970)に坂下町2-15-14へ移転するまで、この場所にありました。山号は鳩井山、宗派は曹洞宗です。戦国時代の永禄3年(1560)に市内の里にある法性寺の4世が開山として創建されました。
 神仏混淆であった江戸時代に、千住院は、現在地の近くにあった富士山の神を祀る浅間社を所管していましたが、その社頭に掲げていた戦国時代の弘寺治2年(1556)に作られた鰐口は、市の文化財に指定されています。


船津家】 (右側) 11:07
 千住院跡説明板のすぐ先に、船津家の立派な建物が建っている。
  


【鳩ヶ谷宿本陣】 (右側)
 船津家の直ぐ先、信号の手前右側辺りに鳩ヶ谷宿の本陣(船戸家)があったが、今は案内等を含め現地には何も残っていない。
 但し、建物は、本日最初に訪れた真光寺に移築されて残っている。


【十一屋北西(きたにし)本店】 (左側) 11:09
 信号を越えた次の左折道の手前に、蔵と宿場の趣のある古い商家・十一屋北西本店清酒・文楽を扱う酒店)がある。 
 木造二階建、切妻造桟瓦葺、二階に格子を立て、上下階とも出桁造の軒を持つ建物。

  


【市場杭跡 (左側) 11:10
 北西本店先の左角に、江戸時代の道・氷川神社への入口の案内板立っていて、その柱に市場杭跡と書かれていた。

【市場杭跡】
 四本あった三八市の市場杭で西南側の一本です。

郷土資料館】 (右側) 11:20~11:35
 次の「本町二丁目」信号を右折した所に郷土資料館がある。

開館時間 午前9時~午後5時(展示室の観覧は午前9時30分~午後4時30分)
休館日   月曜日(月曜日が祝日の場合は、その直後の平日) 年末年始(12月29日~1月3日)
入場料   一般 100円
 
2階は、原始・古代~近代の文化財、商家・農業のなりわい、地場産業、民俗芸能などの展示室で、赤山陣屋の説明と模型、鳩ヶ谷宿の説明と宿場の復元模型(下記写真)があった。
3階は、鳩ヶ谷出身の小谷三志と大熊氏広についての展示室となっている。中に宇治平等院鳳凰堂の屋根の上にある鳳凰像の模作が展示されていた。
  
   中央一番上に、氷川神社。御成街道左下のランプが灯っている広い一角が本陣。


【市神社(いちがみしゃ) (右側) 11:37
 街道に戻って直ぐ右側に、こじんまりとした市神社が建っている。

【市神社】 川口市指定有形民俗文化財(平成3年4月一日指定)
 江戸時代に江戸を中心に街道が整備されて、日光御成道が出来ました。
 
日光御成道は、徳川将軍が日光参詣のための専用道路として、江戸の本郷追分(東京都文京区)で中山道とわかれ、岩淵(北区)・川口・鳩ヶ谷・大門・岩槻をへて、日光街道に合流するまでの道です。
 鳩ヶ谷は、御成道の宿場町として栄え、享保十六年(1731)に市が開かれました。毎月三と八の日に、市が開かれたことから、「三・八市」と呼ばれて繁盛しました。その市の祭神が市神です。
 現在の市神社は、納められている鏡に「奉納天保九年」(1838)と年代が刻まれており、また、天保十五年に造られた「日光御成道分間延絵図」の中に、社殿が描かれています。
 江戸時代の鳩ヶ谷が、経済流通の中心地であったことを立証する貴重な文化遺産です。
     平成3年7月31日 川口市教育委員会

<昼食> 11:40~12:15
 市神社の少し先の右側にある「そば処寿庵」で昼食をとる。


【法性寺(ほうしょうじ) (左側) 12:20~12:28
 郷土資料館で貰った資料の中に、法性寺の山門は足利時代末期の作で、庭園は湧水に富む静寂な名園と載っていたので、寄り道することにした。
 次の信号を左折して、右斜めに下る坂の入口に法性寺の石標が建っている。
 坂を下ると右手に法性寺の参道があり、見事なバラの生垣が山門まで続いていた。
  

 石段を上って山門をくぐりると広い境内があり、山門の右手に鐘楼、正面に本堂がある。
 しかし、何処を探しても庭園は見当たらなかったが、周りは森で囲われていた。

【法性寺保全緑地】
 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようと、この森が「保全緑地」に指定されました。

