蒲原宿
・由比宿(前半) (富士駅→由比駅)
<旧東海道16回目>
2002年12月14日(土)快晴
自宅よりJR富士駅まで自家用車で行き、駅前スーパーの駐車場に置いて9:45スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)
「原宿・吉原宿」 ← 「目次」 → 「由比宿
(
後半)
・興津宿」
【札の辻跡】 (左側) 10:10
富士駅から富士本町交差点まで行き、ここから旧東海道を再開することにしました。この先富士川橋を渡るまで県道396号線を進みます。
本町交差点から250mで「札之辻橋」となり、ここの角に碑が建っています。
【札の辻跡】
ここで旧東海道が富士早川からの用水路にかかる橋を、今でも札の辻橋という。このあたりにかつて平垣村の高札場があった。高札は幕府の法令などを記した板札で、人目の付く所に掲げられた。
【札の辻いわれ】 (石碑の下に彫られていた)
実相寺は約八百余年の昔、久安元年鳥羽法皇勅願の寺で西に比叡山、東に実相寺とまでうたわれた関東の名刹である。四十九院五百の僧坊が甍を並べて常に数百の学僧が寮生活をして教学に精進した霊場である。昔の岩本山実相寺は方一里と称せられ南は今の平垣札之辻まで及んでいたという。
文学博士 金田一京助先生監修
昭和五十年八月吉日 平垣有志一同
【道標と常夜灯】 10:30
JR身延線
道標には「左東海道」とありますが、実際の旧東海道はこの常夜燈の右の道を進みます。けれども、すぐ左へカーブして元の太い県道に戻ります。
秋葉山常夜灯は慶応元年(1865)に建てられ、総高143cmある。その傍らには「左東海道」と刻まれた道標が置かれている。
【松岡水神社】【富士川渡船場跡】 (右側) 10:45〜10:50
県道に戻ると500mで富士川に着きますが、そのまま右側を歩くと橋の手前に水神社の鳥居が見えてきます。
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【東海道「歴史の道」 水神ノ森と富士川渡船場】 江戸時代、東海道を東西し富士川を渡るには渡船を利用しました。これは富士川が天下に聞こえた急流であり、水量も多いこと、幕府を開いた徳川家康の交通政策によるものでした。街道の宿駅整備にあわせて渡船の制度を定め、渡船は岩渕村と岩本村の間で行われました。 東岸の渡船場は松岡地内の一番出しから川下二十町の間で、上船居(かみふない)、中船居、下船居の三箇所あり、川瀬の状況で使い分け、そこから上、中、下の往還が通じていました。今でも当時のなごりとして、下船居のあった水神ノ森辺りを「船場」と呼んでいます。用いた船には定渡船(じょうどせん)、高瀬舟、助役舟があり通常の定渡船は人を三十人、牛馬四疋を乗せ、船頭が五人つきました。 渡船の業務は岩渕村で担当していましたが、寛永十年(1633)以後、船役の三分の一を岩本村が分担しました。これは交通量の増加に伴って業務が拡大したためで、岩本村が渡船に重要な役割をにないました。 水神ノ森には安全を祈願し水神社を祀り、著名な「東海道名所図会」にも記され、溶岩の露頭は地盤堅固であり、古郡氏父子の巨大な雁堤は、ここから岩本山々裾にかけて構築されています。このほか、境内には富士登山道標や帰郷堤の石碑が建っています。 昭和六十年一月十日 富士市教育委員会 |
【水神社と渡船場】
富士川を渡る東海道の渡船場は水神社付近にあり、周辺は船場と呼ばれてきた。境内にある文政元年(1818)の常夜燈は、岩本村船方講中によって建立されている。水神は富士登山道の起点でもあり「富士山道」の道標が境内に移されてのこる。
【富士川】
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富士川橋の上から、右手に富士山が何の障害物もなく綺麗に見えました。今までで一番美しく見えた場所です。 橋を渡ったら、旧東海道は右へ行きます。 右折して10m程の所に「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
蒲原宿(宿境まで一里五町) ← 富士川町 間宿岩渕(渡船場跡) → 吉原宿(宿境まで一里十二町) 蒲原宿境まで五町と書かれていたが、前後の標柱から一里五町の間違えだと思います。
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【角倉了以紀功碑】【渡船「上り場」常夜燈】【船形の植樹桝】 (右側) 11:05
富士川橋を渡った右土手の100m先に碑と常夜燈が並んで建っています。往時はこの辺りで船の乗り降りをしたのであろう。また、その先に定渡船の形を模した植え込みがありました。
【角倉了以翁の紀功碑】
京都の豪商、角倉了以(1554〜1614)・素庵(1571〜1632)の父子は、慶長十二年(1607)同十九年(1614)両度にわたり、幕府から富士川の開さくを命じられました。その水路は、岩淵河岸(現在地付近)から鰍沢河岸(山梨県鰍沢町)の間約十八里(71キロメートル)で、大変な難工事の末、完成しました。これにより、富士川水運は明治四十四年中央線が開通するまでの約300年間、甲信地方と東海道を結ぶ交通の大動脈としての役割を果たし、岩淵河岸は「下り米、上り塩」の中継地として繁栄しました。
