日光御成街道(1) 本郷追分 ~ 東十条駅(南口)

2016年4月2日(土) 曇時々晴

  「東大前駅」から「本郷追分」に戻って、ここを10:30スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは幸手に向っての左右です)

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【追分一里塚跡 (左側) 10:30
 日本橋方面から来たら、東大の赤門前を過ぎ、「本郷弥生」信号の次の信号が中山道日光御成街道との追分になる。
 東京メトロ東西線の「東大前駅」1番出口から出たら、60m南下した信号(東側には東大の重厚な門がある)が追分である。
 日本橋から来た場合、この追分で左折するのが中山道(国道17号)、直進するのが日光御成街道で、この左角に「高崎屋酒店」がある。
 ここが本郷追分で、この辺りに旧中山道1番目の一里塚があった。その酒店横に一里塚の説明板が立っている。
 「高崎屋酒店」は、『SINCE1751』と書かれている通りに
江戸時代からの老舗で、ホームページ(HP)には、次ぎのように載っていた。

 創業は、初代の高崎屋長右衛門の没年が安永7年(1778)である事から、 宝暦年間(1751~64)と考えられます(詳細は不明)。
東京大学の前と言う事もあり、お客様の半数は学生さんで、ワイン、日本酒、 輸入ビールをメインとして営んでおります。
また、当店の繁栄を示した「高崎屋絵図」、高崎屋の最盛期を築いた人物 「二世牛長肖像」等の区指定文化財を含む3500点を越す資料は文京ふるさと歴史館に収蔵されています。
ご興味のある方は、是非、ご覧頂ければと思います。

【追分一里塚跡】 区指定史跡
 一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として、街道筋に1里(約4Km)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。
 ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中ごろまで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
 ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁昌した。
     文京区教育委員会

 左の写真は、南側から写した追分で、左へ中山道、直進が日光日光御成街道。正面の店が「高崎屋酒店」で、妻の正面に一里塚の説明板が立っている。

【岩槻街道 (左側) 10:32
 追分から御成街道に入ってすぐ左の「セブンイレブン」前の車道側に岩槻街道の説明板が立っている。

【将軍御成道 岩槻街道】 
 この街道は、江戸のころ将軍が日光東照宮にお参りする時に通る道であることから”将軍御成道”といわれ、重要な道路の一つであった。人形のまち、岩槻に通じている道で”岩槻街道”という。現在の東京大学農学部前の本郷追分で、旧中山道とわかれ、駒込へと直進し、王子、岩淵を経て荒川を渡り、岩槻へと向かう。
 将軍は、江戸城を発ち、岩槻に一泊し、さらに、古河城、宇都宮城に泊って日光に入ったといわれている。将軍がこの街道を通る時の警備は厳重で、沿道に住む人達は、大そう不自由なおもいもしたという逸話が残っている。現在の名は”本郷通り”である。
     東京都文京区教育委員会  平成元年3月

【旧駒込追分町】 【追分尋常小学校跡】 (左側) 10:36
 上記写真の隣が「第六中学校」で、建物右端に旧町名案内追分尋常小学校跡の説明板が掲げられていた。

【旧町名案内・旧駒込追分町】 (昭和40年までの町名)
 むかしは駒込村に属した。元和4年(1618)御小人中間の町屋敷となった。そして、中山道と岩槻街道(日光将軍御成道)との分かれる所なので、追分町と名付けられた。
 東大農学部前の両街道の分岐点(追分)に、宝暦年間(1751~63)創業の高崎屋があるが、その前に一里塚があった。一里塚(日本橋から約4キロメートル)には榎が植えられ、旅人の道のりと駄賃の目安となった。
 明治2年、三ツ家町、正行寺門前を合併し、同5年旧幕府大番組屋敷、先手組屋敷跡など併せた。
     文京区
【追分尋常小学校跡】
 追分尋常小学校は、当地(旧駒込追分町45番地)に明治37年(1904)1月に開校した小学校である。開校当時の児童数は108名、2学級を編成し授業を開始した。 同38年4月、高等科を設置したが、同41年4月、学令改正により高等科を分離した。
 昭和8年(1933)9月には、追分尋常小学校と当時隣接していた本郷高等小学校(明治43年に湯島から移転)の二校が併設された、最新の建築様式による鉄筋コンクリート3階建ての校舎が落選した。これは、東京市が関東大震災後の不燃化計画推進の一環として建設したものである。
 昭和16年4月、国民学校令により追分尋常小学校は追分国民学校となった。同19年、戦時下の男性教員の不足を補うために東京第二師範女子部が創設され、当時の校舎が女子部の校舎として提供された。
 昭和20年4月、追分国民学校は国に移管され、東京第二師範女子部付属国民学校となり、尋常科と高等科が併設された。同22年4月、尋常科は、東京第二師範附属小学校となり、同26年4月に、東京学芸大学附属追分小学校と改名された。
 昭和22年に新設された第六中学校は、誠之小学校や指ケ谷小学校などに分散し授業を実施していた。同27年からは、当地の校舎の一部を使用していたが、同29年に統合。同36年、東京学芸大学附属追分小学校は並行となり、 第六中学校が当地の後者の全面使用を開始した。
     文京区教育委員会  平成26年5月

【正行寺(しょうぎょうじ) (左側) 10:43~10:46
 「東大前駅」を過ぎ、「文京学院大学」も過ぎた先に正行寺がある。
 参道を入って行くと、ほぼ正面にとうがらし地蔵が祀られ、本堂は右手にある。



【せき止めの とうがらし地蔵】 
 この寺の境内にまつられている地蔵尊は「 とうがらし地蔵」と呼ばれ、咳の病に経験あらたかなことで知られている。『江戸砂子』に「当寺境内に浅草寺久米平内のごとき石像あり。・・・仁王座禅の相をあらわすと云へり。 」とある。
 寺に伝わる元文三年(1738)の文書によれば、僧の「覚宝院」が、元禄十五年(1702)人々の諸願成就を願い、また咳の病を癒すため自ら坐禅姿の石像を刻み、ここに安置したという。以来人々は「覚宝院」が”とうがらし酒”を好んだことから、とうがらしを備え諸願成就を願ってきた。
 尊像は、昭和二十年(1945)五月の空襲にあい、その後再建されたものである。なお「とうがらし地蔵」とともに名の知られた「とうがらし閻魔」は、焼失したままとなっている。
 江戸時代、「旧岩槻街道」の道筋にあたるこの辺りは、植木屋が多かったところから「小苗木縄手」それにかわって「うなぎ縄手」と呼ばれていた。
  ―郷土愛をはぐくむ文化財―
     東京都文京教育委員会  平成元年十一月

【浄心寺 (右側) 10:49
 次の「向丘一丁目」信号を渡った右側にある浄心寺は、参道の桜が綺麗だったので、写真だけ撮った。
  


【天榮寺・駒込土物店(つちものだな)跡】 (左側) 10:57~11:01
 本郷通りの左側に戻って、東京メトロ南北線「本駒込駅」入口を過ぎた、「駒本小学校前」信号の左に天榮寺があり、その門前左側に建つ石柱の正面に『天榮寺門前』、右側面に『さいかちの辻』、左側面に『千栽稲荷社跡』と刻まれていた。
 門前右側には史蹟文化財 駒込土物店跡と刻まれた石柱が建っていて、左側面には『文京区文化財指定 昭和五十八年十一月一日 駒込天榮寺』と刻まれていた。その縁起は門を入ってすぐ右側に建つ石版に刻まれている。

