大山街道(8) 愛甲石田駅 ~ 子易バス停

2015年12月5日(土) 快晴

  「愛甲石田駅南口」を10:10スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは大山に向っての左右です)

海老名駅 ~ 愛甲石田駅 → 「目次」 → 「子易バス停 ~大山阿夫利神社下社 」


【浄心寺 (右側) 10:19
 「愛甲石田駅」南口から直ぐの踏切を右へ渡って、国道246号線に出る。
 歩道橋のある「道了尊入口信号」の右手に浄心寺がある。山門が茅葺屋根。
  


【長龍寺】 (左奥) 10:29
 坂を下って「石田信号」から斜め左の道に入る。
 小田急小田原線に接した所で、寄り道をする。
 左の踏切の前に「長龍寺」の案内板が立っているので、これに従い踏切を渡って直進する。
 二つ目の十字路に長龍寺の案内板が立っているので、右折すると奥に寺が見える。本堂左手前に親鸞聖人の立像。
  


【小金塚 (左奥) 10:34
 お参りを済ませて「長龍寺」から出てきたら、門前の道を右折(寺に向って左折)して、墓地に沿って右回りに進むと奥に森になっている円形の古墳が見える(下の写真・左)
 ここが小金塚で墳頂には小金塚神社が建っている
(下の写真・中)。東側から登ったが、南側が正面で中腹に鳥居が建っている(下の写真・右)
 南関東最大の円墳で、4世紀末の築造と推定されている。直径約48m、高さ約6mで内部構造は未調査のため不明との事。
      


【道標 (右側) 10:49
 「小金塚神社」の正面から下りて鳥居の外に出たら、すぐ右折して小田急線に沿って進むとガード下に出る。
 しかし狭い畑道だった為、行けないと思って鳥居から真直ぐ下り、右折、右折を繰り返し、大回りしてガードに出た。
 小田急のガードをくぐった所で大山街道に合流し「小金塚バス停」がある。その変形十字路の右角に上部が朽ちた道標が建っている。
 東面に『東 厚木町ニ至ル』と刻まれていたが、”東”の上部は欠けていたが多分”東”だろう。南面は上部が良く分からないが『□ 船場ニ至ル』と思われる、”場”が不明瞭だった。
 下の写真は西側から写したもので、左右の道の左が「愛甲石田」方面、右が「大山」方面。ガードをくぐった先が「小金塚」。
  


【白金地蔵】 (右側) 10:58
 西へ緩い坂を上って進み、左手「成瀬小学校」が現れたら、その先、信号の手前右側に白金地蔵が三軀祀られている。

【白金地蔵】
 万延元年(1860)この地の住人茂田半左エ門が、子宝恵授を祈願して建立祭祀し、子育地蔵・諸病平癒・平穏安楽の菩薩として、地区信者の熱心な護持に依り、厚い信仰を集め、百三十有余年を経た。此の間土地利用に係わる事情で三回の移築をし、信者有志多数の浄財と協力に依り、平成七年(1995)八月二十四日寿経寺に移籍現在地に、永久鎮座されましたが、平成八年(1996)九月二十二日台風十七号に依り、倒壊したので、信者有志多数の協力に依り、ここに再建しました。
     平成八年(1996)十一月吉日

【道祖神 (左側) 11:08
 「白金地蔵」の先の信号を左折し、歌川に架かる「歌川橋」を渡る。その先の「成瀬小学校入口信号」は直進する。現在この上部では「新東名高速道路」の工事中だった。
 信号を越えて直ぐ、上り坂の途中左側に道祖神が建っている。
(下の写真で左は北側から見た「歌川橋」、真中は南側から見た道祖神)
      


【下糟屋宿 
 突当りの信号を右折し、柏尾通りに合流した所から下糟屋宿に入る。江戸から十五里。宿場は明治三十四年の大火で焼失してしまった。
 黒塀の豪邸が僅かに往時の雰囲気を残していた。
  


【普済寺】 (右側) 11:13~11:19
 下糟屋宿に入って程なく右側に普済寺がある。
 街道からの入口左側に『千秋山 普濟禅寺』の石標、右に『伊勢原市指定重要文化財 石造多宝塔』の標柱、やや長い参道途中左側に不動明王とその後ろに六地蔵が祀られている。
 山門を入ると手入れの行き届いた植栽が並んでいる。
    