町では、了以の偉業を顕彰し、後代まで伝えようと、昭和十二年、田中光顕伯爵の助言を受けて、富士川橋の脇にこの紀功碑を建立しました。その後、一時町立第一中学校校庭に移転し、平成二年四月に現在地に再移転したものです。
平成二年四月二十七日
【渡船「上り場」常夜燈】
慶長七年(1602)六月、東海道往還の富士川渡船が開始され、同十九年には甲州三河岸(鰍沢・黒沢・青柳)との通船が行われました。
東海道を上下する旅行者や通船関係者は、この「上り場」を通って船に乗り、また街道に出ました。
「上り場」常夜燈は、富士川渡船と甲州通船の交通安全を祈って、文政十三年(1830)正月、甲州三河岸、岩淵河岸商人・富士川渡船関係者らが再建したものです。
平成二年二月一日 富士川町教育委員会
【船型の植樹桝】
この「船型」の植樹桝群は、平成元年度県道富士川・身延線の修景工事として完成したものです。
江戸時代、ここに富士川渡船や甲州との水運の基地としての岩渕河岸がありました。渡船には、定渡船(長さ10.3メートル、幅1.57メートル)六艘、高瀬船(長さ13.2メートル、幅1.8メートル)十八艘があり、一方甲州三河岸との通船には高瀬船(笹船または小廻船とも呼ばれた)三百艘(明治時代には八百艘)があり、これら多数の船が出入していました。
この「船型」は、定渡船の規模を再現し、それにシラカシの木を帆に身立て、舳先を上流に向けて富士川を溯った高瀬船をもイメージしています。
平成二年四月二十七日 富士川町教育委員会
【間宿・岩渕】 11:15
旧東海道は、富士川橋を渡り、右折した50m先左側の細い坂を登ります。登り口の道路側に「役場・本陣」方面の案内板がありました。
登る途中に「歴史国道 東海道」の絵図が掲げられており、「東海道分間絵図」と共に岩渕を抜ける旧街道の地図が画かれています。
この先、静岡県内随所に常夜燈(秋葉灯篭)が見つかり、特に間宿・岩渕には沢山立っています。常夜燈があると旧街道に間違いないと安心できます。
登り道は左右に曲がりますが、3回目の突き当りを南へ曲がるとすぐ右側に黒塀が現れます。門にはブルーシートが掛けられて修理中だったが、ここが本陣跡と思われます。
【間宿・小休本陣・脇本陣】
岩渕村は吉原、蒲原両宿の中間で富士川渡船を行っていたので「間宿」として繁栄しました。しかし幕府は本宿にしか旅人の宿泊を許可しなかったので、岩渕村には渡船の準備のため一時休憩する施設として小休本陣・脇本陣の二軒がありました。
絵図の記載より
【 岩渕の一里塚】 県指定文化財 (両側) 11:25
(東塚) |
しばらく南下すると、道は富士川町役場の方へ右カーブします(西塚の写真参照)。
そのカーブする寸前の両側に一里塚が綺麗に整備されて残っています。 慶長九年(1604)二月、幕府は東海道の一里毎に、五間(約九m)四方の塚を築いて榎を植え「一里塚」と呼び大名等の参勤交代や旅人の道程の便を図った。 この一里塚は、起点である江戸日本橋から三十七里目にあたる この地は、岩渕村と中之郷村の村境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が立ち並んでいた。 また、東側の塚の榎は虫害のため昭和四十二年枯死してしまった。そこで、昭和四十五年三月、二代目を植えたものである。 昭和六十一年十二月五日 富士川町教育委員会 蒲原宿(宿境まで三十二町) ← 富士川町 間宿岩渕(一里塚跡) → 吉原宿(宿境まで一里二十一町) |
(西塚) |
一里塚の所で右へカーブして役場前に出ます。更に役場の先を少し行き、右側に赤字で書いてある防災倉庫が見えたら手前の十字路を右に入ります。
やがて東名高速をくぐりますが、その手前にも標柱が立っていました。
蒲原宿(宿境まで二十三町) ← 富士川町
中之郷 → 吉原宿(宿境まで一里三十町)
東名高速をくぐったら左折して道なりにしばらく行きます。ここでも所々に常夜灯があります。
<おやつ> 栗の粉餅★★★
東名高速から離れて左にカーブした先、左側に「ツル家」というお菓子屋があります。ここの名物『栗の粉餅』はお薦めです。栗が入っているあんこを包んだ餅で1個120円。TVでも放映されたとのことです。
今度は東海道新幹線をくぐりますが、車道は左に分かれ、歩道は真直ぐ細い地下道で反対側に出ます。くぐった先で別れた車道と合流し、やがて、きつい 上り坂を登りきると東名高速に再び接します。すこし下って左へと陸橋を渡ります。陸橋の上から富士山が綺麗に見えます。陸橋を渡って坂を下り終えたら、付き当りを右折して蒲原宿に入って行きます。
【蒲原一里塚跡】 (左側) 12:33
蒲原の町に入ったらすぐあります。建物が凹んだ所に小さな赤い鳥居と祠があり、手前に一里塚の石碑が建っていました。
【東海道一里塚跡】
一里塚は慶長九年(1604)徳川幕府が江戸日本橋を起点として、一里(約四km)ごとに築いた塚です。蒲原宿の一里塚は江戸日本橋から数えて、三十八番目のものです。