【駒込土物店縁起】
 この所は凡そ三百五十年前の元和の頃から、駒込辻のやっちゃば、或いは駒込の土物店(だな)と呼ばれて神田、千住と共に江戸三大市場の一つとして昭和十二年まで栄え続けた。旧駒込青果市場の跡である。その昔この一帯は百姓地で、この碑の近くに五つ抱え程のサイカチの木があって、斉藤伊織という人がこの木の下に稲荷社を勧請して、千栽稲荷と唱えて仕え祀った。近隣のお百姓が毎朝下町へ青物を売りにゆく途すがら、この木の下で休憩するのを常とした。その時たまたま買人があるとその斉藤氏が売り買いの仲立ちをした。そのことが市場の始まりであると天榮寺創草期に明らかにされている。その頃この所は仲仙道白山上から間道をもって岩槻街道に通じる辻で、御高札場や番屋それに火の見櫓などがあり、辻の要路であったので潮時西側の天榮寺門前、東側の高林寺門前から浅嘉町一帯にかけて青物を商う店が軒を並べ、他の商家と共にすこぶる繁昌したのである。とりわけこの市場は幕府の御用市場でもあった。明治十年、府令によって駒込青果市場組合と言う名稱で組合や出来たが誰も市場などと呼ぶものはなく、やっちゃばとか土物店と呼び親しんだものである。
 土物店とは青物の多くが土のついたままなのでそれに相応しくつけられた名稱である。その後明治三十四年警視庁令によって青物取扱者だけ高林寺境内に移され営業を続けてきたが、大正十二年の関東大震災のときには類焼を免れたので組合員と小売商とが相計り、数日にわたって義摘、慰問、焚出しなどして罹災者の救済に尽力した。このように、城北最大の市場として繁盛していたが、中央卸売市場法により、昭和十二年三月二十五日、現在の豊島区巣鴨にある豊島ISDN +水市場に収容されたのである。
 遇ぐる太平洋戦争によって、旧駒込青果市場のあった界隈も戦火に遇って全く昔の面影さえとどめず、世人の記憶からもう今や忘れられようとしているのを惜しむの余り、浅嘉町の方々と市場関係者共々相計って、ゆかりのこの地におよその由来を碑に刻み、後世に残すものである。


 また、駒込土物店跡碑の右横には、江戸三大青物市場送跡碑と白鳥神社誌の碑文が建っている。
【白鳥神社誌】
 昭和二十年三月太平洋戦争ノ際米軍ノ爆撃ニヨリ旧碑ハ跡カタモナク破壊サレタ本堂ノ復興モナリ門前草創期モ発見サレタノデ 茲ニ子安地蔵尊ヲ旧地ニ複シ地名ノ由来ヤ白鳥神社ノ史実ヲ知ルコノ碑ヲ再建ス
     昭和五十一年十月吉祥日


【旧駒込浅嘉町 (左側) 11:03
 直ぐ先左側、多急便「クロネコヤマト」の店前の柱に、旧駒込浅嘉町
(あさかちょう)の説明板が針金で吊り下げられていた。
【旧駒込浅嘉町】 (昭和41年までの町名)
 もと、駒込村のうちであった。
 天和2年(1682)の大火で、黒鍬の者(江戸城内の作事、防火、城番などの雑事)の屋敷が、神田から青山浅河町に移ったとき、土地が不足で、この地で補った。青山の浅河と浅嘉が同音なので、駒込浅嘉町とした。
 江戸三大市場駒込の土物店(青物市場)があった。
     文京区


【定泉寺(じょうせんじ) (左側) 11:04
 直ぐ先左側の定泉寺(江戸三十三観音札所第九番)の門を入ったすぐ左に夢現地蔵尊が祀られている。



【夢現地蔵菩薩】
 五代将軍綱吉の頃、定泉寺の檀徒だった根津の村井家当主が、貞享二年(1685)八月八日に夢のお告げで、床下から地蔵菩薩像を彫り出したものを、この寺に奉納されたものとのこと。

【旧駒込片町 (左側) 11:07
 定泉寺の隣が「医歯薬出版(株)」で細道を挟んだ隣の同社分室のブロック塀に、旧町名案内板が立っている。
【旧町名案内・駒込片町】 (昭和41年までの町名)
 むかし、駒込村の内であった。後、麟祥院(春日局の菩提寺領の農地となった。
 元文2年(1737)町屋を開き、岩槻街道(将軍日光御成道)をはさんで、吉祥寺の西側の片側であったので駒込片町と称した。
 明治5年までに、駒込浅嘉町の一部と、南谷寺や養昌寺などの寺地を合併した。
 同24年、元下駒込村の内神明原の内を併せた。
 南谷寺
(なんこくじ)の目赤不動は、もと動坂にあったが、寛永のころ(1624~44)三代将軍家光が鷹狩りの途中立ち寄り、目黒・目白に対して目赤不動と命名し、寺を現在地に移した。養昌寺に、樋口一葉の思慕の人半井桃水の墓がある。


南谷寺(目赤不動尊)】 (左側) 11:09~11:13
 「医歯薬出版(株)」の隣にある南谷寺は、目赤不動尊として有名である。
 門を入ると正面に本堂があり、本堂の手前右手に不動堂が建っている。
    

【江戸五色不動の一つ 目赤不動尊】
 この不動尊は、もとは赤目不動尊と言われていた。元和年間(1615~24)万行和尚が、伊賀国(いまの三重県)の赤目山で、黄金造りの小さな不動明王像を授けられ、諸国をめぐり、いまの動坂の地に庵を結んだ。
 寛永年間(1624~44)、鷹狩りの途中、動坂の赤目不動尊に立ち寄った三代将軍家光から、現在の土地を賜わり、目赤不動尊とせよとの命を受け、この地に移った。それから目赤不動尊として、いっそう庶民の信仰を集めたと伝えられている。
 不動明王は、本来インドの神で、大日如来の命を受けて悪をこらしめる使者である。剣を持ち、怒りに燃えた形相ながら、お不動さんの名で庶民に親しまれてきた。江戸時代から、目赤、目白、目黄、目青、目黒不動尊は五色不動として、その名が知られている。
 目白不動尊は、戦災で豊島区に移るまで区内の関口二丁目にあった。
     文京区教育委員会  平成3年3月

【養昌寺(ようしょうじ) (左側) 11:15~11:19
 南谷寺の隣が養昌寺
 門を入って正面に本堂があり、その前を右に真直ぐ進んだ墓地の突当りに半井桃水の墓がある。

【半井桃水の墓】
 万延元年~昭和元年(1860~1926)。対馬に生まれ、名は洌(れつ)。桃水は号。別号は菊阿弥。
 共立学舎に学び、明治21年東京朝日新聞社に入社して、新聞小説作家として活躍した。「天狗廻状」「胡砂吹く風」などの時代小説を著した。
 桃水は、樋口一葉の師として、また一葉の思慕の人としても知られている。
 墓は、墓地を入った突当りにある。
         曹洞宗 繁栄山養昌寺
     文京区教育委員会  平成5年3月