 本堂手前左側に市重文の大きな石造多宝塔が建っている。塔のバックには大山が綺麗に見えた。

【石造多宝塔】 伊勢原市指定重要文化財
 この多宝塔は、今からおよそ二百年前、幕府の命令により、この地の禅僧が未開の北海道へ派遣され、苦難を重ねて民生の安定につとめ、使命を果たして帰ってきたのち、北辺の地の安泰を祈願して建てたものです。
 
 文化元年((1804)、徳川幕府は北方防衛の鎮めとして、蝦夷地に三官寺(有珠の善光寺・様似の等樹院・厚岸の国泰寺)を創建しました。
 この塔は、国泰寺の五代目住職となった文道玄宋が、七年の任期を終えて、下糟屋の神宮寺へ帰山後、天保九年(1838)に建立したものです。
 当時、江戸から厚岸までの道程は約三ヶ月を要する苦難の旅でした。
 さらに国泰寺の持場は、エリモ岬の東からクナシリ、エトロフに亘る広大な地域で、年一回の廻勤の義務が課せられていました。
 塔の四面には「松前家諸士庶人一統名簿」として寄進者七百余名の名と共に、クナシリ、エトロフ、ネモロ、アツケシ、クスリ、トカチの六ヶ場所等の地名が刻まれています。
 銘文は、鎌倉建長寺の真浄元苗により、北辺の当時の状況が誌され、「民安らかに国泰く鎮護万年」との結びは、国泰寺に課せられていた重い使命を物語っています。
 現在、市内にある石造物では、極めて豪壮屈指のもので、伊豆石を用い、石工は武州登戸(川崎市)の吉沢光信が当りました。
 明治の初め、神仏分離令による神宮寺の廃寺に伴い、その滅失を惜しんだ地元の人々によって、こヽ普済寺に移築されました。
 なお、田中にある耕雲寺住職松堂玄林は、国泰寺執事として、文道玄宋と行を共にし、その克明に記録された「国泰寺日鑑記」は、現在北海道の重要文化財に指定されて国泰寺に、また廻勤地の詳細な地図が耕雲寺に保存されています。
     一九八四年六月    伊勢原ライオンズクラブ
     二〇〇六年一月修復

【太田道灌公霊地(首塚) (左奥・右側) 11:27~11:36
 次の信号を左折して、渋田川に架かる「道灌橋」を渡った直ぐの川沿いの道を右折すると太田道灌の墓がある。
 橋を渡った入口に『太田道灌公墓所(首塚)入口』、その奥の公園風入口には『太田道灌公霊地』と書かれた看板が立っている。

【太田道灌の墓】 伊勢原市指定史跡(昭和44年2月27日指定)
 太田道灌は、室町幕府の重臣である扇谷上杉氏の家宰です。永享4年(1432)に相模で生まれたといわれ、幼名は鶴千代、元服して資長(すけなが)と名乗りました。道灌は剃髪後の名です。
 幼少より父に道真(資清)の薫陶を受け、康正元年(1455)に家督を嗣ぎ、長禄元年(1457)には26歳で江戸城を築きました。「文武両道の鏡」との誉れ高く、文事では和歌に情熱を傾けてその道に深く通じ、軍事では特に戦略的な才覚に優れて、扇谷上杉氏を守り立てました。しかしその有能さが上杉家宗家の山内上杉顕定に疎まれ、道灌は、顕定の讒言を信じた主君の上杉定正によって暗殺されるという悲劇の主人公となりました。文明18年(1486)7月26日、定正の居館である糟屋館(伊勢原市内。詳しい場所は不明)での出来事です。
 道灌の墓は、市内ではこの下糟屋の大慈寺と、道灌の遺体を荼毘に付した伝えられる上粕谷の洞昌院にあります。大慈寺は道灌が鎌倉からこの地に移して再興し、叔父の周巌淑悦禅寺を中興開祖としたとされる寺です。現在の本尊である聖観音像も、道灌の持仏であったと伝えられます。墓はいつからか「首塚」と呼び習わされ、宝篋印塔と五輪塔からなる石造りの供養等が祀られています。
     平成19年3月 伊勢原市教育委員会

【大慈寺 (左奥・左側) 11:37
 「道灌橋」を渡った右側には、太田道灌公菩提寺の大慈寺がある。
 この寺には、伊勢原市指定重要文化財の『木像 聖観音菩薩坐像』・『太田道灌画像』があるが、本堂の扉は堅く閉じられ内部を見ることは出来なかった。

