中原街道(5) 桜ヶ丘交差点~岡田西交差点(JR相模線・寒川駅入口)

2014年2月1日(土) 晴
 「桜ヶ丘交差点」を10:55スタート。二人旅。

(注:解説で街道の左側、右側とは平塚に向っての左右です)

宮の下交差点~桜ヶ丘交差点」 ← 「目次」 → 「大蔵バス停~中原御殿跡」


 
 本日も前回同様アップ・ダウンがあるが、西へ向う場合は上りの急坂は無く、比較的楽だった。東へ向う場合は長い上り坂がある。
【桜株十一面観世音菩薩】 (左側)
 「桜ヶ丘交差点」すぐ先、小田急線の踏切を渡った左側に桜株十一面観世音菩薩が建っている。
【桜株十一面観世院菩薩の由来】
 この尊像は昭和十一年十月二十三日深谷村秋祭と大和村小学校の運動会の帰途、当時もの珍しい自動三輪車にてこの桜株踏切にさいかかるや折から幕進し来たりし江の島行電車に接触し一大音響と共に三輪車もろともに十一名即死、二名が重傷と云う大惨事を巻き起こし、これを契期に部落の先輩諸氏が事故防止を呼びかけ設立運動を起し、翌昭和十二年有志の善意が高なり浄財の御喜
捨により、当時綾瀬村報恩寺住職の御懇篤なる御教導仰いで十一名の尊き御霊の冥福を祈るために、十一面観世音菩薩像が踏切わきの此の地に安置されて二度とこのような事故を起さぬよう永遠に交通安全を願い、菩薩の御加護祈願し茲に尊像が設立致しました
     桜ヶ丘自治会

【厚木飛行場】 (右側)
 「桜株踏切」の先で坂を下って、引地川に架かる「新道下大橋」を渡ると上り坂になる。
 この橋の下には道路と川が並行してくぐっており、川沿いは桜並木になっている。
 やがて右手に終戦後、連合国軍最高司令官マッカーサーが最初に降り立ったことで有名な厚木海軍飛行場が見えてきたら「代官一丁目交差点」で県道45号線から離れて右の飛行場フェンス沿いの道を行く。
 「代官二丁目信号」の先で道は左にカーブして行くが、往時はこのまま「綾瀬大橋入口交差点」まで真っ直ぐの道だった。厚木飛行場が出来たときに分断されてしまったらしい。
 旧道は「代官三丁目交差点」で右折して新道に合流する。
 この交差点から右手は広い「引地川公園ゆとりの森」と「綾瀬スポーツ公園」になっている。
 中原街道は、飛行場と公園の間を進み「綾瀬大橋入口交差点」で左に曲がって行く。
 私達は公園内の側道に入り、スポーツ公園西端にある駐車場から街道に出た。出た場所は中原街道が「綾瀬大橋入口交差点」で左に曲がった少し先だった。


 (左の写真はフェンス工事中の公園内から写した厚木飛行場で、右端にバイクが走っている道が中原街道である。)

<昼食> 11:45~12:25
 公園から中原街道に出た所は下り坂で、蓼川に架かる「蓼川橋」を渡って再び上りになる。途中左手に鶴島緑地の看板が立っていた。
 坂を上りきって、信号の先右手にある「RISEMALL綾瀬」内の「楽常庵」で昼食とする。
 敷地内の向かいの建物は「食品館あおば」というスーパーマーケットになっている。ここは工場跡地に最近出来たばかりの商業施設である。

【庚申塔等三基】 (左側) 12:30
 「RISEMALL綾瀬」のすぐ先「深谷原バス停」から200m程進んだ左側、緑のフェンス前に道標兼庚申塔堅牢大地神
(けんろうだいじしん)石仏(地蔵)の三基が並んでいる。
 右の道標兼庚申塔下部の一部は折れてセメントで固定されていた。左側面に『南大山道 文化十一年十一月』、右側面に『西阿つぎ ○江戸道』と刻まれている。
 中央の堅牢地神は慶應三年八月の建立。
 左の石仏は損傷が激しかった。


 堅牢地神は、釈迦成道の際に地から現れた仏法守護神で大地を司る神との事。

【大法寺】 (右側) 12:40
 坂を下って「綾瀬市深谷交差点」手前右角に大法寺がある。
 入口の両側に『南無妙法蓮華経』の髭題目碑が立っていて、本堂の左手には日蓮上人の銅像が建っている。

 厚木飛行場では戦闘機の離着陸を見る事が出来なかったが、この辺りで着陸態勢に入っている戦闘機を間近に見た。やはり騒音はひどいものだった。

【庚申塔等六基】 (左側) 12:47
 次の「深谷交番前交差点」を渡った左側にフェンスに囲われた中に五輪塔を彫った石碑堅牢大地神庚申塔燈籠耕地整理記念碑不動明王像が建っている。
 五輪塔石碑は宝暦九年、堅牢大地神は文政二年、庚申塔は萬延元年だった。