旧駒込吉祥寺】 (左側) 11:21
 「吉祥寺前」信号を越えた左側の寺、吉祥寺にかかる所に旧町名案内板が立っている。

【旧町名案内 旧駒込吉祥寺町】 (昭和41年までの町名)
 むかしは駒込村の農地であった。江戸時代初期に、越後村上城主掘丹後守の下屋敷となった。
 明暦3年(1657)の振袖火事(明暦の大火)後、水道橋(もと吉祥寺橋)の北側一帯にあった吉祥寺が移って来た。そして岩槻街道(日光御成道)に沿って門前町屋が開かれた。延享2年(1745)から町奉行支配となった。
 明治2年、吉祥寺門前町と吉祥寺境内の全域を併せて、駒込吉祥寺町とした。
 江戸時代、吉祥寺には栴檀林
(せんだんりん)といって、曹洞宗の学問所があった。学寮・寮舎をもって常時1,000人余の学僧がいた(現在の駒沢大学に発展)。二宮尊徳、榎本武揚、鳥居燿蔵、や川上眉山らの墓がある。


【歴史と文化の散歩道】 (右側) 11:22
 吉祥寺の門前車道側に歴史と文化の散歩道と題する案内板が掲げられ、都内全域に渡る数々の散歩コース、近隣の地図と駒込寺町散歩の案内が載っていた。
【駒込寺町散歩】
 駒込寺町散歩は、根津神社から駒込駅へと向う約2.3Kmのみちのりです。かつて日光への御成道であった本郷通りを歩きます。通り沿いの多くの神社・仏閣、そして都内屈指の大名庭園である六義園などをめぐります。
【旧岩槻街道と文学の道】 

 吉祥寺前の本郷通りは、人形の町岩槻に続く道である。江戸時代、将軍が日光東照宮へ向う日光御成道としての役割を果たした旧岩槻街道にあたる。絵図で見られるように、多くの店が軒を連ねていたこの街道は、東京の台地の一つである本郷台地の中央を通っている。
 この尾根筋の道に対して、台地の縁にある根津神社から団子坂へ抜ける藪下通りは、明治の文豪達の散歩道であった。
 付近には「吾輩は猫である」の舞台になった夏目漱石の旧居(猫の家)をはじめ、居宅2階で海を眺められたところから名付けられて森鴎外の観潮楼の跡などがあり、この地と文学のかかわりの深さをしのぶことができる。


【吉祥寺 (右側) 11:23~11:43
 旧町名案内板が立つ隣から吉祥寺の境内になり、植え込みの中に寺の説明板と『不許葷酒入山門』と刻まれた石柱が建っている。

【曹洞宗 諏訪山 吉祥寺 本駒込3-19-17
 長禄2年(1458)大田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一字を設け、「吉祥寺」を称したのがはじまりという。
 天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦3年(1657)大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。
 僧侶の養成機関として栴檀林(駒沢大学の前身)をもち、一千余名の学僧が学び、当寺の幕府の昌平坂学問所と並び称された。
 古い堂塔
  山 門  享和2年(1802)再建、江戸後期の特色を示す。
  経 蔵  文化元年(1804)再建、栴檀林の図書収蔵庫。文京区指定文化財。
 墓   所
  二宮尊徳(明治末期の農政家)             (墓地内左手)
  鳥居燿蔵(江戸南町奉行)                (墓地内左手)
  榎本武楊(江戸末期の幕臣、明治時代の政治家)  (墓地内右手)
  川上眉山(小説家)                     (墓地内右手)
     ―郷土愛をはぐくむ文化財―
     文京区教育委員会  平成6年3月


 『栴檀林』の扁額が掛かる山門をくぐると、枝垂桜が並ぶ長い参道になるが、期待に反してここの枝垂れは花が少なかった。
  
  

 参道を進むとすぐ左側に茗荷稲荷がある。

駒込吉祥寺 茗荷稲荷縁起】
 
当吉祥寺は明暦大火の際府内よりこの地に移り、家康公ゆかりの毘沙門堂脇の庚申塚に茗荷権現あり、寛文年間疫病まんえんの折祈願の人絶えず、特に痔病の根治に霊験ありとされ、茗荷を断って心願する者多し、去る戦災に諸堂焼失せるも昭和二十八年この地に再建、堂裏にある茗荷権現碑は下総国府台八十右ェ門なる者が文久年間建立したものなり。
     駒込吉祥寺


 茗荷稲荷のすぐ先、左側にお七・吉三郎 比翼塚が建っている。
  

 その先、右側に川上眉山の墓がある。

【川上眉山の墓】
 
明治二年-明治四十一年(1869-1908)。大坂の生まれ、名は亮(あきら)。小説家。
 東大を中退して尾崎紅葉や山田美妙と交わり硯友社に参加。また「文学界」同人とも交わる。
 明治二十八年には社会批判を含んだ「書記官」などの作品を発表する。
 後年、自然主義を取り入れようとするが行きづまり、ついに自ら命を絶った。
     東京都文京区教育委員会


 更に、左側に二宮尊徳の墓碑がある。

【二宮尊徳の「墓碑」】
 
天明七年-安政三年(1787-1856)。相模の人。通称、金次郎。江戸末期の農政家。
 人物を認められて小田原藩領下野国桜町の荒廃を復興したことで知られる。
 その後、常陸その他の諸藩の復興に農政家として、また政治力によって寄与するも、日光神領の復旧に従事中病死する。彼の思想・行動派後に「報復社運動」として展開するようになった。
     東京都文京区教育委員会


 広い境内の手前右側には鐘楼が建ち、その脇に植えられている枝垂桜が満開で見事だった。
    

 鐘楼の右奥には経蔵が建っている。

【吉祥寺 経蔵一棟】 区指定有形文化財(建造物)
 
江戸時代、この寺は曹洞宗の修行所 栴檀林として知られ、経蔵は図書収蔵庫であった。現在の経蔵は、焼け残った旧経蔵の礎石をもとに、1804年(文化元)古いきまりによって再建したものと考えられる。
 旧経蔵は1686年(貞享3)に建造し、1778年(安永7)に焼失と伝えられる、1933年(昭和8)に大修復を行った。

 屋根は桟瓦葺(さんかわらぶき)、屋根の頂に青銅製の露盤宝珠(ろばんほうじゅ)をのせた「二重宝形造り」である。外側の各所に彫刻を施し、意匠と技術に粋をこらしたみごとなものである。
 蔵内に、経典を収蔵する八角形の輪転蔵がおかれている。建造物としての価値とともに東京都内に残る江戸時代建造の経蔵として貴重である。
    ―郷土愛をはぐくむ文化財―
     文京区教育委員会  平成8年3月


 鐘楼の先は広い境内になり、一番奥に本堂が建っている。
  


【駒込富士神社 (右側) 11:49~11:52
 街道に戻って、次の「富士神社入口」信号を右折すると、すぐ左側に駒込富士神社がある。
 鳥居をくぐって参道を進むと正面に富士塚があり23段程の石段登った上に社殿が建っている。
 石段の左右には奉納された石碑が沢山並んでいた。また塚下右手に富士神社の説明板と共に駒込ナスの説明板も立っていた。

