箱根西坂(下り) (元箱根バス停→三島広小路駅) <旧東海道13回目 >

2002年10月27日(日) 晴

 二人旅。(「元箱根」近くのホテル~JR「三島駅」)


2016年12月18日(日) 晴
 自宅から電車とバスで「元箱根港バス停」迄行き、「五本松信号」でリタイヤ(一人旅)

2018年4月4日(水) 晴
 12月に途中リタイヤした「五本松信号」より三島広小路駅迄進む(一人旅)


 (注:文中で街道の左側、右側とは京都に向っての左右)


「箱根東坂(上り)」 ← 「目次」 → 「三島宿・沼津宿」



 2016年12月18日 「元箱根港バス停」を9:20スタート。


【身代わり地蔵】  (右側)
 「元箱根港バス停」の向かいに身代わり地蔵(下の写真は2002年撮影のもの)が祀られている。

    宇治川の先陣争いで名高い梶原影季(かげすえ)は、ある年箱根を通りかかった時、何者かに襲われました。当時弁舌巧みで、たびたび人をおとしいれた平景時と間違えられたらしいのです。幸いにも、かたわらにあった地蔵が身代わりになってようやく命が助かりました。それ以来この地蔵を景季の身代わり地蔵と呼んだとのことです。

【芦ノ湖】 (右側) 9:20
 「元箱根港バス停」より芦ノ湖の湖畔に下りて富士山と箱根神社の鳥居を望む。

  【芦ノ湖】
 約三千百年前に起きた神山(箱根駒ケ岳と大涌谷の間の山)の水蒸気爆発によって、神山の北西部が大きく崩れ、その土砂が仙石原方面に流れ下った。
 この時、仙石原には古い早川が流れていたが、土砂が川をせき止め、その上流に水が溜まって、湖となったのが芦ノ湖。
 鎌倉時代は「箱根の海」と呼ばれ、「芦の海」は別称だった。
 江戸時代に入ると「芦の海」呼ばれることが多くなり、江戸後期には「芦ノ湖」と呼ばれるようになる。
 名前の由来は、岸辺に「芦」が沢山生えていたからと云われる
。 

葭原久保(よしわらくぼ)の一里塚 (左側) 9:25
 国道1号線を南下すると直ぐ杉並木になり、程なく歩道橋が見えてくると左側に分かれた旧道が現れる。
 その入口、杉の根元の石積みの上に一里塚の石標と案内板が立っている。石標には『箱根旧街道一里塚 江戸から二十四里』と刻まれている。

 【葭原久保の一里塚】
 江戸幕府は、慶長九年(1604)大久保長安に命じ、江戸-京都間に一里ごとに旅人の目印として、街道の西側に盛土をしました。そして、ここではその上に檀(まゆみ)を植えました。この塚は、日本橋より二十四番目にあたります。

 (一里=約3,952米)

     昭和五十七年八月一日 箱根町教育委員会


【箱根旧街道杉並木】 9:26
 一里塚より杉並木の旧道に入ると、すぐ左側に箱根旧街道杉並木と題する説明板が立っている。

    【箱根旧街道杉並木
 江戸と京都を結ぶ「東海道五十三次」は、江戸時代の元和四年(1619)頃に、それまでの湯坂道を廃し、湯本、畑宿、箱根を廻る街道に改められました。この杉並木は、徳川幕府が、旅人に木陰を与えようと道の両側に植えたもので、東海道では唯一のものです。

 第二次大戦中、伐採されそうになったこともありましたが、現在では、国指定史跡として保護され、芦ノ湖周辺の四地区に、約四ニ〇本の杉が残されています。
 残された杉には、人々の愛護の心が込められています。
 杉並木を大切にしてください。

     文化庁・神奈川県教育委員会・箱根町教育委員会


【箱根杉並木碑】 (右側) 9:33
 杉並木の旧道が終わって国道1号線に合流する地点に、『旧東海道 箱根杉並木』と刻まれた自然石の石碑が建っている。

  


【恩賜箱根公園】 (右側) 9:35
 上の写真で旧道が終わり、国道を横断して駐車場に入って行くと県立恩賜箱根公園がある。
 ここは、明治時代に皇族の避暑と外国からの賓客のために造られた離宮の跡地で、終戦後に神奈川県に下賜され、公園に整備された。
 時間が無いので、入園せず入口だけ撮影した。
  


【箱根関所跡】 9:38~10:00

 恩賜箱根公園の駐車場を左に出て、真直ぐ進むと箱根関所に突当る。
 2002年に訪れた時は復元の為の地盤整備中で何も無かったが、2004年に建物が復元され、2007年に石垣などの大規模な復元工事が終わり、全面公開された。
 関所の江戸口御門手前の右後ろに箱根関所資料館がある。
関所と資料館の利用案内
 開館時間:3月1日~11月30日 午前9時~午後5時/12月1日~2月末日 午前9時~午後4時30分 年中無休
 観覧料金:500円(65歳以上400円)


関所内から「江戸口御門」を写したもの
左の建物が「大番所」、右の建物が「足軽番所」

【箱根関阯】 国指定史跡

 箱根関所が、江戸幕府によって、山と湖に挟まれた交通の要衝であるこの地に設置されたのは、元和5年(1619)のことと伝えられています。箱根関所は、江戸幕府が江戸防衛のために、全国に設置した53ヶ所の関所のうち、東海道の新居(静岡県)、中山道の碓氷(群馬県)、木曽福島(長野県)と並んで規模も大きく、特に重要な関所と考えられていたようです。
 この関所の配置は、箱根山中の東海道の中で、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区画し、江戸口・京口両御門を構え、大番所と足軽番所が向き合うものとなっています。
 一般的に関所では、「入り鉄砲に出女」を取り調べたと言われていますが、この箱根関所では、江戸方面からの「出女」に対する厳しい取調べを行っていました。
 江戸時代を通じて機能を果たしてきた関所ですが、設置から250年後の明治2年(1869)、新政府により関所制度が廃止され、その役割を終えました。
 箱根関所の跡地は、大正11年(1922)、「箱根関所」として国の史跡に指定されました。昭和40年(1965)には番所の建物が建設され、その後、昭和58年(1983)、江川文庫(静岡県伊豆の国市)から、慶応元年(1865)に完成した箱根関所の大規模修理についての克明な資料『相州箱根御関所御修復出来形帳』が発見され、資料の解析や跡地の発掘調査を経て、平成19年(2007)春、国土交通省、文化庁、神奈川県の補助を受けた復元整備を終え、箱根の関所は往時の姿によみがえりました。
     平成19年(2007) 箱根町教育委員会



【遠見番所からの展望】 ①
 足軽番所(山側の建物)の後ろの山にある遠見番所から望んだ関所の全景。
 右が江戸口、左が京口で、湖側の建物が大番所。大番所の後ろ建物には、上番休息所勝手がある。
 大番所の左隣の建物は馬屋







【大番所】 
 江戸口御門から入ってすぐ右側の建物が大番所・上番休息所。
 関所の一番主要な建物です。二棟が継がれている建物で、街道側が大番所、湖側が上番休息所と呼ばれています。共に栩葺(とちぶき)と言われるうすく割いた杉板を重ねた屋根を持ち、また外観は、渋墨で塗られた黒い建物です。



【上の間】
 ③
 大番所の建物の中で、上の間と呼ばれる部屋です。この部屋は、箱根関所の中でも最も格が高く、通常は伴頭、横目付が座り、大名や家老などの接待の間としても使われました。
 また、鉄砲や弓も置かれ、旅人を威嚇していました。
 【横目付】 (③の右側の人)
 伴頭に次ぐ人物で、伴頭の補佐役です。伴頭以外の侍や足軽、定番人、人見女などの人事を管理していました。


【面番所】 
 
大番所の建物の中で、面番所と呼ばれる部屋です。「次の間」「番士詰所」などとも呼ばれ、関所役人のうち番士や定番人などが詰めていました。
 また、部屋の前の縁側では「出女」の取調べが行われていました。
 【番士】 (④の真中の人)
 旅人が差し出した箱根関所を通行するための証文が本物かどうかを改めたり、旅人から聴取した行き先などを記録したりしていました。
 【定番人】 (④の左側の人)
 箱根宿に住んでいる人で、小田原藩から雇われていました。関所役人の補佐をして、旅人の通行改めなどを行っていました。
 【人見女】 ⑤
 定番人の母親などで、小田原藩から雇われ、女性の旅人が箱根関所を通過する際、髪を解いたりして、取調べなどをしていました。