一里塚は、道路をはさんで両側に約二mほど高く土を盛り、榎か松を植えて、旅人に見やすいように築きました。最初の一里塚は、元禄十二年(1699)の大津波で流出して、宿の移転にともなってここに移されたものですが、当時の面影はありません。
蒲原町教育委員会
【北条新三郎の碑(墓)】 (右上) 12:37
一里塚の先、右側の細い山道をしばらく登ると小さな墓があります。
永禄十二年(1569)十二月六日、蒲原城は武田軍の攻撃に遭い、落城しました。
城主北條新三郎は、城から抜け出し常楽寺まで逃れましたが、寺に火を付け自害したと伝えられています。その後供養のために、ここに碑をつくりました。碑には「常楽寺殿衝天良月大居士」の戒名が記されています。常楽寺につきましては、現在裏付ける資料は残っていませんが、「奥の院ここより五丁」という道標や常楽寺の奥の院と考えられる観音穴があることから、この近くに常楽寺があったことが推察されます。
蒲原町教育委員会
【蒲原東木戸跡】 (右側) 12:42
諏訪神社前に東木戸跡の石柱と常夜燈が建っています。また、常夜燈の後ろには「蒲原宿」案内図が掲げられており、宿内の地図と史跡の簡単な解説が載っていました。
「夢舞台・東海道」の標柱も立っていました。
由比宿(宿境まで三十九町) ← 蒲原町 蒲原宿(東木戸) → 富士川町(宿境まで七町)
【東木戸跡・常夜燈】
江戸時代の宿場の入り口には、見附や木戸と呼ばれるものがありました。蒲原宿の入り口には木戸が設置されており、東の入り口のことを「東木戸」と呼んでいました。なお木戸と木戸との間のことを「木戸内」といいます。東木戸は、わずかではありますが桝型になっています。
また東木戸には「常夜燈」が残されています。常夜燈とは、今でいう街灯にあたるもので、各所に設置し、暗い夜道を明るく照らし続けていました。東木戸にある常夜燈には「宿内安全」という文字が刻まれており、宿の入り口を照らしていました。文政十三年(1831)ものと考えられています。
蒲原町教育委員会
【蒲原宿】 江戸から3 7里半(147.3Km)、京へ88里2丁 人口約 2480人
安藤広重の東海道五拾三次之内・蒲原『夜之雪』 |
広重の「東海道五十三次」の中で最高傑作と言われているが、気温温暖な蒲原には、絵のような大雪が降ったと考えられないので、想像による雪景色と思われる。
また、この記念碑がある場所には絵のような地形がないので、途中の山越えをイメージして書いたものと思われる。 その時のスケッチや印象をもとにして、広重が五十五図の錦絵に製作したものが保永堂版「東海道五十三次」のシリーズである。この五十五図のうち、特に「蒲原夜之雪」は「庄野の白雨」「亀山の雪晴」とともに“役物”と称され、中でも最高傑作といわれている。 錦絵に使用する越前奉書紙の特色を巧みに生かした夜の雪、二人の駕籠屋と一人の按摩を記した里の情景など、情緒豊かに構成された名作との評価が高い。 後述、「蒲原夜之雪」 記念碑で、広重の絵の下に書かれていた文章 |
蒲原宿は、江戸から37里(148Km)品川宿からかぞえて15番目の宿場です。
徳川家康が1601年に東海道を開き、蒲原宿も東海道五十三次の宿場のひとつになりました。当時の宿場は現在のJR東海道線の南側にありましたが、元禄12年(1699)8月15日に宿場を襲った大津波(大型台風)により、大きな被害を受け、元禄13年(1700)に山側(現在地)に移転しました。
天保10年(1839)の宿場の規模は、宿内人口2439人、戸数488戸、本陣1、脇本陣3と、旅籠45軒で、富士川の川留めの際などには、大へんなにぎわいを見せました。
「蒲原宿」案内図より
この先木戸内には、昔の面影が残った建物が多数保存され、案内板も充実しています。
【木屋の土蔵/渡邉家土蔵(三階文庫)】 町指定有形文化財(平成13年8月指定) (左側) 12:50
渡邊家は、江戸時代末期に問屋職(といやしょく)を代々努めた旧家です。また、木材を商っていた事から「木屋」という屋号で呼ばれていました。
「渡邉家土蔵(三階文庫)」は、四隅の柱が上にいくにつれて少しずつ狭まる「四方具(しほうよろび)」(四方転び)という耐震性に優れた技法で建築されています。三階建ての土蔵はあまり例がなく、棟札から天保9年(1838)2月21日に上棟したことがわかり、町内最古の土蔵であると考えられます。
この土蔵の中には、江戸時代の貴重な資料が多く保管されています。
蒲原町教育委員会
【馬頭観音」供養石塔の由来】 文:東漸寺住職小西亮衛 (右側) 12:57
かって馬が、貨客の運搬、農作業など、生活の重要な役割を担っていた時代、「馬頭観音」は馬の守り神として、人々の信仰を集めていました。また、路傍に立てられたその石像や供養塔は往還(街道)の道しるべとしても親しまれていました。
江戸時代、このあたりから蒲原宿東木戸にかけての間は伝馬や宿役に使われた馬を飼う家が並んでいました。この付近にも昭和の初め頃まで馬小屋があり、馬頭観音が祀られていたとつたえられていましたが、昨年11月、通りの北側の駐車場整備の際、半分土に埋もれた、この馬頭観音供養石塔が発見されました。
そこで、往時の人々の馬に寄せるあたたかい心を偲びこの場所に新たに安置して、お祀りすることにいたしました。