【富士神社】 
 
富士神社はもと、旧本郷村にあった。天正元年(1573)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が、夢に木花咲耶姫命の姿を見て、翌年駿河の富士浅間神社を勧請した。
 寛永六年(1629)加賀藩前田候が上屋敷(現東京大学構内)を賜わるにあたり、その地にあった浅間社はこの地に移転した。東京大学構内一帯は住宅表示改正まで本富士町といっていた。
 社伝によれば、延文年間(1356~61)には既に現在の社地は富士塚と呼び、大きな塚があったといわれる。この塚は一説によると、前方後円の古墳といわれる。
 富士神社の祭神は、木花咲耶姫命で、氏子を持たず富士講組織で成り立っていた。
 山嶽信仰として、近世中世頃から江戸市民の間に、富士講が多く発生した。旧五月末になると富士講の仲間の人々は、六月朔日(ついたち)の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、祭を行なった。そして、富士の山開きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣でた。富士講の流行と共に、江戸には模型の「お富士さん」が多数出来た。文京区内では、「駒込のお富士さん」といわれるここと、護国寺の「音羽の富士」、白山神社の「白山の富士」があった。
    ―郷土愛をはぐくむ文化財―
     文京区教育委員会  昭和五十年三月


江戸・東洋の農業 駒込ナス】
 幕府がおかれた事で、江戸の人口は急増しました。主食のお米は全国から取り寄せましたが、一番困ったのは新鮮な野菜の不足で、江戸城内でも野菜を栽培していた記録があります。多くの大名たちは国元から百姓を呼び寄せ、下屋敷などで野菜を作らせました。
 このようにして、江戸近郊の農村では換金作物として、ナスやダイコン、ゴボウなどの野菜栽培が盛んになり、当富士神社周辺でも、各種の野菜栽培が生産されるなど、大消費地江戸の供給基地として発達しました。
 とくに、ナスは優れたものが出来たことから「駒込ナス」と江戸庶民に好まれ、徳川幕府が発行した「新編武蔵野風土記稿」(1828年)にも記されています。
 農家はナス苗や種子の生産にも力を入れるようになり、タネ屋に卸していました。
 ここ、巣鴨駅の北西にある旧中山道にはタネ屋が集まり、さながらタネ屋街道の趣をなし、駒込、滝野川などの周辺の農家が優良品種の採種と販売に大きく貢献していました。
     平成9年度JAグループ 農業協同組合合法施工五十周年記念事業


【江岸寺(えがんじ) (左側) 11:54
 「富士神社入口」信号を渡って左側に行くと江岸寺があり、門前に鳥居家の説明板が立っていた。
【江岸寺と鳥居家】
 曹洞宗江岸寺の開基は、鳥居忠政である。以後当寺は鳥居家の江戸の菩提寺となった。忠政の父元忠は、今川義元の人質となっていた家康に仕えた。人質解放後は、三方ヶ原の戦、長篠の合戦等で、家康に常に付き従い、輝かしい武功を立てた。天正18年(1590)家康関東入国の際は、下総矢作(現千葉県佐原市)4万石を拝領した。慶長5年(1600)関ヶ原の戦では、家康から伏見城の留守番を命ぜられた。西軍に伏見城の明渡しを命じられた時、拒否し石田光成等の総攻撃を受けた。これが関ヶ原の戦の導火線となった。城を出て戦うこと五たび、力つき討死し、城も落ちた。
 その子忠政は大坂の陣では、江戸城の留守居役を勤め、その後、東北の押さえの地、山形22万石を与えられた。忠政は三河譜代の範たる祖先を祀るため、この寺院を建立した。現在忠政の供養塔が残っている。鳥居家はその後、六代忠英の時、下野国壬生4万石に移封された。
 鳥居氏の子孫、鳥居忱
(まこと)は壬生藩の江戸の大名屋敷に生まれた。壬生藩の貢進生(こうしんせい)(藩の奨学生)として大学南校(東大の前身)に学んだ。卒業後、音楽取調掛(東京音楽学校の前身)伝習生として、アメリカ人の教師メーソンに洋楽を学んだ。
 東京音楽学校教授を勤めるかたわら、多くの作詞を手掛けた。中でも「箱根八里」は滝廉太郎の作曲で、多くの人々に愛唱されている。鳥居忱はここに眠っている。
    ―郷土愛をはぐくむ文化財―
     文京区教育委員会  平成16年3月


【旧駒込富士前町 (左側) 11:57
 左側「区立昭和小学校」の前に旧町名案内板が立っている。

【旧町名案内 旧駒込上富士前町】 (昭和41年までの町名)
 もと伝通院領の百姓地であった。元文2年(1737)町屋を開き、延享2年(1745)から町奉行支配となった。
 富士前町(富士神社の前にある町なので名づけられた)の上の方(北方)にあるので、上富士前町と命名された。
 明治維新後、旧柳沢下屋敷、藤堂下屋敷及び武家屋敷地を併せた。
 町内に都立六義園がある。柳沢吉保(5代将軍綱吉の側用人・大老格)が、元禄十五年(1702)、下屋敷に完成した回遊式築山泉水庭園である。江戸大名庭園の代表的な名園である。
 明治11年に、岩崎家の所有となり、昭和13年同家から東京市に寄付され、公園として一般に公開された。

     
文京区

【建設省土木研究所発祥の地 (左側) 11:58
 旧町名案内板の隣に建設省土木研究所発祥の地の石碑が建っている(上の写真で、旧町名案内板が立っている次の植込みの中)
【建設省土木研究所発祥の地】
 大正十一年、この地に、私たちのくらしをまもる土木技術の研究開発を推進するため、内務省土木試験所が設置されました。昭和二十三年建設省土木研究所と改称、昭和五十四年筑波学園都市に移転しました。
 現在も、我が国の土木技術に関する研究及び開発を総合的に実施し、災害を防ぎ、豊かな国土と快適な生活環境をつくるため、たゆみない努力を続けております。
     平成八年十月吉日 建設省土木研究所


【六義園 (左側) 12:01~12:17
 「上富士前」信号を渡った次の道を左折してレンガ塀に沿って行くと六義園の正門がある。
 左折した直ぐのレンガ塀に説明板が掲げられている。

【レンガを使用した外周塀】
 江戸時代中期に作庭された文化財庭園に、幕末以降にもたらされた技術を用いたレンガが使われている理由は、この文化財庭園の歴史的な変遷が大きく関わっています。
 江戸時代当時の柳沢家の屋敷範囲と、明治年間以降の岩崎家の敷地とは、文化財庭園として指定された現在の六義園の範囲よりも東西南北にそれぞれ広がっていました。指定文化財範囲から外れた、これらの土地では、日露戦争の祝賀会が開催され、第二次大戦当時には児童向けの科学館なども置かれていました。従って、改修前のレンガ塀は、第二次大戦後に、国指定の文化財として整備する前後の時期に、管理用に構築されたものであり、岩崎家所有当時の外周塀ではありません。しかしながら、柳沢家から岩崎家、そして東京市(府)から東京都へと、所有者や管理者が移り変わってゆく中で、岩崎家が省有していた湯島や本所などの屋敷でも採り入れられた、洋風の意匠であるレンガ塀も、歴史的な変遷を物語る貴重な文化財といえます。


 本日は、しだれ桜を見る客で大混雑していた(下の写真は正門)。六義園には何度も来ているので、今回はしだれ桜を見る為だけで入園した。

【六義園】
 入園料         一般300円(65歳以上 150円)
 開園時間       9時~17時(3/17~4/3までは午前9時~午後9時)
 休園日         12月29日から1月1日
 有料施設        宜春亭(茶室) 心泉亭(集会場)
 開園年月日      昭和13年(1938)10月16日
 開園面積        87,809.41㎡(26,562.3坪)
 文化財指定      国指定特別名勝
 文化財指定名称   六義園
 文化財指定年月日  昭和15年8月30日 名勝指定
              昭和28年3月31日 特別名勝指定
              平成12年9月 6日 追加指定