【大慈寺の寺歴】
◇開山は覚智(1366年貞治5年6月13日没)、号は「法雨山」、臨済宗・鎌倉建長寺の末寺で元々は鎌倉にあった寺
◇太田道灌公が当寺を鎌倉から伊勢原に移した
 中興開山は東勝周厳淑悦禅師(道灌の叔父とされる、甥という説もある)
 中興開祖は太田道灌(大慈寺殿心円道灌大居士、1486年文明18年7月26日没、御歳55歳)
◇1790年(完成)2年正月5日 大慈寺焼失(庫裏より出火、その時に種々の文書等が焼失)
 同年10月 大慈寺本堂建立(再建)の願書(太田備後守=掛川藩太田家あて、東陽住職の時)
 1792年(寛政4年)4月8日 仮堂(正式再建に関わるものではない)が完成
◇1817年(文化14年) 落成の正式な時期は不明だが、棟札に関する記載や本堂並びに庫裏の地割り図等の記録が見られる
 1836年(天保7年) 道灌公350年大遠忌が盛大に催される
◇明治の初めの頃・・・【鈴木春吉氏への聞き取り資料(昭和11年調査)からの抜粋】
 ・毎年、江戸の太田家から7月15日に代参(代参人、僕=家来、文持の3人)がこられた
  午前11時頃、江戸から到着、すぐに霊前に参拝、続いて読経
 ・つけ届けは白木の三宝に金子300匹(1匹=10文、後に25文、1両=4,000文)、入浴・食事の後、洞昌院に立たれる・・・それ以外に、毎年寺へ米五表分・・・
 ・以上の太田家からの参拝(つけ届け)は明治9年で終わる・・・廃藩置県とその後の秩禄公債交付などの影響と思われる・・・以後、廃寺同然の状況が明治の中ごろまで続く  

【高部屋神社】 (右側) 11:44~11:51
 街道に戻って、少し進むと右側に高部屋神社がある。

【高部屋神社 由緒】
 当社は『延喜式神明帳』に記載されている相模国十三座の一座で、大住郡百二十七ヶ村の惣社と言われていた。創建年代は不詳なるも、起源前六百六十年とも言われている。
 当神社の本宮(元宮)は、糟屋庄の奥津城(霊城)である。澁田山(澁田川の源流)に鎮座している。澁田山は、古来より高部屋神社所有の飛地境内でもある。
 糟屋住吉の大神として、又の名を『大住大明神』と呼ばれ、武門・武士を始め万民の崇敬せられたる古社である。江戸中期頃までは、別名『糟屋八幡宮』と呼ばれ、名社の名を謳われた。古社たる由縁には『汐汲みの神事』があり、更に「雅楽面三面の古面」と「源朝臣・頼重施入の経巻」・「上杉定正が寄進の大般若経の経典」の伝来あり、境内の釣鐘堂には、至徳三年(1386年作・県重要文化財に指定)平秀憲が寄進の銅鐘が、今でも時を刻んでいる。
 当神社のこの地は、千鳥ヶ城と呼ばれる要害が後北条氏の滅亡まで、社地の続きに存在が認められた。鎌倉時代に源頼朝の家人で、藤原鎌足・冬嗣の血を引く糟屋庄の地頭『糟屋藤太左兵衛尉有季』の館跡と言われていて、高部屋神社を守護神として社殿を造営した。
 室町時代に入ると、将軍・足利氏の家人団・上杉一族の関与があったと思われる。糟屋氏・上杉氏と関わった武士達の興亡をのせてきた高部屋神社も、後北条氏を迎え、相模国風土記稿に載る、天正九年(1581年)五月十日、八幡宮境内(高部屋神社)の三ヶ条、松山城主『上田能登守長則』の禁制(法度)が知られている。
 天文二十年(1551年)に、地頭『渡辺石見守』が社殿を再興し、天正十九年(1591年)に、徳川家康から式内社の名社あることで、社領十石を寄進され、朱印状を頂いた。
 社殿は、正保四年(1647年)に本殿を再建されたが関東大震災で倒壊し、昭和四年に柱・彫刻・正面扉等をそのまま生かし再建、拝殿は慶応元年(1865年)に再建され現在に至っている。
 尚、拝殿正面の頭上に、山岡鉄舟の筆による『高部屋神社』の社号額が掲げられている。