平成11年3月 竃]月米穀
【なまこ壁と「塗り家造り」の家(佐藤家)】 (右側) 12:58
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八坂神社入口の角にあり、写真にも写っていますが、隣に鳥居が建っています。 「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果が大きく、昔から贅沢普請といわれています。もともとは城郭などに用いられた技術であり、一般には江戸時代末期以降に広まったと考えられております。 なまこ壁の白と黒のコントラストが装飾的で、黒塗りの壁と街道筋には珍しい寄棟の屋根とが調和して、重厚感にあふれています。 蒲原町教育委員会
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【商家の面影を残す「塗り家造り」(吉田家)】 (左側) 13:00
上記、佐藤家の斜め向かいにあります。
当家は、昭和まで続いた「僊菓堂」という屋号で和菓子を作る商家だった。
玄関は、なまこ壁の「塗り家造り」で、中に入ると柱がなく広々とした「店の間」づくりになっていて、商家らしい雰囲気が残っています。土間には、当時の看板に掲げられており、「中の間」には、らせん状の階段があって、二階に通じています。
蒲原町教育委員会
【問屋場跡】 (右側) 13:02
川の傍にあります。
問屋場は、幕府の荷物の取り継ぎ、大名の参勤交代の馬や人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の運搬の手配をしたところで、宿のほぼ中央にあたるこの場所に設置されていました。
ここに問屋職、年寄、帳付、迎番、馬指、人足方、下働、継飛脚、御触状、持夫の人々が、毎月十五日交代で詰めて宿の経営にあたっていました。
蒲原町教育委員会
【「蒲原夜之雪」記念碑】 (左奥) 13:03
川を渡ってすぐ、左へ入る小道にある板塀に囲まれた小公園で、大きな石碑(記念碑)と、上記【蒲原宿】で載せた広重の浮世絵のプレートがありました。
「蒲原夜之雪」 の絵は、歌川(安藤)広重が、天保三年(1832)四月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京へ上った折、この地で描いたもので、東海道五十三次シリーズの中でも最高傑作といわれています。
昭和三十五年「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になりました。これを記念して広重がこの絵を描いたと思われる場所にほど近いこの地に記念碑が建てられました。
蒲原町教育委員会
<昼食> 13:10〜13:50 生桜えび★★★★
お昼もだいぶ過ぎたので、記念碑からそのまま海側の県道396号線に出て、食事処を探しながら先に進んだところ、「ホテイフーズ蒲原工場」の前に「うなぎ割烹よし川」を見つけました。『桜えびのかき揚げ定食』と『生桜えび』を注文しましたが絶品です。2〜3日捕れなかった桜えびが本日は水揚げされとのことで、新鮮な生桜えびが食べられたのはラッキーでした。
今年の夏休みに小学生が40日間かけて旧東海道を歩き通したTV番組(NTVの「ズームイン朝」)を見た方が多いと思います。この時、蒲原宿で昼食をとったのがこの店とのことです。当日は猛暑のうえ光化学スモッグが発生した為、店の2階で2時間休憩したとのことです。
【本陣跡】 (左側) 13:58
県道と宿場道を結ぶ大きな通りから元の宿場道に戻って、「本陣跡」より午後の行動を開始しました。
黒塀に囲まれたお屋敷です。
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本陣は、 大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使、大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠です。主に大名の参勤交代の往復に使用されました。原則として門、玄関、上段の間がある点が一般の旅籠と異なりました。ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かつてはここより百m程東に東本陣(多芸本陣)もありました。 本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀をゆるされていました。
蒲原町教育委員会 蒲原宿の本陣は江戸時代の中頃までは、東本陣(多芸家)と西本陣(平岡 家)の2家でつとめてい ましたが、宝暦年間(1751〜1763)に東本陣の多芸家が絶え、以来幕末まで平岡家が本陣をつとめ ました。平岡家は明治11年に京都に移転しました。 現在の西本陣の建物は大正時代のものですが、邸内には今も、大名の駕籠を置いたといわれる「御駕籠石」が残っています。 「蒲原宿」案内図より |
【旅籠「和泉屋」(鈴木家)】 (右側) 14:00