 正門を入ってすぐ右に六義園の説明板が立っている。

特別名勝 六義園】
 本年は元禄十五年(1702)武州川越藩主柳沢出羽守吉保が築造した庭園で、江戸の大名庭園中現存する日本で屈指の名園です。昭和十五年八月、史跡名勝天然記念物保存法によって名勝の指定を受け、昭和二十八年四月特別名勝となり、日本でも特に優れた名園として大切に保存されています。
 庭園の形式は江戸時代の庭園にみる所謂回遊式築山泉水庭園と呼ばれます。園の中央に池を設け、中島を置き島に妹背山があり、東南部に平坦な芝生、その他の部分には大小多数の築山が起伏し、園の北部に最大の築山藤代峠を設け、各所に桃の茶屋・滝口の茶屋・吟花亭・熱海の茶屋・つつじに茶屋・芦辺の茶屋等あづまやを配しています。その後改修、また今次大戦により焼失したものもあります。またこの庭園の作庭については、吉保自身の培った文芸趣味の思想に基づき、自分から設計七年余りの歳月を費やし池を掘り、山を築き流れを見せて、紀州和歌の浦の景観を、あるいは「万葉集」や「古今集」から名勝を選び園内に八十八景を写しだすという園の構成です。
 「六義園」の名は、中国の古い書物である毛詩に配されている賦・比・興・風・雅・頌の六義に由来する和歌の六体によるもので、吉保自身「むくさのその」と呼ばせ、館を「六義館」と書いて「むくさのたち」と読ませています。
 このような庭園も吉保が没した後は荒れる一方であったが、文化七年にいたり漸く整備され、明治十年頃付近の藤堂・安藤・前田の各氏邸とともに、岩崎彌太朗氏の別邸のとなるに及んで再び昔の美しさを取り戻し、昭和十三年一月岩崎氏から庭園を中心とした三万余坪を市民の鑑賞・休養の地として、東京市に寄贈され同年十月東京市の管理のもとに公開され今日にいたっています。
     東京都


 桜の季節は閉園時間も延長され、園内がライトアップされるほど有名なしだれ桜は、正門を入ってすぐの右手にある。
 私達が訪れた時は、残念ながら盛りを過ぎていた。

【しだれ桜】 東京都昭和三十年代
 「シダレザクラ」は、「エドヒガン」という桜の品種の中で、枝が柔らかいために垂れながら生長していく種類のものです。「ヨメイヨシノ」より少し早く、お彼岸のころに咲きますが、4月に入ってから満開になる年もあります。
 昭和三十年代に、東京都によって植栽されたもので、樹齢はまだ六十年~七十年ですが、高さ約15m、幅約20mと、大きく形もよく生長しています。
 満開時の、薄紅色の滝のような姿は圧巻です。「六義園のしだれ桜」として親しまれ、多いときは一日で三万人以上のお客様にご覧いただいています。


 帰りは池右側(北側)の縁を進んで「染井門」方面に向う。途中馬場跡(千里場)に出た所に久護山
(ひさもりやま)跡・千里場(せんりじょう)の説明板が立っていた。
【久護山跡・千里場】 『六義園記』
 右手の先の「染井門」(臨時の出入口・通常は閉門)の前に、小さな築山があります。付近は庭園の敷地の最北にあたりますが、かつては毘沙門天(びしゃもんてん)がまつられた「久護山」という山があり、六義園全体を護る重要な場所でした。
 左手に伸びる道は「千里場」と呼ばれ、馬場として作られました。杜子美の漢詩から名前がとられています。今は残っていませんが、園内には「観徳場」という弓道場もありました。大平の世となったのちも、大名庭園には武術のための場所が作られていました。

 本日は「染井門」が開いていたので、そちらから出たが、外には大勢の人が一列に並んで順番に入園するほど混雑していた。
 街道に戻った所は「駒込橋」信号である。 


<昼食> 12:20~12:45
 六義園を出たすぐ先の「ケンタッキーフライドチキン」で昼食。


妙義坂】 12:48
 「駒込駅」で山手線に架かる陸橋(駒込橋)を渡ると下り坂になるが、渡ったすぐ左側の歩道上に妙義坂
説明標柱立っている。
【妙義坂】
 坂の西方駒込三丁目にある妙義神社が坂名の由来であり、「大日本名所図会」に「妙義神社は駒込妙義坂下にあり、道路の西に、『これよりみょうぎみち、やしろまで半丁』と記せし石標を建つ。(中略)当社の祭神は日本武尊にして、左に
高産霊神、右に神功皇后、応仁天皇を奉祀す。社伝に『日本武尊東征の際此地その陣営となりたければ後に一社を建て白鳥社と号す』」と記されている。


【染井吉野桜記念公園 (右側) 12:51~12:58
 妙義坂の標柱から右手を見ると染井吉野桜記念公園が見える。
 先の信号で右手に渡ると旧駒込橋の欄干が一部保存されていたが、説明文等は無かった。
  

 公園の周りには『染井よしの桜まつり』の幟がはためいていた。
 公園に入り、南側(駅方向でホテルメッツが聳えている前)に染井吉野櫻發祥之里の説明碑が建っている。

【染井吉野櫻發祥之里・駒込】
 駒込の一部は江戸時代染井と呼ばれ、巣鴨とともに花卉・植木の一大生産地であった。
 この地で江戸時代以後数多くの優れた園芸品種が誕生したが、なかでも染井吉野は、当地の地名から名付けられ、世界を代表する桜の品種となった。
 左の絵は、植木屋の第一人者、染井の伊藤伊兵衛の庭で大勢の人が花を愛でている様子である。
【染井之植木屋(絵本江戸桜)北尾正美画 1803年(享和三年)】
 「花屋の伊兵衛といふ、つつじを植しおびたゝし、花のころ八貴賎群集す、其外千草万木かずをつくすとなし、江都第一の植木屋なり、上々方の御庭木鉢植など、大かた此ところよりささぐること毎日々々なり」とあります。


 公園の北(駅と反対」)側には、『ワシントンD.C.から里帰りしたヨメイヨシノ 誕生の地駒込(旧染井村)に植える』と記された桜が植わっている。
  


【千鳥屋 (左側) 12:59
 街道に戻って直ぐ左側に、創業寛永七年(1630)の和菓子店「千鳥屋」がある。チロリアン、千鳥饅頭、丸ボーロ等が古くから愛されている。
  