【上番休息所】 ②の後ろ
 
大番所・上番休息所の建物の中で、上番休息所と呼ばれていた部屋です。この部屋は主に伴頭から番士までの関所役人の就寝に使われていました。   



【足軽番所】 ⑥
 江戸口御門から入ってすぐ左側の建物が足軽番所
 
大番所・上番休息所の次に大きな建物で、大番所・上番休息所の向かい側、江戸口御門の脇にあります。昼間は足軽が控えていたり、夜は足軽が寝ていた場所です。建物内には足軽のための部屋や休息所、不審な武士などを留め置く「揚屋(あがりや)」、関所破りをした罪人などを一時的に拘置する獄屋(牢屋)などがあります。屋根は大番所と同様に杉板を薄く割って重ねた「栩葺」で、外壁は壁板を「渋墨(しぶすみ)」で黒く塗られています。特に、「獄屋」は格子で囲まれており、とても頑丈に造られています。
 【足軽】 
 関所役人の下で、京口御門や、江戸口御門の門番をはじめ、遠見番所での芦ノ湖の見張など、さまざまな仕事をしていました。
 【休息所】 ⑦
 足軽番所の休息所と呼ばれる部屋です。身の回りの日用品などを置き、夜に休むところでした。この奥の部屋は下番居所と呼ばれ、雑用をする下番が控えていました。

【遠見番所】 
 足軽番所の後ろに控える山の右上にかろうじて見える建物が遠見番所
 箱根関所で唯一の二階建ての建物です。四方に開かれた大きな窓から二名の足軽が昼夜を問わず交代で、芦ノ湖や街道沿いを見張っていました。 


【箱根関所資料館】
 三島まで行く時間を考えて、早足で簡単に見学しただけだが、関所手形・古文書・武器類等が展示されていた。


【箱根宿】 江戸から24里28丁(97.3Km) 京へ100里28丁 

安藤広重の東海道五拾三次之内・箱根『湖水圖』 

 箱根東坂は、畑宿を過ぎると険しい坂道が次々と続いた。最高点を過ぎると、道は下りになり、権現坂は芦ノ湖の最高の景色が見える坂であった。

 この絵は、大名行列がこの権現坂を下っていくところであるが、箱根山の険しさをことさら誇張して描かれている。

小田原城の「歴史見聞館」に展示されていた箱根宿

関所を出て、右折したところが宿場の中心だった。

 現在はバスや遊覧船の発着場、箱根ホテルとなっている。


【箱根駅伝栄光の碑】 (右側) 10:05
 箱根関所の京口御門を出て国道に戻り、右手「箱根ホテル」を過ぎたすぐ右手の広場に箱根駅伝栄光の碑が建っている。
 傍には、『駅伝を讃えて』と題する詩碑と『平和を願う碑』も建っている。

【駅伝を讃えて】 
 若い豹は春の象徴
 君たちが走ると
 東海に春がよみがえる
 富士はおおらかに微笑み
 相模の海は夢多い調べをおくる

 君たちは意志と力の群像
 君たちは青春の花々
 赤や海老茶や紫が入りみだれて
 春のさきがけのテープを織りなす
 君たちは光のようにはつらつと走り
 町々を 並木を 野を 山を
 呼びさます 春のつばさ

 東京箱根間大学駅伝
 二日間のレースは
 二つないスポーツの交響楽
 自然の美とスポーツの美の
 明るく展ける新春のフィルム

 よろこびと涙を
 わかち合う二百二十キロ
 若い日の楽しい感激よ


              
勝  承 夫

【駅伝広場】 (左側) 10:08
 次の「箱根関所南」信号の左角に駅伝広場があり、過去のゴール風景やスタート風景写真が掲げられている。
  


【「関白道」碑】 (左側) 10:10
 次の信号の左角に『関白道』と刻まれた石碑、祠、山の神碑が一段高い所に建っている。



【関白道】 
 天正十八年 豊太閤秀吉 小田原城攻畧ノ砌 新軍道トシテ開鑿(かいさく)セル道路ナリ
 鞍掛山十国峠旧登山道ニ通ズ
     箱根振興会 

【駒形神社】 (左側) 10:15
 「関白道碑」のある交差点を右折した先、左側に駒形神社がある。
 参道に入って鳥居をくぐると右側に庚申供養塔が建っている。
  

 石段を上った左手に蓑笠明神社が祀られている。

【蓑笠明神社由緒】 
 商売繁盛の福徳をもたらす神、芦ノ湖の豊漁を司る神として信仰される蓑笠明神は、毎月十三日 箱根権現にお参りされた。その時 蓑笠をつけられたところから、こう呼ばれている
 この蓑笠明神社は、箱根権現社外の末社で、箱根宿の東、明神川の流れ込む芦ノ湖のほとりに鎮斎された。創建は江戸時代の初めで、三島から移住した里人の勧請によるものである。明治以降、神衹制度の変革により、昭和三年駒形神社に合祀奉遷されたが、平成の大御代を寿ぎ奉る、御大典記念奉賛事業として神社殿を造営、平成四年夏鎮斎された。

御祭神 事代主神(えびすさま)
祭礼日 八月三日


 その右側には犬神明神社が祀られている。

【犬塚明神】 
 元和4年(1618)箱根宿が創設された時、付近には狼がたくさんいて、建設中の宿の人々を悩ませました。
 そこで唐犬2匹を手に入れて狼を退治させ、やっと宿場が完成しました。しかし2匹の唐犬も傷付いて死んでしまいました。
 人々は宿場を完成させてくれた2匹の唐犬をここに埋め、「犬神明神」と崇め祀りました。


 一番奥の正面に駒形神社が建っているが、その右手に箱根七福神の毘沙門天社が祀られている。

【毘沙門天社】 
 信仰ある者を守護して、実行力と勇気を与える。
 四天王の一仏で、別名「多聞天」といい七福神の中で唯一の武将の姿をしていて、右手に宝棒、左手に宝塔、足の下に邪鬼天の邪鬼を踏みつけている。
 七福神では融通招福の神として信仰されている。


 正面に駒形神社本殿が建っている。

【駒形神社由緒】 
 当社は元荒湯駒形権現社と号し、古来関東総鎮守箱根大権現と称された箱根神社の社外の末社(枝宮)で町内の鎮守様です。
 創立年月沿革等不詳ですが、相模風土記に「往古此の辺りが神領の頃、箱根派修験比丘等凡そ六百軒住居し駒ケ岳(神社から湖を通して真正面に見える山)より駒形大神を勧請し、お祀り申し上げた」と在り、永い歴史を持つお社で家内安全 子孫繁栄 厄除開運 商売繁盛に高い御神徳をお持ちの神さまとして尊宗されています。

【芦川の石仏群】 (右側) 10:23
 駒形神社のすぐ先を真直ぐ入って行くと旧街道の急坂が始まるが、坂の入口右側の草地に芦川の石仏群と称する数多くの石仏や石塔が並べられている。 



「箱根旧街道」向坂地区杉並木・石畳】 国指定史跡
 旧箱根宿の西側にあたる芦川の町並みを過ぎると、旧街道は、箱根峠までの約四百メートルにわたって、急坂が続きます。この坂は順に「向坂」「赤石坂」「釜石坂」「風越坂」と呼ばれています。
 江戸時代前期、街道整備の一環として、この急坂の両側には杉が植えられ、道路には石畳が敷設されました。これらは今日まで残されており、当時の街道の面影を今に伝えていることから、昭和三十五年に国史跡に指定されました。

【芦川の石仏群】
 
 この箱根旧街道向坂地区の入口付近には、「芦川の石仏群」と呼ばれる、数多くの石仏・石塔があります。
 もとは芦川集落内の駒形神社境内にあったものを移したといわれています。ここには、箱根で最も古い万治元年(1658)の庚申塔や、江戸時代後期に建てられた多くの巡礼供養塔がなどがあります。
 これらの石仏・石塔には、当時造立にかかわった地元の方々の名前が見られ、地域の信仰のようすを知る上でも貴重なものとなっています。
     平成二十一年三月 箱根町教育委員会

【向坂(むこうさか)の石畳】 10:25
 石仏群の直ぐ先でいよいよ箱根旧街道の急坂が始まる。
 最初に現れるのが向坂で、石畳道を上り始めると直ぐ石標と説明板が立っている。