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平岡本陣の斜め向かいにあり、家の半分は「お休み処」となっています。 今に残る二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影をみることができます。 弘化二年(1845)の「蒲原宿商売調帳」に、「和泉屋間口間数六 .一」とあり、現在は鈴木家四.一間、お休み処ニ間の二軒に仕切られています。 蒲原町教育委員会
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【手づくりガラスと総欅の家(磯部家】 (左側) 14:05
二階の窓に映った影を注意して見ると、手作り板ガラスのため歪んでいるのが分かります。
明治四十二年(1909)に建築された 当家は、素材の美しさから近世以降、寺院建築に多く用いられた欅(けやき)を材とし、柱や梁から一枚板の戸袋に至るすべてが欅づくりで、永年磨き込まれた木目がみごとで す。
二階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手作りのガラスです。
日本における板ガラスの生産開始が明治四十年ですから、国産、輸入品の見分けは困難ですが、当時の最先端の建築用材といえます。
蒲原町教育委員会
【高札場跡】 (右側)
棚区会館前が高札場跡です。
高札とは徳川幕府の禁令、定などを記した立札のことで、辻札ともいわれました。宿場や村には必ず高札場が設けられ、民衆に法令や定を周知させていました。正徳元年(1711)に出された五高札が有名で @伝馬に関する定 A忠孝を奨励する定 B毒薬や贋金銀売買禁止の定 C切支丹宗門禁制の定 D火付(放火)重罪の定 が墨書されて掲げられていました。また貨客運搬の駅馬や人足の賃金も改定のたびに掲げられました。
蒲原町教育委員会
【御殿道跡】 14:09
棚区会館前から南に下る道が「御殿道」と呼ばれている。
かつて、このあたりに「蒲原御殿」がありました。はじめは武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するために徳川家康が建てた小規模なものでしたが、二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来するたびに拡張、整備され規模も大きくな りました。御殿の正確な位置は分かりませんが、このあたり一帯の相当広い地域を占めていたと思われます。背後の山が「御殿山」で、ここから下る道を「御殿道」と呼んでい ます。ちなみに、寛永十一年(1634)の家光上洛以降、「蒲原御殿」は使用されなくな りました。
蒲原町教育委員会
【大正時代の洋館「旧五十嵐歯科医院」】 国登録有形文化財 (右側) 14:10〜14:20
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棚区会館のすぐ先で自由に見学ができ、二階が診療室になっています。遠方からも治療に来たらしく、裏庭にある二つの蔵の後ろの赤い屋根の建物は熱海から来た人が寝泊りした所とのことです。 大正3年、五十嵐準氏が自宅を3回にわたり洋風に改造し、歯科医院を開業しました。水道がなかった時代、井戸水を二階の診療室まで通したポンプや配管も残ってい ます。名医として知られ、当町在住の元宮内大臣田中光顕伯爵も患者の一人でした。 平成12年10月11日に国登録有形文化財に登録されました。 蒲原町教育委員会 |
【蔀戸(しとみど)のある家「志田家住宅主屋」】 国登録有形文化財 (左側) 14:22〜14:30
旧五十嵐歯科の斜め向かいにあります。
志田家は「ヤマロク」という屋号で、味噌や醤油の醸造を営む商家でした。
安政元年(1854)の大地震の直後に再建されたという東側二階建て部分は「通り土間1列型」と呼ばれる町家形式の典型で す。
蔀戸とは、日光や風雨などをさえぎる戸のことです。上下二枚に分かれていて上半分を長押から吊り、下半分は懸金で柱に打った寄せにとめ、全部開放するときは下のものは取り外せ ます。昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下ろして戸締りの役を果たしました。
平成13年9月14日に国登録有形文化財に登録されました。
蒲原町教育委員会
住宅の内部を見学していたところ、丁度お茶の会を催していた人達に招かれ、美味しいお茶を頂きました。
【美しい格子戸の家「増田家」】 (右側) 14:32
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志田家のすぐ先にあります。 かつては街道沿いに格子戸の家並みが続き、毎日主婦によって磨き込まれた美しい木目が、この町独特の情緒ある風景でした。 蒲原町教育委員会 |
【西木戸・茄子屋の辻】 (左側) 14:35
蒲原宿の西のはずれは、突き当りを左折して160m程行った県道396号線の角になります。
狭い三角地に松の木、西木戸の石柱、案内板、水呑場、「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