 境内右手には県指定重文の梵鐘がある。

【高部屋神社梵鐘】 神奈川県指定重要文化財(昭和44年12月2日指定)
 高部屋神社は、別名を八幡神社と称し、平安時代に書かれた『延喜式』にもその名が残る延喜式内社です。この神社に伝わっている銅鐘は書かれている銘から至徳三年(1386)十二月に河内守国宗によって造られ、平秀憲によって奉納されたことがわかります。
 竜頭は鼻の上に鋭い目と眉、紐(ちゅう)をくわえた口と全体に引き締まっています。笠形については上面のほとんどが平らに近いふくらみをもち下端に一隆線をめぐらせています。上帯は各縦帯の上に一個ずつ陽鋳(浮き出た)の遊離飛雲文が見られます。乳は四段四列の太い茸形でしっかりとしています。池の間には、上下に鋳型の繋ぎ目が見られ、銘文(左参照)が陰刻(彫り込まれた)されています。下帯は各縦帯の下に陽鋳の遊離訪唐草文が見られ、撞座には花弁の短い八弁の蓮華文が見られます。
 鐘の全体としては良く整った優れた作品であり、上帯下帯に見られる文様や作者である河内守姓などから鎌倉を中心とする文化圏のものとわかります。

 銅鐘銘文(省略)
     平成十六年三月 伊勢原市教育委員会


 後ろに回ると本殿は拝殿と切り離されて独立して建っていた。
 本殿の横には下糟屋の雨乞い行事と題する説明板が立っている。

【下糟屋の雨乞い行事】
 下糟屋では古くから、日照りが続くと高部屋神社の北東にある水神池で雨乞い行事が行なわれていました。最後の雨乞いは昭和8年に行われ、その時の様子は次のようなものでした。
 この年は干ばつで田植がままならず、7月18日に雨乞いが行なわれました。高部屋神社に伝わる黒面(陵王面)と赤面(癋見(べしみ)面)を付け、蓑を着て笠をかぶり、草鞋を履いた二人の雨乞い役を先頭に、地区内を行列して水神池へと向かいました。池に着くと神官が祈祷をし、雨乞い役二人は竹を立て、しめ縄を張った池の中に向かい合って立ちました。そして、黒面役が「龍王や、龍王や」と呼べば、赤面役が「雨を降らせたもれ」と応じる問答を大声で唱えながら水を掛け合いました。池のまわりを囲む地区の人々も同じく大声で唱和しました。この時は、その後9日後に雨が降ったということです。
     平成21年3月 伊勢原市教育委員会

【丸山城址 (右奥) 11:53~12:03
 「高部屋神社」の裏手を回り込むと陸橋が架かっており、それを渡ると丸山城址公園に出られる。

【丸山城址】 
 丸山城址は、下糟屋の丘陵上にある平城で、伝承や文献が少ない中世の城郭です。
 江戸時代末の天保12年(1841)に成立した『新編相模国風土記稿』には、平安時代末から鎌倉時代初期に活躍した糟屋左衛門尉有季の居跡として、「西北の方にて、八幡境内(現在の高部屋神社)より社領の地に係り、東西百余間、其辺を殿ノ窪と字せり、四面に堀の遺形あり、(中略)按ずるに、此地有季の居跡とのみ云う」と記されています。
 明治時代になって、字名の殿ノ窪が丸山に変更されると、明治20年に書かれた「下糟屋村外六ヶ村地誌」の中に、初めて丸山城という名前が登場します。昭和8年に刊行された『延喜式内社 高部屋神社小誌』では、糟屋有季の居跡としながら「千鳥ヶ城跡」という別名が出てきます。
 また、昭和28年刊行の『神奈川県 中郡勢誌』では、糟屋氏歴代の居城とし、糟屋庄の政所との説が述べられています。糟屋庄とは、平安時代末の久寿元年(1154)に京都市伏見区にある安楽寿院の荘園として認められたもので、現在の伊勢原市から平塚市にかけての広い範囲だったといわれています。
 丸山城址公園用地については、成瀬第二特定土地区画整理事業に先立ち昭和59年、 60年度に伊勢原市教育委員会が詳細分布調査を実施しました。その結果、堀、土塁、竪穴状遺構などの城郭遺構が確認され、室町時代後半のかわらけや陶器等が出土しました。これを受けて、伊勢原市は丸山城址公園として整備することとしました。
 公園用地は、国道246号線より北側に張り出した丘陵部で地形的に二段に区分することができます。上段は標高約31mで、ほぼ平らです。下段は上段を囲むように幅25m~40mの帯状の平坦面になっており、標高は23m~28mです。上段との比高差は最大で約7mあります。
 公園の整備に先立ち城郭遺構の配置等を確認するために、市教育委員会が平成18~20年にかけて確認調査を実施しました。また、公園整備で影響が生じる部分については本発掘調査を実施しました。これらの調査の結果、公園用地の上段には土塁がまわっていることが確認され、建物址や炉址なども見つかりました。また、下段では堀が確認され、西側・東側は幅約16m、深さ5m以上、北側は幅6m、深さ2~3mの規模であることがわかりました。西側・東側の堀は、底面に段差を持っており、仕切り(障子)状の施設も確認されました。北側ではL字形に曲がった道状遺構が確認され、丸山城の入口施設(虎口)と考えられます。
 公園用地周辺の土地区画整備事業に伴う本発掘調査では、上段で幅約11m、高さ4mの土塁が確認され、下段には幅16mを超す大規模な堀があることがわかりました。堀の内部には衝立状に掘り残された仕切り(障子)がありました。この掘りは北側の公園用地で見つかった堀に続くと考えられます。また、高部屋神社の北側には鉤の手状に屈曲した断面形状が逆台形状の堀が確認されています。この地に、竪穴状遺構、建物址、井戸址、地下式杭、ピット、柵列(せいじ)などが確認されています。
 今までの調査で出土した遺物は、青磁、かわらけ、陶器、瓦などで、大きく分けて鎌倉時代から室町時代前半にかけてと室町時代後半から戦国時代にかけてのニ時期があります。鎌倉時代には糟屋有季がこの地を治め、室町時代後期には太田道灌が活躍し、道灌の主君である上杉定正に関連する城(館)の可能性が考えられます。
 公園整備及び公園用地周辺の土地区画整理や民間開発などに伴う本発掘調査から、丸山城址の中心部分は、高部屋神社を中核に、西は東海大学病院のある上ノ台地区 、東は普済寺あたりの、東西約1km 、南北約400mの丘陵上と考えられます。また、普済寺の東北側には竪穴状遺構や建物址、井戸などの遺構が数多く見つかっており、生活域として捉えることができます。 一方、北西部の富岡丘陵や小山地区などでも掘などの城郭遺構が確認されていることから、外周部分にも関連する城郭遺構が広がっていると考えられます。
 丸山城址公園での部分的な調査では、堀や土塁、建物址などの城郭遺構が存在することが確認されました。これらの遺構は、公園の地面の下に保存されています。
     平成22年3月 伊勢原市・伊勢原市教育委員会