【向坂】 
 芦ノ湖湖畔の箱根宿を過ぎますと、再び山にさしかかります。
 この坂が向坂です。
 坂の入口に石仏群があり、往時の杉並木も石畳も残っていて、味わい深い坂です。

【赤石坂】 10:30
 5分上ると国道下の小さなトンネルをくぐる。
 このトンネルの前後が赤石坂の石畳。



【赤石坂】 
 国道1号を挟んで両側に石畳と杉並木が残っています。
 道を下れば旧箱根宿の一つであった芦川の集落に、道を上れば相模の国と伊豆の国を分ける箱根峠に達します。

【釜石坂】 10:35
 更に5分程登ると釜石坂になる。



【釜石坂】 
 この坂道に残る杉並木は、芦ノ湖畔のドンキン地区・吾妻嶽地区、箱根関所付近の新谷地区と並んで、箱根旧街道に現存する江戸時代の杉並木です。四つの地区を合わせて、約四二〇本の老杉が残っています。

【風越(かざこし)坂】 10:39
 左カーブして風越坂

【風越坂】 
 江戸時代の延宝八(1680)年、箱根旧街道に石畳が敷かれました。当時、石畳が敷かれた場所は、坂道だけで、集落の中や平坦な所には、石畳は敷かれませんでした。

【挟石(はさみいし)坂】 10:43
 風越坂の先で階段になり(10:41)、これを46段上って、更に挟石坂の階段へと続いて行く。
 国道へ出る手前の最後の挟石坂は急階段で本当にきつかった。



【挟石坂】 
 箱根峠にかかる坂です。
 峠は当時の浮世絵をみますと、伊豆の国を分ける標柱と、ゴロゴロした石、それに一面のカヤしか描かれていません。まことに荒涼たる峠でした。
 三島宿までは、ここからさらに四里(一六キロ)近く、こわめし坂、自転坂などの難所が続きます。

【箱根峠】 10:53
 国道に上った所に、
箱根旧街道の説明板が標柱と共に立っている。
 下の写真で、標柱の右下が挟石坂

【箱根旧街道】 国指定史跡
 江戸幕府は、延宝八年(1680)箱根旧街道に石を敷き並べました。この先から約四〇〇メートルは、その面影を残しており、国の史跡に指定されていて、箱根関所への近道ともなっています。
     昭和五十二年三月 箱根町教育委員会


 挟石坂から国道に上って左手を見ると道が二股になっている。右(崖側)が東海道で、左カーブしているのが湯本に下りる箱根新道
 横断歩道が無いので車に注意して崖側へ横断し、崖に沿って右の道を進む。
 箱根新道の下をくぐると再び二股道になるので左の旧道(「くらかけゴルフ場」方向)に進む。
 直ぐ右に曲がると箱根峠の信号に出る。ここが神奈川県と静岡県の県境である。
 信号で国道(東海道)の右側に渡ると「箱根旧街道」の標識が付いている蕪木門が見えてくる。
  


【箱根八里記念碑(峠の地蔵)】 10:57
 門をくぐって進むと、右側に2002年には無かった箱根八里記念碑(峠の地蔵)が並んでいる所に出る。


右側から撮影

左側から撮影
【箱根八里記念碑(峠の地蔵)】 東海道ルネッサンス
 その昔、東海道を旅する目安になったのが一里塚でした。時は移り、現代、箱根旧街道を散策する人々にとって旅のひとときの憩いになればと、1985年に(社)三島青年会議所の働きかけで設置されたのが「箱根八里記念碑」です。
 そして2003年、国土交通省静岡国道事務所・三島市・函南町の協力により、新たに8人の女性による揮毫を得て、ここに新石碑が誕生しました。地球に見立てられ盛り上げた地表にさまざまな様相さまざまな方向を見つめて立っている地蔵たち。
 これらの地蔵は未来への道標となろう言葉を抱えていて、まさに現代の一里塚といえるものです。

前列左側:宮城まり子「私は彼等と共に泣き また共に笑った 彼等は、ただ私と共にあり、私はただ彼等と共にあった。
前列右側:桜井よしこ「花は色なり 人は心なり 勇気なり」
後列左端:橋本聖子「細心大胆」
同二番目:杉本苑子「箱根路を 我が越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に浪の寄る見ゆ 源実朝 詠」
同三番目:橋田須賀子「おしん 辛抱」
同四番目:黒柳徹子「花見る人は皆きれい」
同五番目:穐吉敏子「道は段々 険しく」
後列右端:向井千秋「夢に向かってもう一歩」
     2003年(平成15年)3月27日設置 社団法人三島青年会議所

【箱根旧街道 茨ヶ平(ばらがだいら) 11:07
 歩道が終わって国道に出る所に綺麗なトイレがある。この先暫くトイレは無いので、済ませておくことを勧める。
 すぐ国道から離れて右の道を下って行く。国道は左カーブして行くが、ここから国道脇に「峠の茶屋」が見える(営業しているかは不明)。
 程なく左へ下る細い竹薮の旧道が現れる
(下の写真)
 旧道入口左側に茨ヶ平の説明板、その隣に木の道標が立ち、右側に石の道標が建っている。
 木の道標には、右へ『三島宿 11Km』、左へ『箱根関所跡 3Km』。石の道標の右面には『是より江戸 二十五里』、左面には『是より京都 百里』と刻まれていた。



【箱根旧街道・茨ヶ平】
 慶長九年(1604)江戸幕府は江戸を中心として、日本各地へ通じる五街道を整備した。中でも江戸と京都・大阪を結ぶ東海道は一番の主要街道であった。
 この東海道のうち最大の難所は、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高八四五mの箱根峠を越える箱根八里(約三二Km)の区間であり、箱根旧街道とよばれる。
 ローム層の土で大変滑りやすい道なので、最初は箱根竹の束を敷いたが延宝八年(1680)に、幅二間(約三・六m)の石畳に改修された。

 その他街道整備として風雪をしのぐための並木敷や、道のりを一里ごとに示す一里塚がつくられた。
 参勤交代や伊勢参りなど、江戸時代の旅が一般的になるとともに賑わった旧街道も、明治二十二年(1889)東海道線の開通や、大正十二年(1923)国道一号線の敷設によって衰退した。
 このあたりは、い茨が生い茂っているので付近の草原を茨ケ平という。

     平成十一年三月 三島市教育委員会

【兜石標柱】 11:09
 上の写真の細道に入って直ぐの広場に東屋と『箱根・西坂ゾーン』の案内図が、東屋の前には兜石の標柱が立っている。
  
 
 兜石の標柱は、
静岡県に入ったここから設置されている『夢舞台・東海道』と題する標柱(道標)で、この先何回も県内の要所で出会う。ハイカーには大変ありがたい道標である。
 標柱の真中には名所銘が、左右に付いている板は矢印付の道標で前後の宿境までの里程が表示されている。
 ここの標柱には『箱根関所(箱根関所まで二十七町) ← 函南町 兜石 → 三島宿(宿境まで二里二十七町)
』と記されている。
 但し、「兜石」は、ここから下った先にあるので、この場所をいくら探しても見つからない。
  


   


【北斗欄干】 (左奥) 11:10
 兜石の標柱の左の道(二つ上の写真参照)を奥に入って行くと突当りに箱根八里記念碑の一つである北斗欄干が建っている。

【北斗欄干】 
 作家 井上靖氏
 1907年、北海道旭川市に生れる。
 中学時代を三島、沼津で送る。
 1950年、「闘牛」により第22回芥川賞を受賞。
 「氷壁」「しろばんば」「青き狼」「敦煌」などの数多くの作品を執筆する。
 1991年、死去。
     社団法人 三島青年会議所
     1985年 歴史・史跡特別委員会 設置
     2003年 まちづくり委員会 修復

【箱根八里記念碑】
 この箱根八里記念碑は井上靖先生はじめ八人の現代一流の文化人の方々の御揮毫を頂き街道の要所に在って、かつての大街道としての役割から散策の道としての箱根八里復活の礎となることを期待し作られたものです。
     三島青年会議所
 「北斗闌干」とは、北極星が夜空にさんぜんと輝くさまです。作家 井上靖 


<昼食> 11:12~11:25
 東屋に戻って、駅で買った弁当を食べる。


【笹竹のトンネル】 
 東屋のある広場を出てすぐ背が高い笹竹がトンネル状態に生えている下り道を進む。竹林を通り抜けた後も長い下り坂が続く。
 ぬかるんでいる所もあったが、歩いていて楽しいところである。
 この下り坂を甲石(かぶといし)と呼ぶ。