【ことぶき地蔵堂跡 (左側) 13:07
 「霧降橋」信号を越えて、上り坂が始まる左側の歩道上車道側にことぶき地蔵堂跡の説明板が立っている。この少し手前から北区に入っている。
【ことぶき地蔵堂跡】
 この説明板の歩道を挟んだ向い側には、地蔵尊のお堂が建っていました。お堂は、この付近で交通事故が多発していたことから、交通安全と西ヶ原坂下通り商店街(現西ヶ原霜降橋商店街)の繁栄を祈念し、昭和二十八年(1953)十一月に地域の人々により建立されました。尊像は、無量寺に安置されていた子育て地蔵尊を遷座し、その際、地域の子供たちによる稚児行列も行なわれました。以来、「ことぶき地蔵」と称されるようになり、夏の地蔵盆のほか、毎月六の日を縁日とし、本郷通り沿いに露店も出て多くの人々で賑わいました。
 地蔵尊が祀られて以来、本郷通りの改修工事なども進み付近の交通事故が減少したことから、子育てや交通安全を願う人々の信仰の対象となっていました。長い間、西ヶ原霧降橋商店街の人々がお世話してきましたが、平成二十七年(2015)、地域の人々に惜しまれつつお堂は解体され、尊像は無量寺の門前に再び遷座されました。
     平成二十八年一月 東京都北区教育委員会


旧古河庭園】 (左側) 13:11
 ことぶき地蔵堂跡の説明板の先で左カーブして大炊介坂
(おおいのすけざか)を登って行き、もう一度左カーブすると旧古河庭園の正門に着く。
 大炊介坂は、この辺りに住んでいた中世の武将保坂大炊介にちなんで名付けられた坂である。坂の頂上付近に標柱が建っているはずだが見逃してしまった。
 旧古河庭園内の庭は入園料を払えば見学できるが、洋館の見学は往復はがきによる事前予約が必要である。
 私達は、ここも過去に見学しているので入口だけ見て庭園には入らなかった。バラで有名な庭園である。

【旧古河庭園】
 この庭園(面積30,780㎡)は、英国風古典様式の本館を中心として、その前庭の欧風花壇及び池泉回遊式日本庭園よりなっております。
 もと古河氏の所有でありましたが、昭和30年4月、東京都の管理するところとなりました。
 本館及び前庭欧風花壇は、英国人ジョサイア・コンドル博士の設計によって、大正六年竣工したもので、また心字池を中心とする池泉回遊式日本庭園は、京都の庭師植治の作庭によるものでありますが、ともに和洋の様式が調和した稀にみる設計というべく、その文化財としての価値も大なるものがありますので、これを永く保存すると共に一般に公開するものです。
 本園は平成18年1月26日に国の名勝に指定されました。

入園料                開園時間
 一般     150円         午前9時から午後5時まで(入園時間は、午後4時30分まで)
 65才以上  70円        休園日
                      12月29日から翌年1月1日まで
     東京都

【西ヶ原一里塚 (両側) 13:25
 南北線「西ヶ原駅」を過ぎると、右側にある「滝川警察署」斜め前の中央分離帯と道を挟んで隣の歩道上に、日本橋から二番目の西ヶ原一里塚が残っている。警察と塚の間の道には七社神社の鳥居が建っている。
 二つの塚に挟まれた部分が江戸時代の街道の道幅である。


左側(南塚)


右側(北塚)
【西ヶ原一里塚】 国指定史跡(大正11年3月8日指定)
  
慶長九年(1604)二月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じました。
 西ヶ原一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から数えると日光御成道の二番目の一里塚にあたります。都内の日光御成道は現在の本郷通りが主要なルートにあたりますが、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。将軍が日光東照宮に社参する際の専用道路として使用されたので、この名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。
 旧道をはさんで一対の塚が現存していますが、これは旧位置に保存されている都内の一里塚として貴重な文化財です。車道の中に位置する方の塚には「二本榎保存之碑」と題される大正五年六月の記念碑があります。西ヶ原一里塚は当時、東京市電の軌道延長路線上に位置したため、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりました。碑には、こうした経緯と、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例として記念碑的な意義をもつものといえます。
     平成七年三月 東京都北区教育委員会

【二本榎保存之碑】 
 一里塚に建つこの碑は、大正初期に西ヶ原の一里塚と榎が東京市電の軌道付近で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長・滝野川町長、地元住民の努力により保存されたことを記念して、運動に参加した有志者により建てられました。案文を記した三上参次は歴史学者で名文家としても知られています。この時保存された榎は年と共に枯れ、現在の木は新しく植栽されたものです。
 二本榎保存之碑
   公爵徳川家達題
府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰 地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るもの あり之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす 往昔群雄割拠の世道路久しく乞梗塞せしか徳川氏覇府を江戸 に開くに当り先づ諸街道の修築を命じ道を夾みて松を植 一里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ 然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧片の厄を免れず今 存するもの甚少し二本榎は実に其存するものゝ一なり先 年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里 塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせしが幸にして市 の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之 を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東 京市長となるに及び将来土地の繁栄と共に車馬躪落老樹 の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志 者と謀る所あり男爵渋沢栄一君最も力を之に尽し篤志者 の義損を得て周辺の地を購ひ人家を撤して風致を加へ以 て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び 現市長法学博士奥田義人君亦善く其事を継承す今茲工成 りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料 を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あ り又此樹の保存に就きて当路者に進言せし縁故あり乃ち 辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃 は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし 幕府治平を講ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に 廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実 に渋沢男爵両市長町長及び諸有志者の力に頼れり 老樹若 し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を 以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを 得ん
大正五年六月    文学博士 三上参次撰
                    阪 正臣 書
                     廣群鶴刻

 (裏面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用ゐたるものなり虎の門は 慶長年間に始めて築造せられ其後数次の修復を経たるが明治年間撤 廃して石垣も亦毀たれたり今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰する に於て適当の記念物なればなり
         (一部原文を現代かな漢字に直しています)
     平成十三年三月 東京都北区教育委員会

【飛鳥山公園 (右側) 13:30~13:59
 西ヶ原一里塚のすぐ先に「一里塚」信号があり、ここから「王子駅」迄の右手に飛鳥山公園が広がっている。
 公園の駐車場先に入口があり、まず旧渋沢庭園に入って行く。
【旧渋沢庭園】
 開園時間  3月1日~11月30日 9:00から16:30まで
        12月1日~2月末日  9;00から16:00まで
       料金:園庭内散策のみ入園無料
 晩香慮・青淵文庫  公開時間 10:00~15:45
              入館料:一般300円
 園内に入って左手に青淵(せいえん)文庫、右手に晩香慮(ばんこうろ)の建物が建ち、奥に旧渋沢庭園が広がっている。

【青淵文庫】 国指定重要文化財(平成17年12月27日指定)  旧渋沢家飛鳥山邸  建築年 1925(大正14)年
 
渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建物である。
 外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられている。上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、「竜門社」を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階には書庫があり、床のモザイクや植物模様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。
     財団法人 渋沢栄一記念財団
【晩香慮】 国指定重要文化財(平成17年12月27日指定)  旧渋沢家飛鳥山邸  建築年 1917(大正6)年
 近代日本の大実業家のりとり渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設㈱)の清水満之助
長年の厚誼を謝して贈った小邸である。
 建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ、壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまやかな意匠の冴えを見ることができる。なお晩香慮の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。
     財団法人 渋沢栄一記念財団


【飛鳥山公園】
 旧渋沢庭園を出て、続く広場に入ったら、花見客で大混雑していた。
 広場の前には渋沢史料館、飛鳥山博物館、紙の博物館が並んでいる。
  

 その先に進み、「本郷通り」を跨ぐ歩道橋に出て左右を見ると、都電荒川線がS字カーブの線路を走っているのが見られる。
  王子駅・三ノ輪橋方面  
早稲田方面


【音無親水公園 (左側) 14:03~14:09
 歩道橋を渡って「本郷通り」の左側に降り、王子駅へ大きく右カーブする所に音無橋が架かっている。
 日光御成街道はここを右折するが、「音無橋」信号を真直ぐ渡り、橋の入口から左下に下りて「音無橋」の下をくぐると、せせらぎの流れる音無親水公園がある。
 この公園は石神井川の旧流路に整備された公園で、北区付近では音無川と呼ばれ、古来から景勝の地として親しまれてきた所である。「日本の都市公園100選」に選ばれている。