 法性寺は、明応年間に建立された曹洞宗の寺院で、現在の山門は、足利時代末期のものと言われています。
 境内には、スタジイ・クスノキの巨木が目につき、うっそうとした緑地を形成しています。
 林相としては、主に、スタジイ・クスノキ・シラカシ・アカシデなどの樹木から構成されています。
  面積 七、三五〇.〇〇㎡
  指定 平成ニ四年四月一日第37号
     川口市

【小谷三志(こたにさんし)旧宅跡】 (左側) 12:31
 街道の信号に戻って、直ぐの左側に、『史蹟 小谷三志の居宅』と刻まれた石標と説明板が立っていた。

【小谷三志の旧宅跡】
 江戸時代の明和2年(1765)に鳩ヶ谷宿で生まれた小谷三志は、鳩ヶ谷宿の問屋役を勤める傍ら、富士山の神を信仰する富士講の指導者でもありました。ある時、当時の富士講が形式的であり、富士講の原点は社会に役立つものであると知り、富士講を自ら改革して不二道を興し、その指導者となりました。
 三志は、この不二道を通じて、富士山の神の下では男女や士農工商の四民が平等で、恩に対する感謝の心を忘れず、真面目に働き社会奉仕を実践することが社会の平和に繋がることなどを、全国を旅しながら多くの人に説明し実行させました。その影響を受けた人の数は、5万とも10万とも言われています。
 三志の弟子達の活動に感心した、二宮尊徳とも親交があった三志は、天保12年(1841)に75歳で亡くなり、桜町の地蔵院に眠っています。死後、その業績から、大正7年(1918)に宮内省から従5位が贈られ、三志が残した多くの書物は、埼玉県の文化財にも指定されています。かつての居宅跡は現在地の北東側に位置していました。

 小谷三志の旧宅の復元模型は、郷土資料館で展示しています。

豊田家の蔵】 (右側) 12:34
 その先「桜町一丁目バス停」前の右側に豊田家の蔵が残っていたが、主屋は近代的に建て直されて、庭と大きな門が建築中だった。
 広い敷地で少し前まで十一屋北西本店の様な古い蔵造商家が建っていた。
  


【道標 (右側) 12:39
 前方が二股に分かれ、左が県道105号、右が県道161号になっている「桜町五丁目」信号を右折すると、地蔵院の参道入口左側に文政五年(1822)八月建立の道標が建っている。
 文政五年に日光御成道から越ヶ谷道が分岐する場所に建立された道標で、正面に『四國八十八箇所従 五十九番 地蔵院』、右側面に『従是 右こしがや道 二里』、左側面に『月山百番札所・湯殿山・羽黒山四國徧禮 供養塔』と刻まれている。
 隣接する地蔵院が、四国八十八箇所を川口市周辺の寺院を見立てて巡拝する新四国八十八箇所巡りの五十九番札所であったことから、札所の標識も兼ねていて、昭和46年5月24日に川口市指定有形文化財(歴史資料)となった。
 新四国八十八箇所は、ここだけでなく日本各地にも設定されている。
 地蔵院には、小谷三志の墓や市指定天然記念物のタブの木があるが、寄らなかった。
      


【日光御成道と鳩ヶ谷宿 (右側) 
 「桜町五丁目」信号を渡った右側に、「吹上橋」にあったのと同じ日光御成道と鳩ヶ谷宿の説明板が立ち、江戸時代の道・越ヶ谷道が併設されていた。

【日光御成道と鳩ヶ谷宿】
 現在地は、江戸時代の浦寺村で、南(右手正面)へ200m進むと鳩ヶ谷宿の上町に入ります。
(以下【吹上橋】にあった説明文と同文)

【越ヶ谷道】 (二股の右方向・県道161号線)
 越ヶ谷道は、日光街道の越ヶ谷宿へ行く幹線道路でした。左前方の地蔵院入口に道標があります。

【氷川神社】 (左側) 12:55
 日光御成道は二股の左方向(県道105号線)を進む。
 道路拡張工事を行なっている最中らしく、道幅が広くなったり狭くなったりする道を暫く行くと「新井宿駅(西)」信号出る。この信号を右折するとすぐ新井宿
(あらいじゅく)駅がある。
 新井宿というと、この辺りに宿場町があったように思えるが、江戸時代には鳩ヶ谷宿の助郷ぐらいで宿場は無かった。しかし、江戸時代には新井宿村(御成道の東側)と西新井宿村(御成道の西側)という地名があったので、おそらく鎌倉時代に宿場があったのではないかと云われている。
 この「新井宿駅(西)」信号を越えた少し先の左側に氷川神社があり、そのうしろに宝蔵寺がある。