  


【兜石跡】 (左側) 11:33
 笹竹のトンネルを抜けて、右が少し広くなった場所の左側に
兜石跡の碑が建っている。
 碑には『函南町 町指定史跡兜石跡 祝明治百年 昭和四十三年十月二十三日建之』と刻まれている。

   
 左上の写真は、三島側から箱根峠方向に向けて写したもの。


【山中新田の一里塚】 
 やがて、左へ大きくヘアピンカーブしている国道に出る。
 本来の旧道は、ヘアピンカーブを串刺しする様に真直ぐ進む道であるが、国道を横断することが出来ない。
 仕方が無いので左カーブしている国道を歩くと「接待茶屋バス停」があり、直ぐ右に入る旧道が現れる
(下の写真が旧道入口)
 旧道入口の左側に26番目の山中新田の一里塚碑と説明板が立っていたはずだが、2002年の時は見たのに、今回見逃してしまった。


【接待茶屋】 11:46
 旧道の入口には、歩いて来た方向に『箱根峠(箱根旧街道迂回路)』、右折する方向に『山中城跡・三島』と書かれた道標が立っている。
  

 上の写真で、右側の道標の後ろに接待茶屋の説明板が立ち、その向い(左側)に接待茶屋跡標柱石柱が建っている。
 『夢舞台・東海道』の標柱には『
箱根関所(箱根関所まで三十三町) ← 函南町 接待茶屋 → 三島宿(宿境まで二里二十一町)』と書かれているので、東屋広場の兜石標柱から六町(655m)歩いて来たことになる。
 石柱には『史跡 箱根旧街道』と刻まれている。

【接待茶屋】 
 箱根山中における接待の歴史は古いが、創始は江戸時代中期の箱根山金剛院別当が、箱根山を往来する者の苦難を救うため、人や馬に粥や飼葉、焚き火を無料で施したと伝えられている。この接待所も一時途絶え、ついで文政七年(1824)、江戸の豪商加瀬屋与兵衛が再興したが、これも明治維新とともに中断してしまった。
 やがて明治十二年(1879)、八石性理教会によって接待茶屋は再スタートしたが、教会の衰退とともに鈴木家に引き継がれ、利喜三郎・とめ、力之助、万太郎・ときらの三代により接待が続けられた。鈴木家は、昭和四十五年(1970)に茶釜を降ろし、接待茶屋の歴史に終止符を打つまでの約九十年間、箱根を往来する人馬の救済にあたったのである。
 箱根の接待茶屋については「山中接待所」や「茶屋」などさまざまな呼称がある。「廣為道友鋳此器永充施行平憩之用」の銘がある著名な茶釜や、「せったい處」「せったい茶屋」の看板とともに、施行奉仕の跡をしのぶ遺跡として本遺跡は貴重である。
 出典 接待茶屋遺跡発掘調査報告書(1996年)序文より
     平成十七年十二月 三島市教育委員会

【徳川有徳(ゆうとく)公遺跡碑】 (左側) 11:48
 接待茶屋の直ぐ先、左側に大きな徳川有徳公遺跡碑が建っている。
 説明文等は無いが、有徳公とは、八代将軍吉宗のこと。

三島市のHPによると
 
吉宗が紀州公から将軍になるために江戸へ向かう途中、石割坂にあった茶店で休憩をしている間に、店の主人が馬の世話をよくしたので 大層喜び、自ら永楽銭を与えたといいう。
 以後、代々の紀州公は、参勤交代の際にはこの茶店で休み、永楽銭で支払うようになったと伝えられている。またその頃から、この茶店を 「永楽茶屋」と呼ぶようになった。
 これを記念して、この地の観光開発に尽くした鈴木源内が昭和十年に建てたのが「徳川有徳公遺蹟碑」 。


 ちなみに、徳川将軍の院号を列記すると、
 
 家康:安国院(あんこくいん)
  秀忠:台徳院(だいとくいん)
  家光:大猷院(たいゆういん)
  家綱:厳有院(げんゆういん)
  綱吉:常憲院(じょうけんいん)
  家宣:文昭院(ぶんしょういん)
  家継:有章院(ゆうしょういん)
  吉宗:有徳院(ゆうとくいん)
  家重:惇信院(じゅんしんいん)
  家治:浚明院(しゅんめいいん)
  家斉:文恭院(ぶんきょういん)
  家慶:慎徳院(しんとくいん)
  家定:温恭院(おんきょういん)
  家茂:昭徳院(しょうとくいん)

だが、最後の将軍である慶喜には戒名が無い。


【兜石】 (右側) 11:49
 徳川有徳公遺跡碑の直ぐ先に兜石がある。

【かぶと石】 
 この石は兜を伏せたような形をしていることからかぶと石いわれている。また、別の説として傍の碑銘によれば豊臣秀吉が小田原征服のとき休息した際、兜をこの石の上に置いたことからかぶと石とよばれるようになったともいわれている。

 この石は兜石坂にあったものを昭和初め国道一号線の拡幅工事のときにこの地に移したものである。

     平成九年十月 三島市教育委員会

 兜石の右後ろに建つ古い碑石には、カタカナの一部に不鮮明な所があり正確ではないかもしれないが、次の様に刻まれていた。
兜石
傳ヘ云フ天正ノ昔豊太閤小田原征伐ノ途次路傍ノ小石ニ腰掛ケ兜ヲ脱テ大石ノ上ニ置キ暫ク憩ヒシコトアリト後人因テ之ヲ兜石ト名ツタ此石即チ是ナリ石ハ奮ト接待茶屋ノ上方奮街道ノ側ニアリ大正十二年新道通スルニ及ヒ空シク
荊刺中ニ埋レ復ク英雄ノ遺蹟ヲ省ルモノナシ是ニ於テ今茲昭和六年秋新ニ此處ノ移セリ因テ其由ヲ敘ヘ石ニ刻ス
     鈴木源力読


【明治天皇御小休趾】 (左側) 11:52
 兜石から少し下った左奥に明治天皇御小休趾と刻まれた石碑が建っている。
 石碑の左前の標石には『函南町 町指定史跡 祝明治百年 昭和四十三年十月二十三日 箱根山殖産林組合』と刻まれていた。
    


【ふれあいの森碑】 (右側) 11:56
 更に下った先に、『三島市制三十周年記念植樹』と共に『ふれあいの森』と刻まれて苔むした石碑が建っている。

  


【田原坂】 
 下っているこの辺りの坂を石原坂と言い、石畳が良く残っている。
   


【念仏石】 (右側) 12:02
 右上の写真に写っている『この先 記念碑有り』の案内板の直ぐ先に念仏石がある。

【念仏石】
 ここに突き出ている大きな石を、土地の人は念仏石と呼ぶ。この念仏石の前に「南無阿弥陀仏・宗閑寺」と刻んだ碑があるが、旅の行き倒れを宗閑寺で供養して、碑を建てたものと思われる。
     平成九年十月 三島市教育委員会


【大枯木坂】 
 念仏石の先は、大木枯坂になる。
 途中(念仏石から5~6分)、左手が開けた所に簡易トイレがある。
 その先、少し上って、もう一度下ると民家の庭先に出る。
  


 上の写真の突当りを左折すると国道に出るので、横断歩道を渡って右へ進む。
 3分程国道を進むと、左に下りる旧道が現れる。
 ここに道標が立っていて、歩いて来た方向へ『箱根峠』、下りてゆく方向へ『山中城跡・三島宿』と記されている。
 
 


【小枯木坂】 12:19
 
上の写真から小枯木坂になる。
 この旧道に入って、階段を下りた直ぐ右側に箱根旧街道の説明板が立っている。

【箱根旧街道】 願合寺地区の石畳復元・整備

 箱根旧街道は、慶長九年(1604)江戸幕府が整備した五街道の中で、江戸と京都を結ぶ一番の主要街道である東海道のうち、小田原と三島宿を結ぶ、標高八四五mの箱根峠を越える箱根八里(約三ニkm)の区間である。
 この旧街道には、通行の人馬を保護する松や杉の並木が作られ、道のりを正確にするための一里塚が築かれた。またローム層の土で大変滑りやすい道なので、やがてその道に竹が敷かれたが、延宝八年(1680)頃には石畳の道に改修された。

 三島市は貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、この「願合寺地区」七二一mのうち、昭和四十七年に修復整備をしたニ五五mの中間部を除く約四六六mの区間を、可能な限り江戸時代の景観を保って、平成七年度(1995)に復元・整備した。
 