【音無親水公園】
 音無川のこのあたりは、古くからの名所として知られていました。江戸時代の天保七年に完成した「江戸名所図会」や、嘉永五年の近吾堂版江戸切絵図、また、安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれていたことが分かります。
 「江戸名所花暦」「遊歴雑記」などには、一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りもできれば泳ぐこともできる、夕焼けがひときわ見事で川の水でたてたお茶はおいしいと書かれており、江戸幕府による地誌、「新編相模風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて、飛鳥山が手にとるように見え、眼の下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、谷間の樹木は見事で、実にすぐれていると記されています。
 こうした恵まれた自然条件をいまに再生し、後世に伝えることを願って、昭和63年、北区は、この音無親水公園を整備しました。
   たきらせの 絶えぬ流れの末遠く すむ水きよし 夕日さす影
                                      飛鳥山十二景のうち滝野川夕照より
     昭和六十三年三月 東京都北区

【王子子育地蔵尊】 (左側) 14:15
 公園内を散策し、木橋の架かる所から左の土手に上ってJR東北本線のガードに出る。
 ここで左折して、右から線路に沿ってきた御成街道に合流する。線路沿いの道はすぐ、信号のある十字路に出るが、御成街道はこの信号を左折し、すぐ右折して坂を登る。
 この右折した所の左側に王子子育地蔵尊がある。

【王子子育地蔵尊】
 王子の子育地蔵尊は、安山岩系の石を丸彫した、像の高さ一ニニcmの石造地蔵菩薩立像です。釈迦如来が没してから弥勒菩薩が出現するまでを、仏教では無仏時代といいますが、地蔵菩薩は、この時代に人々を救済する菩薩と信じられていました。
 当地蔵尊は、昭和二〇年(1945)四月一三・一四日の空襲によって火を浴び、像の表面が剥落しているため、造立した年代や造立者はわかりません。
 昭和三年(1928)一二月に出版された『王子町誌』によれば、子育地蔵尊は、同所にあった山本家の祖先が請願して室町時代の末期、天文元年(1532)に建立安置し、当時の堂宇は元禄二年(1689)に改築したものだと記されています。現存の像の造立年代を判断するには資料が不足していますが、同所で古くから地蔵尊が祀られていたことが推測されます。
 また、その信仰については、「古来子育及商売繁昌の地蔵尊として信仰せられ、毎月四の日の縁日には参拝する者実に夥しく、縁日商人の露店を張るものも頗る多いので、その賑わい真に筆紙の及ぶところでない」とあり、近代には子育
地蔵として信仰を集めていたことが知られます。
  お唱えする言葉
  「おん かかか びさんまえい そわか」
      ※私有地に建っておりますので、お静かにお参り下さい。
     平成二十八年 東京都北区教育委員会

【王子大坂 14:18
 子育地蔵の所からの上り坂を王子大坂という。

【王子大坂】
 飛鳥山に沿って東におりた岩槻街道は、石神井川を渡って左に曲がり、現在の森下通りを抜け、上郷用水に架かっていた三本杉橋の石の親柱の位置から北西に台地に登る。この坂が王子大坂である。岩槻街道は江戸時代、徳川将軍の日光社参の道で日光御成街道と呼ばれた。登り口に子育地蔵があったので地蔵坂とも呼ばれ、昔は縁日でにぎわった。また、坂の地形が、海鳥の善知鳥(うとう)の嘴のようなので「うとう坂」の名もある。
     平成二年三月 北区教育委員会

王子稲荷神社】 (右奥) 14:21~14:31
 私達は「王子大坂」の右下にある王子稲荷神社に寄るために、王子大坂を上らずに、標柱のある手前の右斜めの道を進んだ。
 「中央工学校」を過ぎた突当りに『王子の狐』で有名な王子稲荷神社がある。こちら(南側)の入口は脇参道と思われる。
 正門は東側にあるが、平日は幼稚園の敷地を通るために閉門されているらしい。土日などの幼稚園休園日は開放されていた。
 南側の鳥居をくぐり境内に入ると左側に東を向いて極彩色の社殿が建っている。
    

 社殿の右手にある『←願掛けの石・狐の穴跡』の案内に従って奥に進むと、小ぶりな本宮があり、更にその右奥に御石様と称する社が建っている。

【御石様】
 願い事を念じつつ 持つ石の軽重により 御神慮が伺えるといふ

 願い事を念じながら『お石様』を持ち上げ、予想した重さより
 ※軽く感じたら、願い事が叶いやすい
 ※重く感じたら、叶いづらいので、
   まだまだ努力が必要との、言い伝えがあります。
    無理をして腰を痛めないように御注意下さい。
    触って御神徳を頂き、心願成就(以下判読不能)。


 御石様の左手の石段を上った所にも小さな祠とその脇に小穴があり、この穴が狐の穴跡と云われている。
    


 帰りは、社殿前の石段を下りて幼稚園を右に見ながら正門から外に出た。
  


【名主の滝公園 (右奥) 14:33~14:55
 王子稲荷神社の正門を出て左(上の写真では門に向って右手)に行くと90m程で名主の滝公園入口(医薬門)に着く。


医薬門
【名主の滝】
 名主の滝は、王子村の名主畑野家が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培して、一般の人々が利用できる避暑のための施設としたことにはじまるもので、名称もそれに由来しています。この時期はさだかでありませんが、嘉永三年(1850)の安藤広重による「絵本江戸土産」に描かれた「女滝男滝」が名主の滝にあたると思われますので、それ以前のことと考えられます。
 明治の中頃、畑野家から貿易商である垣内徳三郎の所有となり、氏は、好んでいた塩原(栃木県)の景に模して、庭石を入れ、楓を植え、渓流をつくり、奥深い谷の趣のある庭園として一般の利用に供しました。
 昭和七年の文献に、開園期間は四月一日から十一月二十日まで、新緑と納涼と紅葉を生命としていると記されています。
 昭和十三年、東京都は、名主の滝を都市計画公園として計画決定し、翌年これを買収、同三十五年十一月から都立公園として公開されるにいたりました。
 昭和五十年四月一日、東京都から北区に移管、北区立の公園となり、同六十一年十月から一年半、大規模な改修がなされました。
     昭和六十三年三月 東京都北区
【名主の滝公園 開園時間について】
 9時~17時(入園は16時30分まで)
 7月15日~9月15日 9時~18時(入園は17時30分まで)


 医薬門より園内に入り真直ぐ進み、池に沿って時計廻りで進むと、最初に橋の上から女滝見える。
 但し、殆ど水は流れていなかった。
  


 続いて東屋の前に獨鈷の滝があるが、こちらも枯れていた。
  


 東屋の下の池の縁に湧玉の滝があるが、上からは分からなかった、反対岸からなら見えたかもしれない。
 更に、奥へ進むと、唯一水が流れている一番大きな男滝がある。
  

 男滝を過ぎると茶室がある。
 その先に正門があり、門の右手に管理事務所、左手にトイレがある。
 この門から出ないで、更に池の廻りを巡ると、最初に入った医薬門に戻られるので、こちらのほうが良いと思う。
 私達は、考えもせず正門から出てしまったが、遠回りして医薬門に着いた時は失敗したと悔やんでしまった。
 