【氷川神社御由緒】
 当地は、元禄年間(1688~1704)以前に新井宿村から分村し西新井宿村と称するようになった。近世の新井宿村と西新井宿村は今も川口市の大字として継承され、日光御成街道(県道大宮・鳩ヶ谷線)が両大字の境界となっている。
 当社はこの日光御成街道に面して鎮座し、すぐ隣には旧別当真言宗宝蔵寺がある。その立地から見て、当社の創建は日光御成街道が整備された江戸初期のことと考えられ、宝蔵寺の僧がかかわっていたものであろう。宝蔵寺は『風土記稿』に「寛文二年(1662)六月八日寂せし源梅と云僧より以上の世代を伝えず」と記されている。
 文化三年(1806)の『日光御成道分間延絵図』を見ると、街道の西側に西新井村の鎮守氷川明神と別当宝蔵寺、東側に新井宿村の鎮守子と聖権現(現子日神社)と別当多宝院という形で、両村の社寺が街道を挟み智面して対面して描かれている。また、両社の鳥居の傍らには高札が立ち、街道を往来した人々が足を止めた所であったことがわかる。
 文久元年(1861)に本殿が改築され、同三年(1863)には拝殿が改築されたと伝えられる。
 明治六年に村社となり、明治末年までに新井宿の村社子日神社をはじめ、大字西新井宿内の雲井社・比叡社・飯綱社・稲荷社・姥神社の計六社が合祀された。なお、子日神社は昭和二十三年に復祀された。

【子日(ねのひ)神社】 (右側) 12:57
 氷川神社の向かいに子日神社があり、その左奥に多宝院がある。

【子日神社御由緒】
 当初は隣の西新井と一村であったが、元禄年間(1688~1704)以前に分村し、しばらくは西新井宿村に対して当地を東新井宿村と呼んでいた。この東西の新井宿は、日光御成街道を境として分けられ、文化三年(1806)の『日光御成道分間延絵図』を見ると、街道の東側に当村の鎮守子聖権現(当社)と別当多宝院、街道の西側に西新井宿村の鎮守氷川神社と別当宝蔵寺という形で、両村の社寺が街道を挟み対面して描かれている。当社は『風土記稿』に、「子日権現社 村の鎮守なり 天神山王稲荷の三神を合祀せり、多宝院持なり」と記されている。
 社名の「子日」についてであるが、一般に旧暦十月の初めの子の日には、「子祭り」と称して収穫祭が行なわれる。このことから、当社で現在十月五日に行なっている「お日待」が、子の日の「子祭り」の名残とも考えられる。
 当社はまた、近在の人々からも腰から下の病、特に足の神として信仰され、古くから病気平癒の願掛けの際には鉄製や藁製の草鞋を社殿の格子に下げるのが習わしで、今でも草鞋のはかスリッパや下駄などを奉納する人が見受けられる。

【赤山陣屋跡】 (右奥) 13:23~13:40
 「新井宿」信号を越え、「西新井宿」信号で「首都高川口線」をくぐり、「石神南」信号で「外環道」に着いたら手前の道を右折し「東京外環道」に沿って640m程進む。
 やがて右側に「晃友グループパネル工場」があるので、その先の竹林を囲っているフェンス沿いの細い草道へ右折すると赤山陣屋(赤山城)跡がある。

【赤山城跡】
 伊奈氏は、家康の関東入国とともに鴻巣・小室領一万石を給され、熊蔵忠次以後十二代にわたって関東郡代職にあり、関八州の幕領を管轄し、貢税、水利、新田開発等にあたった。三代忠治の時に、赤山領として幕府から七千石を賜り、寛永六年(1629)に小室(現北足立郡伊奈町)から赤山の地に陣屋を移した。これが赤山城で、以来十代一六三年間伊奈氏が居城したものであるが、現在では、東側に堀と土塁を一部残すのみである。
 城跡の南方に隣接する源長寺は、伊奈氏の菩提寺として、四代忠克以後の代々の墓があり、五代忠常建立の頌徳碑には忠次、忠政、忠治の業績が刻まれている。
     昭和五十八年三月 埼玉県

 