由比宿(宿境まで二十九町) ← 蒲原町 蒲原宿(西木戸) → 富士川宿(宿境まで十七町)
【西木戸・茄子屋の辻】
蒲原宿の西の入り口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていました。
もともと宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていましたが、元禄十二年(1699)の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったとされる現在の地に移動し ました。
この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘が起こ りました。
承応二年(1653)、高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論となり、茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、七十人近くを倒し ました。しかし、最後に追っ手に見つかり殺されてしまいました。当時の竜雲寺住職が墓地に葬り、供養しました。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として、保存されています。
蒲原町教育委員会
蒲原駅前(15:00に通過)を過ぎ、東名高速をくぐった先のY字路を左に行くのが旧東海道です。
旧道に入ると、三十九里目の「由比一里塚」、「東枡形跡」、「七里飛脚の役所跡」 ・・・と続いて出てきます。
【一里塚跡】
(前略:一里塚の説明)
由比の新町の一里塚は江戸から三十九番目で松が植えられていたが、寛文年間(1661〜71)、山側の松が枯れたので、良用軒清心という僧がここに十王堂を建立し、延命寺境外堂とした。十王堂は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、祀られていた閻魔像は延命寺本堂に移されている。
【由比宿東桝型跡】 15:20
宿場の出入り口には桝型(かぎの手)に折れ曲がり、木戸が作られ、万一の攻撃を防ぐなどの治安維持とともに宿の出入り口の道標にもなってい ました。ここを通り過ぎると町並みが始まり、本陣、脇本陣、問屋、旅籠、茶屋などが置かれていました。
由比宿も東西の出入り口は桝型に折れており、現在も面影が残されています。
由比町
【七里飛脚の役所跡】 (右側)15:23
碑文がコンクリートの塀にはめ込まれていました。
江戸時代、西国の大名には江戸屋敷と領国の居城との連絡に七里飛脚という直属の通信機関を持つ者があった。
此処は紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。同家では江戸−和歌山間(584Km)に約七里(28Km)毎の宿場に中継ぎ役所を置き、五人一組の飛脚を配置した。主役をお七里役、飛脚をお七里衆といった。これには剣道、弁舌にすぐれたお中間が選ばれ、昇り竜、下り竜の模様の伊達半天を着て「七里飛脚」の看板を持ち、腰に刀と十手を差し、御三家の威光を示しながら往来した。
普通便は毎月3回、江戸は五の日、和歌山は十の日に出発し道中8日を要した。特急便は4日足らずで到着した。
幕末の古文書に中村久太夫役所、中村八太夫役所などとあるのは由比駅における紀州家お七里役所のことである。この裏手に大正末年までお七里衆の長屋があった。
昭和四十六年春 静岡・民族の会
【由比宿】 江戸から3 8里半(151.2Km)、京へ87里
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安藤広重の東海道五拾三次之内・由比『
薩埵嶺』 宿高:340石余、町の長さ:8町56間(約974m)、町の家並み:5町半(約600m)、宿内人別:713人、宿内総家数:160軒、本陣:1軒、脇本陣:1軒、旅籠屋:32軒。 |
【 由比本陣公園・東海道廣重美術館】 (右側) 15:25〜15:45
表門の前には、「明治天皇由比御小休所」、「天皇陛下・皇后陛下行幸啓記念碑」の石柱と常夜燈、案内板が立っています。
街道面は石垣と木塀で遮蔽されている構造で、普通に見られる本陣とは異なり、街道に家屋を直面させないで塀などで囲った「遮蔽型本陣」という特徴をしています。また、右側の石垣に沿って水路がありますが、これは「馬の水のみ場」になっていたとのことです。
門をくぐると芝生広場で、入ってすぐ左手に物見塔、右手に本陣井戸があり、正面奥が「東海道広重美術館」の建物、その左側は「御幸亭」となっています。
「御幸亭」の前は東屋が建っており、トイレも右奥にありますので休憩するには良い所です。
美術館 入館料500円。開館時間:午前9時〜午後5時。休館日:館内整備日・年始(1月1日)。
御幸亭 入館料500円(抹茶付)。開館時間:午前9時〜午後5時。休館日:月曜・祝日の翌日・年末年始。
入館料が高いのと時間的制約があり、両館とも入館せず、公園内で休憩しただけでした。