【王子稲荷の坂 15:01
 再び、王子稲荷神社の正門前に戻り、そのまま神社に沿って右折すると上り坂になり、最初に入った脇参道の鳥居に着いた。
 鳥居の前を真直ぐ登って行くと、右側に王子稲荷の坂と書かれた説明付標柱が立っていた。

【王子稲荷の坂】
 この坂は、王子稲荷神社の南側に沿って東から西に登る坂で、神社名から名前がつけられています。また江戸時代には、この坂を登ると日光御成道があり、それを北へ少し進むとさらに北西に続く道がありました。この道は姥ケ橋を経て、蓮沼村(現板橋区清水町)まで続き、そこで中山道につながっていました。この道は稲荷道と呼ばれ、中山道から来る王子稲荷神社への参詣者に利用されていました。
     平成五年三月 北区教育委員会

【庚申塔 (右側) 15:17
 王子稲荷の坂を登って行くと、左から登ってくる王子大坂の頂上付近で日光御成街道に合流する。
 合流したら右折すると直ぐ、県道460号線へ接するように斜めに合流して行く。
 そのまま県道を進み、二つ目の信号を渡ると太い道と細い道の二股になっているので、右の細い道を「十条台小学校」(右側)の塀に沿って真直ぐ進む。
 細い道に入って程なく、右側にある「小林畳店」の前に庚申塔が建っていた。
 但し、古いものでなく、『庚申塔』と刻まれた脇に『昭和甲戌年十二月之建』とあった。その割には、欠けたり擦り切れて古そうに見えた。
  


【地福寺 (左側) 15:21~15:29
 その先、少し進むと左側に地福寺がある。
  

 門前左側には、大きさや形の異なる六地蔵尊が安置されている。その中の左端の一躯は、王子の三地蔵尊の内の一尊である。

【地蔵尊縁起】
 門前の六地蔵尊の中、左端のお地蔵様が、「王子の三地蔵尊」の内の一尊。(かっては鎌倉街道のお地蔵様とも呼ばれていた。)
 台座に三猿を施した庚申地蔵の形式をとり、その造顕
(ぞうけん)は正徳四年・享保五年作の地蔵尊と共に、江戸時代中期のものと推定される。
 お地蔵様は、六道(六つの苦しみの世界)の衆生の苦しみを自ら代って引き受け、衆生に安らぎと悦びをお与え下さる「代受苦
(だいじゅく)」のご誓願を発(おこ)された、大慈大悲の菩薩様である。そのご請願を各自の心に感謝し、帰依・随順するところに、広大無限のご利益はあらわれる。
御真言 オン・カカカビサンマエイ・ソワカ

     平成元年六月吉日 地福寺


 山門をくぐり境内に入ると、正面に本堂があり、その手前右側に太閤千代しだれが植えられている。

【太閤千代しだれ】
 慶長三(1598)年三月十五日、日本史上もっとも豪勢な花見の茶会が、太閤秀吉によって京都醍醐寺(真言宗)において催されました。
 この醍醐寺の桜を現代の組織培養の技術によって蘇られたのが、当寺の境内の「太閤千代しだれ」です。
     平成二十四年七月八日 地福寺


 本堂の左の墓地の方へ入って行くと、慰音堂の左隣に東京大空襲の説明板が立っている。
【郷土の語り部―お寺の椎の木(樹齢三百歳) 東京大空襲】
 第二次大戦も終焉迫る昭和二十年四月十三日、午後十時四十分、長距離戦闘爆撃機B29が三五二機の大編隊をなして王子、滝野川方面に襲来した。
 当寺王子区には、軍事工場集中していたため標的となったものだが、狙われたのは工場だけではなかった。一般民家も三〇三七、七トンもの焼夷弾による絨緞爆撃にさらされたのである。四時間に及ぶ空爆の結果、
 豊島町、王子町、東十条、神谷町、志茂町、赤羽町、岩淵町、稲付一丁目、稲付二丁目、稲付出井頭町、稲付島下町、岸町、中十条一、ニ、五丁目、上十条四、五丁目
 次々に町が被弾炎上。焼け跡からは、黒焦げになった子供の遺体や、爆風で手足を吹き飛ばされた人々が発見された。山なす屍を通じ、現代戦争においては、すべての国民が否応なく最前線に立たざるを得ないことを知ったのである。
 この空襲による被害状況は次の通り。

死者  一八二名 罹災者  五三、七九〇名   王子区内
 死者  ニ、四五九名  罹災者  六六六、九八六名  東京全域

 当山でもご本尊、山門(江戸時代の建立)、水屋を除いて一山ことごとく灰燼に帰した。樹齢三百年を誇る椎の木も、焼夷弾の破片を浴びて炎上したが、奇跡的にも一命を取り留めた。
(後略)

 慰音堂には貞明皇后像が飾られ、右横に説明文が立っている。

【貞明皇后像】
   
―貞明皇后御製―
つれづれの友となりてもなぐさめよ
           ゆくことかたきわれにかはりて
 ハンセン病に対する偏見が社会に根強く残る昭和の初め、天正天皇の妃・貞明皇后は不運な病に見舞われた人々に深くお心を痛められ、温かい励ましのお言葉と共に多額のお見舞金を屢々全国のハンセン病療養所にお贈りになられた。
 後年、そうしたお見舞いが、一足の足袋を縫っては履き縫っては履くという陛下御自身の御暮らしをきびしく切り詰めた上でなされたものであることを知り、病者たちの感激は一入であった。(『全生今昔』「縫われた足袋」)
 平成八年、らい予防法の廃止を機に、近代皇室によるハンセン病者救援事業の草分けとなった陛下の御事跡を永く世に遺すため、国立療養所多磨全生園内に「貞明皇后像建立委員会」を結成、財団法人・藤楓協会の御協力を得て製作の運びとなった。
 完成されたお像は、広く一般の方々に御覧頂くため地福寺境内に一宇「慰音堂」を建立し、これにお納めることとした。
幾そ度御下賜給ひし皇后陛下(さきのみや)の
          ほつれ縢(かが)れるしろき足袋かも
 お像は、全生園駐在布教師・三輪照峰師詠の右の歌をテーマに、縫いを重ねた足袋を時の林芳信園長にお譲り渡しになっているお姿を表現した。又、彫刻は同園療養者で元船大工・永見謙吉氏の勤刻である。
     平成十二年三月吉日 国立療養所多磨全生園 貞明皇后像建立委員会

  街道に戻り、次の信号(左に「十条中央商店街」のアーケードがある)で本日の行程を終了。ここを左折して「東十条駅南口」から帰宅。



1回目の旅終了(15:30)。「東十条駅(南口)入口交差点」。

本日の記録】
 江戸時代の街道のみの距離は、6.3Km(本郷追分~東十条駅入口交差点)
 本郷追分から、一里二十ニ町(6.3Km) (日本橋からは一里を加える)。
 寄り道を含めた実歩行距離は、10.1Km(東大前駅~東十条駅)  累計:10.1Km
 
時間 16,000歩。

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