発掘調査の結果、石畳幅二間(約三・六m)を基本とし、道の両側の縁石は比較的大きめの石がほぼ直線的に並ぶように配置され、基礎は作らずローム層の土の上に敷き並べたものであることが確認された。また、寛政年間(1789~1801)に描かれた「五街道分間延絵図」に記載がある「石橋」が二ヶ所発見された。
 調査の結果を基に、管理のための下部基礎を設け、下図のように、石畳がよく残っていた所約一八八mの間は、江戸時代の石を元の位置に戻して復元し、石畳の少なかった所や全くなかった所約ニ七八mの間は、江戸時代の石に加え、神奈川県根府川町で採石した安山岩を補填した。
 また発見された「石橋」のうち、「一本杉石橋」と称される一か所は保存状態がよいのでそのまま残した。
     平成八年二月 三島市教育委員会


  


【山中新田・願合寺地区標柱】 (右側) 12:21
 旧街道説明板の直ぐ先右側に、山中新田の『夢舞台・東海道』標柱が立っている。
 標柱には『三島宿(宿境まで二里八町) ← 三島市 山中新田(願合寺地区石畳) → 函南町(宿境)』と書かれている。
  


【一本杉橋】 12:23
 標柱の直ぐ先に、復元された一本杉橋が見られる。

【箱根旧街道】 埋もれていた一本杉橋
 願合寺地区では「一本杉橋」と「村上石橋」の二ヶ所の石橋が発見されました。
 江戸時代の古絵図によれば箱根旧街道西坂には九ヶ所の石橋があったとされていますが、長い年月の間に地中に埋もれてしまい、その場所はわかりませんでした。しかし平成七年度に行った発掘調査では古絵図どおりの場所から石橋が見つかり、箱根西坂はもちろん、東坂を含めても箱根旧街道では初めての発見となりました。このうち一本杉橋は保存状態が良好のため、その場所に整備・復元しています。
 一本杉橋は長さ約一六〇cm、幅約六〇cm、厚さ約三五cmの板状の石が六枚、旧街道を横切るよう斜め方向に敷き並べられ、板石を頂部としてアーチ状に架けられています。また板石を外し下部の構造を調べたところ、板石は二段に組まれた四〇~五〇cmの間知石(けんちいし)に支えられ、流路にはニ〇~三〇cmの平石がぎっしりと敷き並べられていました。
     平成十一年三月 三島市教育委員会

【雲助徳利の墓】 (右側) 12:32
 
旧街道石畳道も終わり、国道に上がるすぐ手前の右側に盃と徳利を浮き彫りにした雲助徳利の墓がある。
 2002年に来たときには一升瓶を始めとする酒瓶が沢山添えられていたが、この日は、小さなパック入り酒が一つだけだった。

【雲助徳利の墓】 
 この墓は昔から「雲助の墓」と言われています。墓石には盃と徳利が浮き出しており、その下に「久四郎」という名前が彫られています。彼は松谷久四郎と名乗り、一説には西国大名の剣道指南役だったが、大酒飲みのために事件を起こして、国外追放となり、箱根で雲助の仲間に入りました。優れた剣術の腕前があったので、雲助をいじめる武士をこらしめたり、読み書きが出来るので、文字が読めない雲助たちの手紙を読んだり書いたり、相談に乗ったりしているうちに、やがて雲助仲間から親分以上に慕われるようになりました。しかし、普段は酒を飲んでごろごろしていたので命を縮めることになってしまったのです。
 彼を慕い彼に助けられた雲助仲間は、ある日相談して金を出し合い、生前世話になったお礼に、立派な墓をたてて恩返しする事にしました。そして、その墓には彼が一生飲み続けた酒を、盃と徳利で刻む事にしました。これが彼に対する最大の供養と考えたのです。
 「箱根の雲助」は、悪者の代表のように言われています。しかし、もし雲助がいなかったら、箱根の坂を登れない弱い女性や病人はどうしたのでしょう。重い荷物は誰が運んだのでしょう。このほほえましい徳利の墓を見ていると、雲助たちの温かい人情が伝わってくるような気がします。
 なお、この墓の最初の位置は、山中の一里塚あたりでしたが、いつの日かこの地に移ってきました。酒飲みの墓ですので、ふらふらして一箇所に落ち着かないようです。
     平成十年十二月 三島市

【石塔】 (左側) 12:34
 数段の階段を上ると国道に合流し、上ったすぐ左側に、『史跡 箱根旧街道』の石柱、その隣に三界萬霊塔、更にその隣に念仏石が建っている。
  


【茶屋竹屋】 (左側) 12:35
 石塔のすぐ先に茶屋竹屋があり、往時の旅籠・茶屋40軒中、現存しているのはここ一軒のみである。
 2002年に歩いたときは、ここで昼食に「麦とろめし」(当時千円)を食べた。
  


【山中城趾】  (右側) 12:35~12:55
 国道に上った右手には山中城址がある。
 ここの入口には、説明板、『史蹟 山中城址』の石標、神社の鳥居が建ち、石段が続いている。

【史跡山中城址】 国指定史跡
 山中城跡は、文献によると、小田原に本城のあった北条氏が、永禄年間(1558~1570)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。
 
箱根山西麓の標高580mに位置する、自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって、西方防備の拠点としてきわめて重要視されていたが、戦国時代末期の天正十八年(1590)三月、全国統一を目指す豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に一日で落城したと伝えられている。
 三島市は山中城跡の史跡公園化を目指し、昭和四十八年から発掘調査を行い、その学術的成果に基づく環境整備を実施した。その結果、本丸や岱崎出丸(だいさきでまる)をはじめとした各曲輪の様子や架橋、箱井戸、田尻ノ池の配置など、山城の全容がほぼ明らかになった。特に障子堀や畝堀の発見は、水のない空堀の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害するという、北条流築城術の特徴の一端を示すものとして注目されている。
 
出土遺物には槍・短刀をはじめとする武器や鉄砲玉、柱や梁等の建築用材、日常生活用具等がある。なお三ノ丸跡の宗閑寺には、岱崎出丸で戦死した、北条軍の松田康長をはじめ、副将の間宮康俊、豊臣軍の一柳直末など両軍の武将が眠っている。
 
    平成八年二月 三島市教育委員会


【諏訪・駒形神社】
 
 石段を上って行くと正面に諏訪・駒形神社が建っている。

【諏訪・駒形神社由緒】 
 史跡山中城の本丸に守護神として祀られた。建御名方命は、大国主命の御子神で、父神の国譲りに抗議して、追われて信濃の諏訪に着き、これより出ずと御柱を立つ。後、転じて日本第一武神と仰がれる。日本武命は景行天皇の命を奉じ、九州熊襲や東国を征した。
 弟橘姫(おとたちばなひめ)の荒海鎮静の入海は此の時である。山中城の落城(1590)後、人々移住し箱根山の往還の宿場として栄えた。


【駒形諏訪神社の大カシ】

 諏訪神社の左手前には大カシが聳えていて、石標や説明板も立っている。

【駒形諏訪神社の大カシ】 県指定天然記念物
 ここ駒形諏訪神社は、山中城跡本丸曲輪内にある。大カシ(アカガシ)は樹齢約五〇〇~六〇〇年と推定され、本丸への入口部分にそびえており、約四〇〇年前、天正十八年(1590)の山中城合戦時には、既に生育していたものと考えられる。
 根廻り九・六m、高さニ五m、幹は地上四mのところで七本の主枝に分かれている。空洞や損傷もなく樹勢は良好であり、県内一・ニの大木である。

     平成八年十二月 三島市教育委員会


【アカガシ】
 
 神社の左側で、大カシの奥にはアカガシの巨木が聳えている。

【保存木】 
 樹   種 アカガシ
 推定年齢 六五〇年
 ふるさとのみどりを大切にしましょう。
     三島市


【山中城案内図】
 
  

【兵糧(ひょうろう)庫跡】 
 神社の左手に上って行くと休憩所があり、ここの広場は兵糧庫跡

【兵糧庫跡】 
 ここは古くから兵糧庫とか、弾薬庫と伝承されていた場所である。中央を走る幅五〇cm、深さニ〇cmの溝は排水溝のような施設であったと考えられ、この溝が兵糧庫を東西二つの区画に分けていた。西側の区画からは南面する三間(六・七m)、四間(八・七m)の建物の柱穴が確認された。このことから周辺より出土している平たい石を礎石として用い、その上に建物があったものと考えられる。
 東側の区画からは、不整形な穴が数穴検出され、本丸よりの穴からは、硯・坏(つき)・甲冑片・陶器などが出土している。
     平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会