<昼食> 12:15~13:00
 「城址公園」からは国道246号に下りて、「下糟屋信号」を右折(「高部屋神社」からそのまま大山街道を進んだ場合は直進)し、突当りを左折する。
 右手に大きな「東海大病院」があり、その入口の信号を左折して、次の「大学前信号」右手にある「ジョナサン」で昼食とした。


【咳止地蔵尊】 (右側) 13:06
 街道に戻って少し進むと、左カーブした所に渋田川に架かる「市米橋」がある。
 その橋の手前に「自然散策路」があり、右へ少し入った所に咳止地蔵尊がある。

【咳止地蔵尊由来】 
 渋田川の架せられた「せきど橋」のたもとにある咳止地蔵は古来から痰咳平癒の守護仏として崇められ「せきどめ地蔵」の名で広く霊験を知られた、現尊像は享保八年(1723)の再建になるもので、再々の補修がなされている、地蔵前の古道は相模川の戸田の渡しから大山に通じる「戸田道」で糟屋宿にも程近く大山詣りの道者たちの信仰を得ていた、現今東京、川崎・立川方面に信者のあるのもそのためで、堂のそばには大山道の道標ものこされている、背後の富士山は八王子道にも通じるので昔は繭の市も立った、道路や交通機関の変動で、戸田道は往古の面影もないが地元人士の賛同を得て保存会を結成、堂宇の修理をなし霊蹟の再興を図るものである。
     昭和五十年三月二日 弥杉咳止地蔵保存会


 「地蔵堂」の右、説明板の下に倒れているのが道標か?(上の写真参照)
 また、堂の向かいには欠けた石塔・石仏が幾つか並んでいた。
  


【上糟屋郷絵図・三軒茶屋 (右側) 13:20
 「市米橋」を渡ると、県道63号線手前の川沿いの砂利道が少しだけ残っているので、ここを右折する。
 砂利道から県道に上って、直ぐ先の「ヤマト運輸」前の細道へ左折する。
 果樹園の間の緩い上り道を進むと、左に「おおやまみち」の掲示板が立っていて、文政八年(1825)の上糟屋郷絵図が掲げられていた。
  

 更に進み、一時停止点滅信号のある十字路手前の民家前に、大山街道の札と三軒茶屋の説明文が貼られていた。

【三軒茶屋】
 ここは厚木方面からの大山道(青山道)と柏尾方面から来る大山道(戸田道) 、田村通り大山道から分かれる日向道、平塚・伊勢原方面から来る津久井道などの交差するところで、多くの人が行き交う賑やかな場所でした。
 その為、ここに三軒の御茶屋があって、旅人はここでお茶を飲んで一服したと云われています。
 三軒茶屋の地名は今でも残っています。
     アド・おおやまみち