 竹林脇の道に入って直ぐ、上の写真の場所に、幾つかある赤山陣屋の説明板の一つが立っている。

【赤山陣屋】
 ここは二の丸の北東側で、正面の竹林の向こうに西堀があり、左側は出丸のあった方角。奥の竹林あたりは低地になっていて、水神をまつった場所である。
     川口市教育委員会


 ここで私達は、勘違いして二の丸跡から表御門跡に行かずに、フェンスに沿って左折し北堀の方に行ってしまった。
 赤山陣屋の石碑を見るには、右手方向に進むべきだったと後で後悔した。
 北堀へ行く途中、西堀は見られた。下の写真で、左の生垣の左奥が見逃した本丸跡である。

【赤山陣屋の堀】
 赤山陣屋は、周囲の自然の低湿地を外堀として利用し、その内側に人口の内堀をめぐらせている。陣屋に接する自然低湿地の総延長は約3,000mに及ぶ、深さは概ね10mだが、幅が広いうえに、湿地であったため足場が悪く、堀としての機能を十分備えていたと思われる。
 内堀には、東堀・西堀・南堀・北堀・北西堀があり、総延長は1,800mに及んでいた。発掘調査によりさまざまな形態・規模を持つことが確認されたが、概ね深さ5~6m、上面幅9.5mほどで、堀の内部に塀が建てられていたところや、堀に沿って土塁のあるところもみられた。
 中でも最大規模の北西堀は、深さ8~9mで高さ1mの土塁をもち、有事には東側の低湿地から水を引き込んで水堀としても使えるようになっていた。自然低地の切れ目にあたる部分だったため、このように大規模なものとなったのだろう。また、自然低地の切れる山王社側の東堀が深めにつくられているなど、細かな配慮がそれぞれの堀にみられる。
 仮に北側から陣屋内に入ろうとすると、外堀(低湿地)と内堀、そして土塁を合わせ延べ17m上がり、17m下らなくてはならないことになる。これは、6~6階建てのビルを階段で上り下りするのと同じか、足場の悪さを加味するとそれ以上の運動量に匹敵する。赤山陣屋を囲む堀の効果は、想像以上のものであったに違いない。
     川口市教育委員会


 西堀に出たら遊歩道が整備されていた。
 北堀の西端に赤山陣屋の説明板が立っていた。

【赤山陣屋】
 ここは北堀の西端にあたる。
 右手の竹林の中には水神のほこらがあって、伊奈家の姫と龍にまつわる伝説が残されている。
     川口市教育委員会


 その先、舗装道路に出る所にも説明板が立っていた。
 ここは、赤山陣屋の本丸と出丸との境にあたる。上を走る東京外環道路のあたりにあった北堀が本丸と出丸とを分け、堀の上には土橋が設けられていた。
     川口市教育委員会

 残念ながら、赤山陣屋の極々一部を回ってきただけに終わってしまった。


【真乗院 (右側) 13:55~14:10
 「東京外環道」沿いの道に出て、「石神南」信号に戻り(13:54)、「外環道」をくぐると直ぐ右側に真乗院がある。
 参道を進むと門を入った左側にコウヤマキの巨木が聳えている。



【真乗院のコウヤマキ】 川口市指定天然記念物(昭和41年3月1日指定)
 わが国特産の常緑高木樹で山地に自生しますが、狭い円錐形の樹形が美しく庭園にも植えられます。コウヤマキという名は、紀州高野山に多いことからつけられ、別名ホンマキ、ママキともいいます。雌雄同種で、葉は厚く2葉が側面で合着しています。材は耐水性にすぐれ、特に桶材・橋材として有用です。
 真乗院のコウヤマキは、目通り4.5m、根回り7.8m、樹高18mあります。すぐ東側にカヤの大木、南側にスダジイの大木があり、辺りに荘厳な雰囲気を醸し出しています。
     川口市教育委員会

【記】
  一、名称 真乗院のコウヤマキ
  一、形状及び大きさ
 コウヤマキ(高野槙)は真乗院の前庭の北側の諸樹植込みの中にある往時の植材木で東側にカヤ(榧)南側シイ(椎)が四・五米と近距離に在った各目通しニ五〇米内外の樹幹のものである
  樹の大きさ