【矢立の杉】 

 天守櫓へ向かう途中に矢立の杉が聳えている。

【矢立の杉】 市指定天然記念物
 山中城跡本丸の天守櫓に接して植生しており、樹高三一・五m、周囲の樹木より一段と高く山中城跡のシンボル的存在である。推定樹齢は五〇〇年前後といわれ、植生地はスギの生育の適地であるため樹勢も良好で、目通り四・三七m、枝張りは西側へ一五m、北東側へ八mも展開し、各枝の葉色もよい。
 「矢立の杉」の呼称の由来については、出陣の際に杉に矢を射立て、勝敗を占ったためと、『豆州志稿』の中の記述にある。
     平成八年十二月 三島市教育委員会


【天守櫓跡】
 
 矢立の杉脇を進むと『天守櫓跡』と『北の丸跡』の道標が立つ分れ道に出る。
 天守櫓方向に進む。

【天守櫓跡】 
 標高五八六m、天守櫓の名にふさわしく、山中城第一の高地に位置している。
 天守は独自の基壇の上に建てられており、この基壇を天守台という。基壇は一辺七・五mのほぼ方形となり、盛土によって五〇~七〇cmの高さに構築され、その四周には、幅の狭い曲輪のような通路が一段低く設けられている。
 天守台には、井楼(せいろう)、高櫓が建てられていたものと推定されるが、櫓の柱穴は植樹により撹乱されていたため、発掘調査では確認できなかった。
 本丸から櫓台への昇降路は基壇より南へ延びる土塁上に、一m位の幅で作られていたものと推定される。
     平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会


【架橋】
 
 本丸天守櫓広場と北の丸の間の空堀に架かる架橋を渡って北の丸へ入る。

【架橋】 
 発掘調査の結果、本丸と北ノ丸を結ぶ架橋の存在が明らかになり、その成果を元に日本大学の故・宮脇泰一教授が復元したのがこの木製の橋である。
 山中城の堀には、土橋が多く構築され、現在も残っているが、重要な曲輪には木製の橋も架けられていた。
 木製の橋は土橋と較べて簡単に破壊できるので、戦いの状況によって破壊して、敵兵が堀を渡れなくすることも可能であり、曲輪の防衛には有利である。
     平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会


【北の丸跡】 
 架橋を渡った奥が北の丸跡

【北ノ丸跡】 
 標高五八三m、天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置し、面積一、九二〇㎡とりっぱな曲輪である。一般に曲輪の重要度は、他の曲輪よりも天守櫓により近く、より高い位置、つまり天守櫓との距離と高さに比例するといわれている。この点からも北の丸の重要さがしのばれる。
 調査の結果、この曲輪は堀を掘った土を尾根の上に盛土して平坦面を作り、本丸側を除く、三方を土塁で囲んでいたことが判明した。
 また、本丸との間には木製の橋を架けて往来していたことが明らかになったので、木製の橋を復元整備した。
     平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会


【北の丸堀】

 北の丸の周囲は、深い北の丸堀に囲われている。

【北の丸堀】 
 山城の生命は堀と土塁にあるといわれる。堀の深さが深く、幅が広いほど曲輪につくられる土塁が高く堅固なものとなる。
 北の丸を囲むこの堀は豪快である。四〇〇年の歳月は堀底を二m以上埋めているので、築城時は現況より更に要害を誇っていたに違いない。
 城の内部に敵が進攻することを防ぐため、この外堀は山中城全域を囲むように掘られ、水のない空堀となっている。
 石垣を用いるとなると、堀の両岸はより急峻なるが、石を用いずこれだけの急な堀を構築した技術は見事である。
     平成九年十一月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会


【本丸堀】 
 北の丸から本丸に戻る間に本丸堀がある。

【本丸堀】 
 山中城の堀の特色のひとつに、畝堀があげられる。この堀の中にわずかに見えるのが畝の頂部である。畝と畝の間隔は一定ではないが、ここでは西下りの地形にあわせて、畝の上部も階段状に西へ下がっている。城の防備上からは、堀の中に水が深く、掘りも深いのが堀として最もよいが、高地では普通空堀である。ここの本丸堀は畝をつくることにより、用水池をも兼ねることができるわけである。
     平成九年十一月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会


【本丸跡】
 
 架橋を渡って戻ってきた広場が本丸跡

【本丸跡】 
 標高五七八m、面積一七四〇㎡、天守櫓と共に山中城の中心となる曲輪である。
 周囲は本丸にふさわしい堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している。この曲輪は盛土によって兵糧庫側から二m前後の段をつくり、二段の平坦面で築かれている。
 虎口(入口)は南側にあり、北は天守閣と北の丸へ、西は北条丸に続く。
 江戸時代の絵図に描かれた本丸広間は上段の平坦面、北条丸寄りに建てられており、現在の藤棚の位置である。
     平成九年十一月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会

 本丸跡にも、山中城跡の説明板があった。
【国指定史跡山中城跡】 昭和九年一月二十日指定

 史跡山中城は、小田原に本拠をおいた後北条氏が、永禄年間(1560年代)に小田原防備のために創築したものである。
 やがて天正十七年(1589)豊臣秀吉の小田原攻めに備え、急ぎ西の丸や出丸等の増築が始まり、翌年三月、豊臣軍に包囲され、約十七倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。この時の北条方の城主松田康長・副将間宮康俊の墓は今も三ノ丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。
 
三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和四十八年度よりすべての曲輪の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造が明らかになった。特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然地形を巧みに取り入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最後の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している
     平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会

【本丸堀と櫓台】 
 本丸跡から本丸西橋を渡ると二の丸(北条丸)跡に入る。
 入ったすぐ右上に復元した櫓台がある。


説明板と櫓台
【本丸堀と櫓台】 
 本丸と二ノ丸(北条丸)との間の本丸西橋は、土橋によって南北に二分されている。北側の堀止めの斜面にはV字上の薬研堀が掘られ、その南側に箱堀が掘られていた。堀底や堀壁が二段となっていたので、修築が行われ一部薬研堀が残ったようである。なお、箱堀の堀底からは兜の「しろこ」が出土した。
 土橋の南側は畝によって八区画に分けられ、途中から本丸土塁までは九メートルもあり、深く急峻な堀である。堀の二ノ丸側には、幅三〇~六〇センチの犬走りが作られ、土橋もこの犬走りによって分断されていたので、当時は簡単な架橋施設で通行していたものと思われる。一般的に本丸の虎口(入口)は、このように直線的ではないが特別な施設は認められなかったので、通行の安全上架橋とした。
 説明板左手の、標高五八三メートルの地に二ノ丸櫓台(東西一二メートル、南北一〇メートル)がありそれを復元した。
     平成十ニ年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会


【西の丸跡】 
 二の丸から西の丸を眺望。
  

【二の丸橋】 
 二の丸西の丸間に架かる二の丸橋時間の関係で西の丸までは行かなかった。

【二の丸虎口と架橋】 
 二ノ丸は東西に伸びる尾根を切って構築された曲輪である。尾根の頂部に当る正面の土塁から、南北方向に傾斜しており、北側には堀が掘られ、南側は斜面となって箱井戸の谷に続いている。この斜面を削ったり盛土して、山中城最大の曲輪二ノ丸は作られたのであるが、本丸が狭いのでその機能を分担したものと思われる。二ノ丸への入口は、三ノ丸から箱井戸を越えてこちら側へ渡り、長い道を上ってこの正面の大土塁(高さ四・五m)に突当り、右折して曲輪に入るようになっていた。
 また、二の丸と元西櫓の間の堀には、橋脚台が掘り残されており、四隅に橋脚を立てた柱穴が検出された。橋脚の幅は南北四・三m、東西一・七mで、柱の直径はニ〇~三〇cmであった。復元した橋は遺構を保護するため、盛土して本来の位置より高く架けられている。
     平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会