【〆引の道標】 (左側) 13:32
 点滅信号の十字路を渡り、次の二股道は左に進む。二股の頂点に大山街道の札と左矢印が掲げられていたのが嬉しい。
  

 やがて東名高速道路にぶつかったら左折し、直ぐ右にあるトンネルをくぐって東名の西側に出る。
 出た所の十字路を渡った左角に、〆引の道標が建っている。
  


【三所石橋造立供養塔 (右側) 13:36
 そのまま真直ぐ、右に流れる千石堰用水路沿いの砂利道を進む。
  

 次の十字路の右角に三所石橋造立供養塔が建っている。十字路を渡った右側には「市光工業大山寮」ある。

【大山道】
 この大山道は、江戸青山から、また東海道戸塚方面からの大山詣りの人が歩いた参詣道で、土地の人は「戸田道・青山道」と呼んでいました。
 道に沿って流れる水路は大山を源流とする鈴川から引水した灌漑用水で「千石堰用水路」と呼ばれて、昔は小魚が泳ぎホタルが飛び交っていたといいます。
 この三所石橋造立供養塔は、ここの場所に作られたと思われる三ケ所の橋を供養するために、洞昌院住職と村人達によって享和二年(1820)に建てられました。
     平成二十七年三月吉日 材料提供 伊勢原市森林組合
                     製   作 アド・おおやまみち

【洞昌院(とうしょういん) (右奥) 13:42~13:48
 「石橋供養塔」で大山街道から離れて寄り道をする。
 上記写真の供養塔のある十字路を右折して、「市光工業」を左回りする様に、次を左折すると正面に洞昌院がある。
 寺の入口手前の左側に道標が建ち、右側面に『西 かなひ いせはら 道 明和五子牛』『南 大ひそ や□□ 道 九月□□』と刻まれていた(□はくずし字で読めなかった)。
  

 洞昌院は、太田左衛門大夫持資入道道灌を開基として、崇旭が開山となって創建したと云われる。
 境内には、春に訪れたいと思う見事な枝垂桜の木がある。
    


【大田道灌の墓】 (右奥) 13:51~13:57
 枝垂桜の後ろを回り、本堂の裏手から出ると、寺の右後ろに大田道灌の墓がある。
 入口には『太田道灌公霊地』と刻まれた石標が建ち、奥に入って行くと右側に無数の石仏が並び、その奥左側に大田道灌と山吹の花と題する説明板が立っている。

【太田道灌と山吹の花】
 文武両道にすぐれ、人々から兵法の師範と称された道灌は、若年の頃は武略のみを心がけ、文の道はかえりみなかったと伝えられる。しかし、父の道眞資清は当時和歌の名手として、又、連歌の達者として知られ、馬上に打物取っては並ぶものなき勇者でもあった。
 狩りに出た道灌が雨にあい、雨具を借りに立ち寄った賎が家の乙女の差し出した山吹の花の意味が分からず、自ら深く愧じて学問に志した説話は余りにも有名である。関東に生まれ、関東に育った武将の中で、京都の文人にも劣らなかった文化人であり、又、江戸の築城にあたっては都市計画の先駆者でもあった道灌の非業の死をいたんで、花が咲いても実とならぬ山吹の花をえらんで、道灌への思慕への情を託したものであろうか。
   みやび男の子の 道灌さまは
     花も実もある あづま武士
土地の人が歌った、道灌追慕の唄である。
   洞昌院二十七代当主 足立久雄

【道灌の山吹伝説】
 ある日、太田道灌が鷹狩りに出掛けた時に俄雨にあってしまい、みすぼらしい家に駆け込んだ。道灌が「急な雨にあってしまったので蓑を貸して貰いたい」と声をかけると、少女が出て来て、ではなく山吹の花を黙って差し出した。花の意味が分からなかった道灌は怒り、雨の中を帰って行った。
 その夜、道灌がこのことを語ると、近臣の一人が「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに『七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき』という歌があるので、その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか」と言った。
 これを聞いた道灌は己の無知を恥じ、この日を境にして学問に精進するようになったと云う。