【御岳神社】 (左奥) 13:00
 比留川に架かる「新道橋」を渡って上り坂。
 「早川交差点」左に「エムケーチーズ綾瀬工場」がある。
 次の「綾瀬市吉岡交差点」手前を左折するとすぐ御岳神社がある。
 入口の鳥居脇にフェンスに囲われて不動明王堅牢地神塔が建っていて、その右後のフェンスの外に庚申塔が建っている。
 境内には楠木と思われる巨木が聳え、その左後にこじんまりした社が建っている。巨木の下に石標があり、『大正四年十一月十日・御即位記念樹・帝国在郷軍人會綾瀬村會』と刻まれていた。
【御岳神社】
 祭神は、櫛真知命で、火災・盗難よけの神とされています。
 鳥居の右にある不動明王は、安政三年(1856)の造立です。
 その手前には庚申塔があり、造立は天保九年(1838)で、銘文には「東 江戸道・南 ふしさハ(藤沢)道・西 大山道・北 ほしのや(星谷)道」という文字が刻まれています。
     平成二年三月 綾瀬市教育委員会


 星谷道は、ここから北西へ直線距離7.2Km、座間駅傍の星谷観音で知られる星谷寺(しょうこくじ)への道のこと。

 (左の写真で、フェンスの中の左が不動明王で右が堅牢地神。この右後に庚申塔が建っている。)

【佐要坊(サイホウ)塚】 (右側) 13:20
 中原街道は左右に工場が連なる「吉岡工業団地」を抜け、右側の綾瀬浄水場が終わる「女坂
(めざか)信号」を渡った右角にサイホウ塚が鎖に囲われて建っている。
 この信号で綾瀬市から藤沢市に入る。下の写真で車が写っている道が平塚方向の中原街道。
 石碑の後にくくりつけられている卒塔婆には『南無妙法蓮華経為佐要坊塚」と書かれていた。
 また、石碑の前には小さな駒形の説明板らしきものが括り付けられていたが完全にかすれて判別不能だった。
 碑文もかすれ、板に隠されていることもあり読み取れなかった。

 サイホウとは??

【中将姫】 (右奥) 13:40
 サイホウ塚のある交差点から長い下り坂になり、右手に大山方面の山が見える。丹沢や富士山も見えるのかは霞んでいたので確認出来なかった。
 やがて新幹線が見えてきて下りきった所にガードがある。
 新幹線の少し手前、坂を下りきらない所で右への細い道に入り、少し坂を上った突き当りを右折する。この突き当たりに、街道入口には無かった『中将姫→』と書かれた小さな案内板が掲げられている。
 案内板で右折した先の左手に再び『←中将姫』の案内板が出てくるので、それに従って畑の間のマットが敷かれている道へ左折し、奥の林の中を下って行くと中将姫のお堂が建っている。
 お堂の右手前には説明板と『史跡 中将姫』と刻まれた石碑が建っている。また、お堂の中は灯明が灯り、姫の絵や曼荼羅が掲げられ、線香や蝋燭の用意もされていた。
【中将姫】
 中将姫は、奈良時代の右大臣藤原豊成公の娘で、幼くして母を失い、継母に育てられました。しかし、その美貌と秀でた才能から継母に嫉まれ、命を狙われ面で顔を隠す逃亡生活であった。その面は寿昌寺に預けられた後、用田の寒川神社へと納められたが盗難に遭い現存していない。
 その後、姫は父と再会し一度は都に戻りましたが願いにより当麻寺へ入り、十七歳で中将法如として仏門に入り称賛浄土経一千巻の写経を達成した後、阿弥陀如来と観世音菩薩のお力の元に、百駄の蓮の茎より一夜にして一丈五尺(約四メートル四方)もの蓮糸曼荼羅を織り上げになりました。その後二十九歳を迎えられた中将法如は、光仁天皇の宝亀六年(775)三月十四日、諸仏の来迎を受けて、大往生を遂げられました。
 私達は両方共に行かなかったが、解説にある寿昌寺は、先ほどの突き当りを左折して300m強の所、また、用田の寒川神社は、新幹線を越えた先の左斜めの道を200m程行った所にある。
【双体道祖神】 (右側) 13:57
 街道に戻り、新幹線のガードをくぐって数分進むと、右側に寿昌寺の大きな看板が立っている所に出る。寿昌寺はここを右折した400m程先にある。
 この看板の所、右手に双体道祖神があり、その右横に崩れた古い五輪塔があった(左の写真)
 また、その左奥に地蔵堂もあった。