【箱井戸跡】 
 上の写真の橋の所から左折して斜面を下りる。下りた所に箱井戸があった。

【箱井戸跡】 
 
ここは古くから箱井戸と伝承されていた所で、発掘調査の結果、箱井戸と西側の田尻の池一帯は湿地帯であったことが確認された。
 箱井戸と田尻の池の間は、土塁によって分離され、排水溝によってつながれていた。これは湧水量が多く、一段高い箱井戸から田尻の池へ水を落すことにより、水の腐敗や鉄分による変色を防ぐための工夫と考えられる。箱井戸の水を城兵の飲料水とし、田尻の池は、洗い場や馬の飲み水場などとして利用していたのであろう。
 現在、箱井戸には睡蓮が植えられ、花の季節(七~八月頃)には、観光客の目を楽しませている。
     平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会

【宗閑寺】 (右側) 12:56
 箱井戸前に
道標が立っていて、右方向に宗閑寺と示して、曲がるとすぐ右側にある。
 
境内は、三の丸跡である。
 本堂の左手には、北条軍と豊臣軍の
武将の墓が並んでいる。


城主松田右兵衛の墓

一柳伊豆守直末の墓

【宗閑寺と武将の墓】
 東月山普光院宗閑寺(浄土宗)は静岡市の華陽院の末寺。開山は了的上人、開基は間宮豊前守の女、お久の方と伝えられている。
 
ここには山中城落城の際、北条軍、豊臣軍の武将たちの石碑がひっそりと佇んでいる。
 豊前守康俊(普光院殿武月宗閑潔公大居士)兄弟とその一族、城主松田右兵衛太夫(山中院松屋玄竹大居士)、群馬県の箕輪城主多米出羽守平長定らの墓と共に、豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末(大通院殿叟長運大禅定門)の墓碑がうらみを忘れたように並んでいる。
     平成九年十一月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会


【山中城趾記念之碑】
 本堂の前を国道に出て行くと、宗閑寺入口に山中城趾記念之碑が建っている。

【山中城址記】 
 山中城係北條氏康創築葢為西方防禦也天正十七年氏政修築之與韮山城兵為小田原城前衛東西約三町北方之森為本丸西方之小丘為二之丸現宗閑寺境内及附近為三之丸城主松田直長與援将北條氏勝以四千餘人守之又南方隔四丁構岱崎出丸間宮康俊以手兵百餘人守之翌年即距今三百四十年三月二十九日豊臣秀吉攻之右翼堀秀政等将二萬人中軍豊臣秀以二萬人左翼徳川家康三萬人而一柳伊豆守直末為中軍先鋒肉薄不避矢砲不孝中流丸而斃弟監物直盛代之奮戦遂略取之城主及武将等悉自刃遁去城址所在属静岡県田方郡錦田村山中新田為史蹟保存建此碑以傳於後世云爾

【芝切地蔵】 (右側) 13:01
 宗閑寺から国道に出ると直ぐ先が二股になっていて、ここを右の旧道に入ると石畳の道になる。
 その途中に芝切地蔵堂が石段の上に建っている。

【芝切地蔵】 
 その昔、山中新田の旅籠に巡礼姿の旅人が泊った折、急に腹痛におそわれ世を去った。この旅人が死ぬ間際に「私を地蔵尊として祭ってください。そして芝塚を積んで、私の故郷の相模が見えるようにして下さい。そうすれば村人の健康を守ってあげますと言い残したという。
 村人は旅人の言ったとおり地蔵尊を祭り、毎年七月十九日を縁日として供養するようになった。それにあわせて「小麦まんじゅう」をつくり、参拝に来た親戚の者を接待したが、その味が大そうよかったので有名になり、一般の参拝社に売られるようになった。
 
この祭りには江戸時代、沼津方面からも大勢の参拝者が集まり、さい銭とよく売れた「小麦まんじゅう」の利益とで、一年間の山中部落の費用がまかなえたといわれている。
     平成七年十二月 三島市教育委員会

【旧箱根街道・腰巻地区】 (左側) 13:04
 芝切地蔵の直ぐ先で国道を横断すると再び旧街道の石畳が続く。国道を渡って直ぐ左側に、山中新田(山中城跡)の『夢舞台・東海道』標柱が立っている。
 標柱には『三島宿(宿境まで一里三十五町) ← 三島市 山中新田(山中城跡) → 函南町(宿境まで九町)』と書かれている。
 標柱の所から左に上る階段があり、この上も山中城の曲輪が幾つかあるが、こちらも行かなかった。

 階段の下の石畳道に旧箱根街道・腰巻地区の説明板が立っている。

【旧箱根街道】 腰巻地区の石畳復元・整備
 箱根旧街道は、慶長九年(1604)江戸幕府が整備した五街道の中で、江戸と京都を結ぶ一番の主要街道である東海道のうち、小田原と三島宿を結ぶ、標高八四五mの箱根峠を越える箱根八里(約三ニkm)の区間である。
 この旧街道には、通行の人馬を保護する松や杉の並木が作られ、道のりを正確にするための一里塚が築かれた。またローム層の土で大変滑りやすい道なので、やがてその道に竹が敷かれたが、延宝八年(1680)頃には石畳の道に改修された。

 三島市は貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、この「腰巻地区」約三五〇mの区間を、可能な限り江戸時代の景観を保って、平成六年度(1994)に復元・整備した。
 発掘調査の結果、石畳幅二間(約三・六m)を基本とし、道の両側の縁石は比較的大きめの石がほぼ直線的に並ぶように配置され、基礎は作らずローム層の土の上に敷き並べたもので石材はこの付近で採石したものと思われる。扁平に剥離する安山岩を用いていた。
 
調査の結果を基に、管理のための下部基礎を設け、下図のように、石畳がよく残っていた所約六〇mの間は、江戸時代の石を元の位置に戻して復元し、石畳の少なかった所や全くなかった所約ニ九〇mの間は、江戸時代の石に加え、神奈川県根府川町で採石した安山岩を補填した。
 また排水路として、ここより上方の願合寺地区石畳に出ているものと同様の「斜め排水路」を二ヵ所作った。

     平成十一年三月 三島市教育委員会


【箱根八里記念碑】 (右側) 13:06
 石畳を少し下って、右下へ階段がある右角に箱根八里記念碑(司馬遼太郎)が建っている
(下の写真は、三島側から写した)

 「幾奥の足音が 坂に積もり 吐く息が 谷を埋める わが箱根にこそ」 司馬遼太郎

【箱根八里記念碑】 
 作家 司馬遼太郎氏
 1923年、大阪市に生れる。
 1960年、「梟の城」で第42回直木賞受賞。1966年、「竜馬がゆく」「国盗り物語」で菊池寛賞受賞。1972年、「世に棲む日日」を中心にした作家活動で吉川栄治文学賞を受賞。1993年、文化勲章受賞。1996年、死去。
     社団法人 三島青年会議所
     1985年 歴史・史跡特別委員会 設置
     2003年 まちづくり委員会 修復

 13:17
 一旦国道に合流して、「山中城口」信号を渡ると旧道が真直ぐ続くのだが、2016年の今回、この先の箱根旧街道2箇所が工事中のため通行止めになっていた。
 2002年の時は、右手に綺麗な富士山を眺めながら歩いたものだった。
 仕方がないので、大きく左回りの国道1号線を歩く。
  


 あとで調べたところ、旧街道2区間前後の国道一号線に事故が多い為、走行環境の改善を図る目的で「笹原山中バイパス」の工事をしている最中で、笹原工区は平成31年度(2019年)の開通予定との事。


【富士見平・芭蕉句碑】 (右側) 13:24
 国道から見ると右から左へと旧道が縦断している、「富士見平ドライブイン」がある広場に出る。

 ドライブインまで旧道を歩くと4分だが、国道を迂回して7分掛かった。
 この広場の右側に大きな芭蕉句碑が建っている。

 「霧しぐれ 冨士を見ぬ日そ 面白き 芭蕉」


 貞享元年(1684)旧暦8月、『野ざらし紀行』で箱根越えをした時に詠んだ句。
 芭蕉が歩いた時は、霧時雨で富士山が見えなかったようだ。


 また、句碑の後ろには、山中新田の『夢舞台・東海道』標柱が立っている。
 標柱には『三島(宿境まで一里ニ十七町) ← 三島市 山中新田(富士見平) → 函南町(宿境まで十七町)』と書かれている。

 この地点からの旧道も工事中で、歩行者通行禁止となっていた。
 しかたがないので、国道を今度は大きく右回りに迂回する。
 句碑から少し下った場所からの富士山は綺麗だった。
  