 上記写真の突当り右側に道灌の墓がある。

【太田道灌】
 太田道灌(1432~1486)は幼名を鶴千代といい、成人してからは資長または持資といった。また仏門に帰依してからは、道灌と号した。道灌が生まれた頃、父資清は相模の粕谷に本拠をおいていたので、道灌は現在の伊勢原市内で生まれたものと思われる。幼い頃から非常に利発で、神童と言われていた。当時の日本は戦国時代で、各地の武将の間に戦いが絶えなかった。
 道灌は二十五歳の時(1457)、武蔵野の原に、海に臨んで城と町を築いた。後に、この城は江戸城といい、徳川幕府三百年の居城となった。明治以後、町は東京と呼ばれ、城は皇居となった。これにより道灌は、いまでも東京の基礎を築いた人としてその名が高い。
 道灌は築城軍略の大家であるばかりでなく、詩歌を好み、風流を愛する文武兼備の人であった。上洛の折、時の天皇の勅問に和歌をもって答えた逸話や、山吹の説話など有名な話も多い。
 晩年、道灌は京都の足利幕府と関東の公方とが、互いに協力して政治を行なわなければ、平和は望めないと考え、力を尽くした。しかし、主君の上杉定政は、己の権力の増大のみを求めていたため、道灌は怒りにふれ、志半ばにして粕谷の上杉館で謀殺された。時に五十四歳であった。
 道灌の墓もあるここ洞昌院は、道灌が関東管領上杉憲実の弟道悦和尚のため建てた寺と、伝えられている。現在、伊勢原市では、毎年十月の第一土・日曜日に観光道灌祭を行って、道灌の偉業を偲んでいる。
     昭和五十七年十一月三日 伊勢原ライオンズクラブ

【七人塚 (右奥) 13:59
 『太田道灌の墓」を出て、突き当りを右折し、直ぐ左折すると、次の十字路の左角に七人塚がある。



【七人塚】
 江戸城の築城で有名な大田道灌が、主君上杉定正に「道灌 謀叛心あり」と疑われ、定正の糟屋館に招かれ、刺客によって暗殺されました。そのとき上杉方の攻撃を一手に引き受けて討ち死にした道灌の家臣七名の墓で「七人塚」と伝えられています。こ塚は、上粕谷神社の境内の杉林の中に七つ並んでいましたが、明治の末に開墾するとき一つ残された伴頭のものといわれ、今でも七人塚と呼ばれています。
     環境省・神奈川県

【上粕屋神社】 (右奥) 14:02~14:11
 「七つ塚」の右奥に上粕屋神社がある。
 境内には巨大なケヤキやクスノキが沢山聳えている。下の写真の木は注連縄が張られている御神木である。

【上粕屋神社由緒】
 本神社の勧請年月日は詳らかでないが大同弘仁の頃近江の国の日吉神を当所に移し勧請したと伝える。又風土記によれば天平年中に僧良弁の勧請なりと言う。
 元禄四年幸末社殿を再建し、山王権現と称した。徳川幕府朱印高壱石五斗であった。
 明治二年六月日枝神社と改称し、当時の例大祭は三月二日で、競馬神事神楽を奉納、六月二十二日と十二月二日には年の市を執行した。
 明治六年葵酉七月、字、和田内鎮座の熊野神社(朱印高壱石)と字、石倉上鎮座の白山社を合祀し、上粕屋神社と改称した。
 更に、昭和三十九年四月、字、峰岸鎮座御嶽神社を、昭和四十一年十月字、秋山鎮座の五霊神社を合祀して現在に至っている。
 例大祭  四月三日
     平成二十七年五月吉日


 下の写真の左は、本堂右手前に建つ鐘楼と伊勢原市指定保存樹木のケヤキで、右は、参道に生えている推定樹齢600余年のケヤキである。
    


【台の道標 (左側) 14:13
 「上粕屋神社」の前の参道を南下して用水路のある十字路を右折して大山街道に戻る。
 その十字路の左手に台の道標と呼ばれる道標、庚申塔、道祖神の三基が建っている。

【大山道と千石堰用水路】
大山道
 この道は東海道戸塚からの大山道と江戸青山から厚木を経ての大山道が下糟屋宿で合流した大山参詣道で、夏山例祭中は大変賑わいました。
 地元の人はこの道を「戸田道」「厚木道」「青山道」と呼んでいました。
千石堰用水路
 この用水路は子易明神社の左斜めの大山川から取水して下糟屋の渋田川へ流れる灌漑用水であります。つくられた年代は定かでありませんが、小田原後北条時代または江戸初期かと思われます。
道標
 正面  「上り 大山道」
 右側面「下り 戸田道 厚木道」
 左側面「寛政十一年 未年六月 当村念仏講中」
 裏面  「右ハ 田村道 左ハ むら道」と彫られています。
庚申塔
 正面に、青面金剛像と三猿が彫られています。この庚申塔は道標にもなっています。
 右側面「享保六年 辛丑天 奉造立庚申供養」
 左側面「□□大山道」と彫られています。
道祖神
 悪疫の進入を防ぐために村境に建てられていますが、夫婦和合、出産など繁栄を願う男女の双体道祖神もあります。
     平成二十七年三月吉日 材料提供 伊勢原市森林組合
                     製   作 アド・おおやまみち