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【由比本陣の沿革】 ここは江戸時代の東海道由比宿の本陣屋敷跡です。由比宿は小宿で、ここ一軒だけが本陣でした。屋敷の広さは、間口三十三間(60m)、奥行き四十間(73m)、面積は千三百坪(4300m2)あります。 この地に由比宿が定められたのは慶長六年(1601)徳川家康によって伝馬三十六匹の提供を命じられたことにはじまり、さらに大名等の休泊施設としての本陣や荷物運搬の人馬を手配する問屋場などが整備されていきました。 また、ここに本陣が置かれたのは、由比本陣家の先祖である由比助四郎光教が永禄三年(1560)主君今川義元とともに「桶狭間の戦い」で討死にし、その子権蔵光広が帰農して、この地に永住したことからはじまります。以来、由比本陣家は連綿として子孫あいつぎ当代の由比宏忠氏にいたっています。 由比町は平成元年、当主の理解をえて、この本陣屋敷跡地を購入し、町民のために由比本陣公園として整備し、敷地内に町民文化の振興と町の活性化の一助にと「東海道広重美術館」を開館しました。 いまや生涯学習の時代を迎え、町民に限らず広く来園者のみなさもの憩いの場・学習の場・交流ふれあいの場として活用されるよう希求いたします。これは由比本陣のルネッサンスといえます。 平成十年一二月 由比町教育委員会 |
【由比本陣】
ここは由比の本陣跡で屋敷の広さは約千三百坪もあり、そのまま今日に伝えられました。
大名達が休泊した母屋は、表門を入った正面にありましたが、明治初年に解体されました。
向かって左手奥の日本建築は、明治天皇がご小休された記念館の「御幸亭」といいます。付属の庭園は「松榧園」といい、山岡鉄舟が命名したものです。
右手奥の洋館は広重美術館で、もとこの位置には土蔵が立ち並んでいました。
由比町
【本陣記念館「御幸亭」】
大名が止宿した本陣の主屋に対し、ここは離れ館で、明治天皇も小休されましたので記念館「御幸亭」と命名しました。旧建物は老朽化しましたので出来るだけ当時の様式にのっとって復元しました。付設の茶屋は「結仁斎」と名づけました。
南側の池泉回遊式庭園は「松榧園」といい、由来は家康公お手植えの松、馬つなぎの榧があることから山岡鉄舟が命名しました。また北側の枯山水の築庭は、小堀遠州作といわれており、当時の石組を修復・再整備し植木も捕植して、遠州好みの趣をつたえています。
平成七年三月 由比町
【「明治天皇由比御小休所」の説明】
明治元年東京行幸の際十月六日及十二月十二日同十一年北陸東海巡幸の際十一月五日御小休あらせられたる處なり元年御使用の建物は残せざるも十一年御使用の離れ家あり其の八畳の座敷を以って御座所に充てさせられしが○規模よく保存せらる
昭和十七年四月 文部省
【本陣井戸】
この井戸は、江戸時代に本陣で使われていた井戸です。
深さは約三間(5.5m位)で、周りの井筒は切り岩が積み上げられています。
現在の水量はあまり多くはありませんが、物見塔に引き込まれ壁泉から徒渉池の流れの水となっています。
【馬の水呑場】
この横の長い水路状の濠(幅1メートル、東西20メートル)は、馬の水呑場といって、むかし大名行列の馬に水を呑ませたり、身体を洗ったりしたところです。したがって水深も、もとは60cmもありました。
屋敷の前の道路にこのような施設があるのは、他の宿場の本陣にはあまり類例を見ない珍しいものです。
【正雪 紺屋】 (左側) 15:45
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本陣公園の前にあり、昔の紺屋の様子が分かります。 慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれといわれているところから、正雪紺屋の屋号がつけられている。 平成六年三月 由比町教育委員会
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【脇本陣饂飩屋(うどんや)】 (左側) 15:50
正雪紺屋のすぐ先にあります。黒板塀に見越しの松がある民家で、板塀に案内板が掲げられています。
脇本陣とは、副本陣という意味です。
由比宿には脇本陣を交代でつとめた家が三軒ありました。そのうち江戸時代後期から幕末にいたるまでつとめたのが、この饂飩屋です。
東海道宿村大概帳(天保十二年、1841、幕府編集)に、脇本陣壱軒、凡そ建坪九十坪、門構え、玄関付とあるのがここだと思われます。
平成八年三月 由比町教育委員会
【明治の郵便局舎(平野氏邸)】 (左側)
脇本陣に続いて、同じ黒板塀に見越しの松がある洋風の建物です。
江戸時代、文章の送達は飛脚便によって行われ、由比宿では現在の由比薬局の位置で朝日麟一氏によってその業が行われ、飛脚屋と呼ばれていた。
明治四年三月、郵便制度の創設により、飛脚屋は由比郵便取扱所となり、さらに明治八年一月由比郵便局と改称された。
明治三十九年五月、平野義命氏が局長となり自宅に洋風の局舎を新築し、明治四十一年一月より郵便局を移転した。この局舎は昭和二年七月まで使用され、現在は平野氏私宅となっている。
平成六年三月 由比町教育委員会
【由比宿おもしろ宿場館】 (左側)
平野氏邸のすぐ先にあり、その入口にユニークな弥次喜多の等身大人形が立っています。