【道標】 (右側) 14:05
 寿昌寺入口からやや上坂になり、すぐ「新用田辻交差点」、続いて「用田交差点」がある。「用田交差点」は中原街道と大山街道が交差している辻である。
 「用田交差点」を渡った右角、大きな看板の足元に道標が建っている。
 偶然通りかかったおじさんの説明によると、これらの石碑は元々この場所にあったのではなく移設されたものとのことで、以前はハイヤーの待機所だったらしい。何処から移設されたのかは聞きそびれてしまった。

 左の写真で、右の石は発起人の名前が刻んだもの。
 左の不動明王が乗っているのは大山道の道標で、かすれているが正面に『右大山道』と刻まれている様だ。右側面には『安永○年』。
 真中の小さい道標も文字がかすれて『西座間村』は判るが、他の文字や側面の文字は判らなかった。

【道祖神】 (右側) 14:11
 大山道道標の直ぐ先、民家の庭先に注連縄が張ってある道祖神が建っているが、かなり痛んでいた。
  

【双体道祖神 (左側) 14:29
 「用田交差点」から「宮原南信号」迄の1.7Kmは、文字通りに真っ直ぐな道で、途中植木屋が多数あった。この道は”植木屋通り”と言っても過言ではないくらいだった。
 「宮原中央バス停」を過ぎた信号の左角、ブロック塀が切り込まれた所に双体道祖神が祀られている。向かいはコンビニの「ポプラ」。
 道祖神の右後ろに五輪塔が見える。

【屋敷門】 (右側) 14:57
 「宮原南信号」の次の信号を越えて少し進んだ右斜めに入り、弧を描いている道(「小谷
(こやと)バス停」迄の600m程)が旧道だが、見逃して真っ直ぐ進んでしまった。
 「小谷バス停」を過ぎて中原街道は右カーブして「大蔵
(おおぞう)信号」を越える。
 右カーブした所で、藤沢市から高座郡寒川町に入る。
 その先「大蔵バス停」前左側の屋敷の庭には巨木が数本立ち並び、その隣に露木家の立派な屋敷門が現れる。
 露木家の庭にも巨木が茂り、屋敷門の後ろには蔵が建っていた。

 屋敷門の前で道は二又になり、県道45号(中原街道)は左の道になる。
 この辺りから終点である平塚の中原御殿迄の旧中原街道は、道が変わったり消滅したりして正確な道順が分からなくなっている。
 この二又道からも二つの説がある。
 一つは、ここを右に行ってほぼ直線的に寒川駅の右側の踏切を渡って県道45号線に合流する方法。こちらの道には途中に中原街道の説明板が立っている。
 もう一つは、ここを左に県道45号線を行って、寒川駅の左の踏切を渡り、「景観寺前交差点」で右折するやや遠回りの方法。こちらにも多くの史跡がある。
(次回はこの左ルートからスタートする予定)
【中原街道説明板】 (左側) 15:15
 私達は、時間の関係から今回と次回の二回に渡って両方歩いてみる予定で、本日は右ルートを行くことにした。
 二又を右に入って少し進むと「日産工機本社」にぶつかる。往時はこのまま真っ直ぐ、現在の「寒川小学校」左側の道に通じていたが、今は工場で分断されている為、柵に沿って右回りに進む。
 工場が切れた所を左折すると「寒川小学校」左側の道につながる。
 そのまま「寒川小学校前交差点」を直進し、二又道が現れたら右に進む。
 程なく左手に墓地が見えてきて、墓地側に平塚方向に向いて中原街道の説明板が近郊の地図入りで立っている。
【中原街道】
 平塚市郊外の中原から渋谷に通じる道で、寒川町内は田村の渡しから一之宮を東北に抜け、根岸の南端から山道を回って小谷御座松(こやとござまつ)、北上して小動(こゆるぎ)の東側を用田に抜けていた。
 また、この街道は中原にすばらしいお酢を造る家があり、将軍徳川家康が放鷹
(ほうよう)の時そのお酢を気に入られ将軍家の使用料として荷駄馬で運ばせたところからお酢街道の名がある。
     寒川町教育委員会

 中原街道の説明板から南下し「岡田西交差点」で本日の歩きは終了とし、ここを左折して直ぐの「寒川駅」から帰宅した。
 中原街道は、この交差点を直進しJR相模線の踏切を渡って、少し右に寄った「南台畑交差点」を越え、県道45号線を右折して相模川に向って行く。
 「南台畑交差点」から一本手前の道を右折すると車地蔵があるが、次回訪れることにする。


 第5回終了。 15:20 「JR相模線・寒川駅」。

 今回の記録 : 街道のみの距離は、12.5Km(桜ヶ丘交差点~岡田西交差点)。 「虎ノ門交差点」から、51.0Km。
           寄り道を含めた実歩行距離は、14.1Km 20,800歩(桜ヶ丘駅~寒川駅)。 累計 65.7Km。


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