   幹の目通り(幹  囲) 一四・〇五米
   樹   高        一八・〇〇米
   枝   下          六・〇〇米
   枝 張 り (東方へ)   四・〇五米
          (西方へ)   四・九〇米
          (南方へ)   三・六〇米
          (北方へ)   五・五〇米
   根   周 (地  境)   七・八〇米
 以上の様な形態で四圍の枝張りははなはだ狭く上空さして狭い円錐形をなし天に摩しているが樹幹の途中から二又分幹をなしている樹勢はいまだおとろえずはなはだ美事である  


 門の左手角に7躯の石塔が建ち、その内の左に建つ地蔵菩薩は道標を兼ねている。
  



【道標(地蔵菩薩)】 川口市指定有形文化財 歴史資料(平成25年3月28日指定)
 本塔は、日光御成道の道標を兼ねた地蔵菩薩塔で、もとは御成道の路傍に設置されていたことが推測できます。
 材質は安山岩で、上部の舟形の地蔵菩薩立像、四角柱状の主体部と台座により構成されています。正面中央には「奉造立地蔵菩薩並道中安内塔 二世安楽所」と刻まれており、地元石神町の施主6人によって、元文2年(1787)に造立されました。
 道標の銘文は、正面に日光御成道を南下し江戸本郷への道筋を示す「南江戸ほんがう道」、左側面に御成道を北上し岩槻宿・岩槻城への道筋を示す「北いわつき道」、右側面には、御成道から東へ進み、赤山街道千住道と日光道中を通って江戸浅草御門に通じる道筋を示す「東江戸あさ草道」が、それぞれ刻まれています。
 本塔は、江戸時代の重要幹線道路であった日光御成道と赤山街道千住道の道標として貴重な文化財です。
     川口市教育委員会

【一里塚ポケットパーク (右側) 14:32
 「新町」信号、更に中央分離他のある広い道路を越えて、約1.8Km。十字路の右角に一里塚ポケットパークがある。
 塚は残っておらず、ただのレンガ敷きのポケットパークである。
 この公園の一画に宝暦八年の馬頭観音があったのだが、見逃してしまった。

【日光御成道の一里塚】
■一里塚とは
 一里塚とは、道路の両側に1里(約3.927Km)ごとの印として木を植えた塚です。元々、中国で行なわれていた里程を示す道標の一種です。日本では一般に徳川時代に確立されます。慶長9年(1604年)に徳川家康は江戸日本橋を起点とする街道に一里塚を築かせ、全国に普及させました。現存する塚の多くは道の片側のみに存在しますが、街道の両側に”対”で設置されるのが本来の姿です。
 塚には榎や松、杉などの樹木が植えられ、木陰で旅人達が休息できるよう配慮されました。
■日光御成道の一里塚
 日光御成道は、中世以来の鎌倉街道中道が前身であり、江戸時代の初頭において整備された日光街道(日光道中)の脇街道として設置されました。
 日光御成道の行程は本郷追分から幸手追分までの区間12里30町(約47.5Km)で、そのうち一里塚が12ヶ所設けられます。
 この場所は”戸塚の一里塚”と呼ばれ、江戸から数えて6か所目にあたり、道の東側に松、西側に榎が塚の上に植えられていました。
 また、この道は、徳川将軍家が日光社参の際に利用したため、日光御成道と称されております。日光社参の行程は、江戸城大手門から岩槻、古河、宇都宮を経て日光までの行程36里3町2間(約147.7Km)を片道3泊4日、往復8泊9日をかけて実施されました。
■馬頭観音について
 馬頭観音とは、仏教における観音菩薩の変化身の一つで、頭が馬の形をしています。仏教が民間信仰に溶け込む過程で、馬の守護神として信仰されるようになり、馬の供養のために石造物として建立することが一般化しました。
 この馬頭観音は、宝暦8年(1758年)に建立されました。御成道の荷物の運搬などに従事した馬の供養塔と思われ、御成道の文化の一つとしてとらえることができます。


 次の「戸塚支所西」信号を左折した少し先の本行寺芭蕉句碑があるとのことだが、訪れなかった。
 更に、北上するとJR武蔵野線の高架橋に出る。
 本日の行程はここまでとし、ここを右折して「東川口駅」より帰宅する。



3回目の旅終了(14:50)。「東川口駅陸橋」。

【本日の記録】
 江戸時代の街道のみの距離は、5.0Km(昭和橋交差点~東川口駅陸橋)
 本郷追分から、五里八町(20.5Km) (日本橋からは一里を加える)。
 寄り道を含めた実歩行距離は、11.0Km(鳩ヶ谷駅~東川口駅)  累計:32.8Km
 
時間50分 17,000歩。

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