一階は、由比宿の町並や宿場町ゆかりの品々が展示されており、入館料は400円です。二階は、喫茶・食事の「海の庭」となっています。
その土地ゆかりの古い品物を展示している有料の施設は、何処も似たり寄ったりなので、顕著な特徴がなければ原則として入館はしません。
【ばったり床几 (揚げ店)】 (左側) 15:55
由比川橋の手前に、座るところが折りたためる木製のベンチが置かれており、江戸時代の由比宿の街並み図と「ばったり床机」の案内板が掲げられていました。
床几(しょうぎ)とは折りたたみ式の腰掛けで、これは収納のときにバッタンと音がすることからの呼称です。別名の揚げ店とは、揚げ降ろしによって自在にできる店先のことです。
現在では京都の町屋にわずかに見られるもので、家屋の戸、障子をあければ部屋の延長となり、お客の休憩場、近隣の雑談所、雨の日の子供の遊び場にもなります。どうぞ自由に御利用下さい。
【由比宿西木戸】
ばったり床机のすぐ近くに案内板のみありました。
天保十二年(1841)に江戸幕府が編集した東海道宿村大概帳によると、由比宿の町並みは東西五町半(約600m)とあります。その宿場の西の木戸(通行人の出入口)が、この先の枡形(曲がり角)の所あたりだったと思われます。
旧東海道は、その桝形を左折して坂道を下って由比川の河原へ出ると、仮の板橋が架けられていて、それを渡りました。雨が降って水量が増すと,この仮板橋は取り外されました。このように由比川は徒歩で渡りましたので、徒歩(かち)渡りといっています。
歌川広重の版画の行書版東海道の「由井」には、この情景がよく活写されています。また狂歌入り東海道には、結城亭雛機(すうき)という人が、
ふみ込めば 草臥(くたびれ)足も 直るかや
三里たけなる 由比川の水
という狂歌をのこしています。
平成八年三月 由比町教育委員会
往時は仮板橋だったが、現在は広くて新しい由比川橋を渡ります。右手河川敷はスポーツ広場になっており、2002年現在、無料の駐車場もあります。
【せがい造りと下り懸魚】 (左側) 16:05
由比川橋を渡り、5分ほど行くと「せがい造り」と「下り懸魚(くだりげぎょ)」を持った古い民家があります。
【せがい造り】
軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁とし棰(たるき)を置いたもの。
民家建築に美観を添えたもので、由比町の町並みに特に多く見られる。
【下り懸魚】
平軒桁の両端が風雨による腐食を防ぐための装置で、雲版型の板に若葉、花鳥などを彫り込み装飾も兼ねている。
稲葉家は、この下り懸魚が施されている建物である。
平成四年三月 由比町教育委員会
【豊積神社】 (右奥) 16:08〜16:15
稲葉家から3分程で「お太鼓祭り」の案内板が出てきます。豊積神社のお祭で、神社は街道から右へ100m入った突き当たりにあります。案内板は街道筋と神社内の2箇所にありました。
【お太鼓祭り】 静岡県指定無形文化財
桓武天皇は延暦十六年春征夷大将軍坂上田村麻呂に蝦夷征討を命じた
将軍はその砌に當社に立寄り戦勝祈願した 戦いに利ありて 帰途再び社参しその戦勝祝いに奏上した神楽がお太鼓祭りの起源とされている
例年元旦より三日早朝にかけて行われる 昔より東海の奇祭として有名
平成九年正月には千二百回記念祭を行った
戦前はラジオ 戦後は新聞テレビ等度々報道されている
【お太鼓祭りの由来】
往古白鳳年間の創建と伝えられる町屋原区式内豊積神社で行われる祭りで、由来は古く延暦年間征夷大将軍坂上田村麻呂が奥州征伐の戦勝凱旋祝として奉納された祭りに始まる。
毎年正月元日より三日間青年たちによって太鼓が担ぎ出されお太鼓の歌に合わせて区内をねり歩く伝統のこの祭典は県無形民族文化財として指定されている。
「年に一度の祭りにゃおいで 生まれ故郷のお太鼓に」
由比町教育委員会
旧東海道は神社の先、JRの線路に接する手前右側の「ハラ電気」角を右折し、すぐ左折して路地を100m行き、右手県道396号線に出ます。この県道はJR東海道線より高いところを通っています。
由比駅付近は往古から山が海岸までせり出している為、海と崖の間が非常に狭いです。この狭い間に海側から、東名高速道路・国道1号線(富士由比バイパス)・由比駅海側の小道・JR東海道線(由比駅)・県道370号線(由比停車場線)・県道398号線(富士由比線)の実に6本も通っています。
駅の先(西)で更に狭くなる為、一般道路は全て国道1号線に合流し、薩捶峠への山道を除けば3本が完全に接する状態になります。
私達は本日の旅を由比駅で終了するため、由比駅前で県道396号線から、今まで歩いていた県道370号線に下りました。
由比駅手前の公衆トイレ前に「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
興津宿(宿境まで一里三十二町) ← 由比町今宿 → 由比宿(宿境まで十三町)
16回目の旅終了(16:30)JR東海「由比駅」。
◆本日総歩数:28,000歩
由比駅より電車で富士駅に戻り、夕食後車で帰宅しました。
「原宿・吉原宿」 ← 「目次」 → 「由比宿
(
後半)
・興津宿」