【道標兼庚申塔 (左側) 14:18
 次の十字路左の畑の中に道標兼庚申塔が建っている。

【庚申塔(道標)】
 この庚申塔は、伊勢原市三ノ宮竹ノ内五百九十一番地の 田中家にありましたが、道路造成用地となったため、田中家所有のこの土地に移設されたものです。
 右の庚申塔は道標にもなっていて、
正面  「庚申塔」  向って、
左側面 「此方 かない道」
右側面 「□□道 寛政九丁巳九月吉日 講中」
 と彫られています。
 左の立派な庚申塔は
正面に 「 正徳四申牛 天講中 奉造立
         庚申供養塔 十月 大吉日九人」
 と彫られています。
     平成二十七年三月吉日 材料提供 伊勢原市森林組合
                     製   作 アド・おおやまみち

【石塔・石仏群】【腰懸不動】 (右側) 14:26
 突当りを左折して、「石倉橋バス停」で県道611号線にぶつかったら右折して県道を進む。ここから長い緩やかな登り坂となる。目の前には大山が迫ってくる。
 次の右折道を少し入った所に、庚申塔や地蔵などの石塔・石仏群があり、その右手には新しい腰懸不動がある。
    


【道祖神 (右側) 14:40
 県道を暫く上って行くと、右側に道祖神五輪塔が建っていた。
  


【比比多神社】 (右側) 14:42~14:48
 「石倉信号」を越えて、暫く進むと右側に比比多神社がある。
 鳥居前に『子宝安産の守護神として日本で稀な神社です 子易明神 比比多神社」の看板が立っていた。

【比比多神社(子易明神由緒】
御神徳
 「天平の頃、当国守護の任にありし染谷太郎時忠(藤原鎌足の玄孫で関東総追捕使)が当国安土・子宝を願い勧請す。後、その内室懐胎に及び信仰益々篤く、ひたすら安産の祈祷奉るに忽ち霊験現る。依って、社頭以下設備怠りなく造営す。」と云う。後に、醍醐天皇の勅願書となり神階、御告文その他旧記等宝殿に蔵せられしが、天正十八年小田原落城のおり、惜しくも亡失す。爾来、神号を『易産大明神』又は『子易大明神』と称え、朝野の別なく尊神極めて篤く、安産守護神として崇敬される。
御社殿
 創立年月日不詳 ただ天平年中とのみ
 以後寛文二年修築 神官・鵜川権太夫直積代
    享保二年再建(現在の社殿 工匠は荻野の宮大工)
             神官従五位下行・鵜川大隈守藤原朝臣直賢代


 向拝の柱二本の中間が細くなっていた。これは柱を削って持ち帰ると安産が叶うとの言い伝えがあったからである。

【細くなった向拝の柱(由緒)】
 参詣者が子宝安産を願い少しずつ削り持ち帰ったため細ったもので向って左が男子右が女子出産祈願と言う。
 今の柱は三代目と言われている。現在は社殿保護のため削ることを禁止。肌守りに神供米をつけて配布している。

 テレビ放映 テレビ東京・いい旅夢気分 TBS・そこが知りたい
         NHK・小さな旅、すくすく赤ちゃん
         テレビ東京・おしかけスピリチュアル


 向拝の内部は格天井千社札が沢山貼られていた。また、奉納された絵馬も多かった。
  


【旧道這子坂 (右側) 15:05
 その先、左新道・直進旧道の標識を越えて、「這子坂バス停」で左に入る旧道がある。
 「子易児童館」を右に見て、右折すると途中の坂に新しい旧道這子坂の石柱が立っていた。
 その直ぐ先で短い旧道は終わり県道に合流する。
  



 8回目の旅終了(15:15)。「子易バス停」。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、8.1Km(愛甲石田駅~子易バス停)
          赤坂御門から新道ルート経由で、十五里十八町(60.9Km)
            寄り道を含めた実歩行距離は、12.0Km(愛甲石田駅~子易バス停)  累計:96.2Km
            5時間5分 18,900歩。

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