【笹原新田】 (左側) 13:54
 2002年の時は、富士見平から階段を下りて上長坂の石畳道を下り、再び国道に合流するまで5分程度だったが、今回、国道を右に迂回して17分も掛かってしまった。
 快適な旧道を歩くのと違って、アスファルト道を迂回するのは、悔しさも相まって疲れが倍増した。

 疲れたので、次の旧道にはいる手前、国道右手のドライブインで休憩(約10分)。ここには日本最長の大吊橋(三島スカイウォーク)がある。
  


 ドライブイン向いの旧道から続いている歩道に戻った所に、笹原新田の『夢舞台・東海道』標柱が立っている。
 標柱には『函南町(宿境まで二十一町) ← 三島市 笹原新田(笹原地区石田) → 三島宿(宿境まで一里二十三町)』と書かれている。
  

 ここから、左方向の旧道(石畳)に入って行く。
 下の写真で、右側が国道、真直ぐ進むと駐車場、その手前の石畳を左に入って行くのが旧街道。写真を写している右手にドライブインがある。
  


【馬頭観音】 (右側) 13:55
 旧街道の石畳道に入って直ぐ右側に馬頭観音等が4基祀られている祠が建っている。
  


【笹原一里塚】 (左上) 14:00
 
笹原新田の集落に入り、国道を横切る少し手前に笹原一里塚が石垣の上にある。
 まず、街道上に石板の道標が置かれて、『箱根関所跡 ←9km 笹原一里塚 6km→ 三島宿』と刻まれていた。
  


 上記道標の上、一段上った所に昔ながらの一里塚が残っていて、傍らには『箱根旧街道笹原一里塚 三島市』と刻まれた標柱が立っている。
   

 また、塚の傍には、箱根八里記念碑(大岡信)も建っている

 「森の谺(こだま)を背に 此の径(みち)をゆく 次なる道に 出会うため」

【箱根八里記念碑】 
 詩人 大岡信氏
 1931年、三島市に生れる。
 東大国文科在学中に「現代文学」、卒業後「櫂」に参加し、「シュルレアリスム研究会」「鰐」を結成。
 詩と批評を中心とした多様な精神活動を行っている。「蕩児の家系」「紀貫之」「春少女に」「折々のうた」などの多くの著書がある。
     社団法人 三島青年会議所
     1985年 歴史・史跡特別委員会 設置
     2003年 まちづくり委員会 修復


 この先、国道との交差点右角に擦れて良く読めない石碑が立ち、その右手に笹原新田(笹原一里塚)の『夢舞台・東海道』標柱が立っている。
 標柱には『三島宿(宿境まで一里十八町) ← 三島市 笹原新田(笹原一里塚) → 函南町(宿境まで二十六町)』と書かれている。

  


【下長坂(別名:こわめし坂)】 14:06~14:19
 上記国道を横断して、更に旧道を進む。
 その入口右側に道標が立ち、左『こわめし坂・三島宿』、左『笹原一里塚・箱根峠」と示されている。また、旧箱根街道の説明板も立っている。
 旧道に入ってすぐ右側に道祖神と馬頭観音を祀る祠が建っている。
  

 この先、箱根西坂で一番の難所と言われたアスファルトの急坂、こわめし坂が待ち受けている。
 2002年の時もこの急坂で足が痛くなったが、2016年の今回はふくらはぎに突然激痛が走り、地獄の苦しみだった。
 少しでも楽な後ろ向きで歩いたり等してかなり時間を要した。
 2002年の時、途中どの辺りにあったか忘れたが途中に念仏石の説明板が立っていた。

【こわめし坂「念仏石」】 
 この坂は箱根旧街道西坂第一の難所でこわめし坂と言い、昔この辺りの斜面の一角に、「念仏石」と呼ばれる横九〇cm、縦一二〇cmほどの大石があったということです。
 この石は昭和二十年代頃の大雨のとき、斜面が崩れ埋められてしまったと言われています。
 平成八年二月に発掘を行いましたが、この発掘では念仏石らしきものは発見されませんでした。

     平成八年六月 笹原区 坂郷土研究会

 やっとの思いで急坂も終わり旧一号線に出た所で旧箱根街道(こわめし坂)の説明板三つ屋新田『夢舞台・東海道』標柱が立っていた。

 標柱には『三島宿(宿境まで一里十三町) ← 三島市 三ツ屋新田(こわめし坂) → 函南町(宿境まで三十一町)』と書かれている。
【箱根旧街道】 
 慶長九年(1604)江戸幕府は江戸を中心として、日本各地へ通じる五街道を整備した。中でも江戸と京都を・大坂を結ぶ東海道は一番の主要街道であった。この東海道のうち最大の難所は、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高八四五mの箱根峠を越える箱根八里(約三ニkm)の区間であり、箱根旧街道とよばれる。
 
現在、この区間の車道の最大勾配(傾斜)は一二%だが、この道は平均ニ〇%、最大四〇%なので大変な急坂であったことがわかる。
 ローム層の土で大変滑りやすい道なので、延宝八年(1680)頃には、宿内を除くほぼ全線が幅二間(約三・六m)の石畳に改修された。その他街道整備として風雪をしのぐための並木敷や、道のりを正確にするための一里塚がつくられた。
 参勤交代や伊勢参りなど、旅が恒常化するとともに賑わった旧街道も、明治二二年(1889)、東海道線の開通や、大正十二年(1923)、国道一号線の敷設によって衰退した。
 ここ下長坂は別名「こわめし坂」ともいう。急勾配で、背に負った米も人の汗や蒸気で蒸されて、ついに強飯(こわめし)のようになるからだという。

     平成九年十月 三島市教育委員会


 道祖神からこの説明板の所まで、普通なら8分程度で下りてくる所を、今回は13分掛かった。


【三ツ谷新田 
 旧国道に合流した直ぐ先の右側に山神社があり、三ツ谷新田の集落に入って行く。
 2002年に訪れた時、神社の入口辺りに三ツ谷新田発祥の地の説明板が立っていた。

【三ツ谷新田発祥の地】
 元和年間(1615~1624)現在地附近に三軒の茶屋がありその後この附近を元茶屋(もとじや)と呼ばれていました。三つの茶屋のある所より「三ッ屋」と呼ばれ元和四年徳川家康より街道奉行に任命された大久保長安が箱根西坂五ヶ新田成立時に「三ッ谷新田」と転化したものでこの附近は三ッ谷新田部落の発祥の地と思われます。
     坂郷土研究会


【松雲寺】 (左側) 14:25
 少し先右側に松雲寺がある。

【當山縁起】
 当山は、尾張・紀伊両大納言をはじめ、東海道を往還する参勤交代の大名たちの休息所となり、朝鮮通信使や徳川14代家茂公・15代慶喜公などの「寺本陣」ともなった。
 明治天皇は、「三ツ谷新田御小休所」
として、度々御成りになられた。
 また、坂小学校の前身である「三ツ谷学校」は(明治6年から同43年まで)当山が寺子屋教師として用いられた。
 現在は、立正安国・お題目結縁運動を推進し、妙法広布の布教活動に励みつつ、寺域内外の整備に努めている。


 本堂の右側に玉澤日桓上人の題目宝塔が建っている。

 玉澤四十一世日桓上人の題目宝塔は富士山周辺景勝の地に二十八基が建立されている。
 日桓上人は俳号を一瓢と称し花押に寿の字を冨士の形で囲んだものを用いていた。

  みくににも くらぶるもののなき冨士を
    たへのみのりの やまとこそすれ


 本堂の右手前には、明治天皇が腰を下ろして富士山を眺めたという腰掛石がある。

【明治天皇 御腰掛石】 
 陛下は この石に御庫仕掛け腰掛けになられ 冨士の霊峰を眺められたと 伝えられている。

  小車の をすきまをあけて みつるかな
       朝日輝く ふしの白雪   (御製)


 本堂の右後ろからは富士山が綺麗に見えた。
  


【法善寺旧址】 (右側) 14:41
 松雲寺を出て暫く行くと右手が開けてきて、富士山と遠くに冨士市が見えてくる。
 「三ツ谷下バス停」を過ぎ、旧国道が左カーブして行く所で右へ下りてゆく細道があるので、そちらに進む。
 ここから「市山新田」に入り、旧国道と旧道に挟まれた三角地は「坂小学校」
(下の写真で真中の高い木が聳えている所)
  


 この旧道は「あじさいロード」と称されている。
 下った直ぐ右側の草地に史跡 法善寺旧址と刻まれた大きな石碑が建っている。

【寺誌】 
 去る 三百有余年前 元禄十七年(徳川綱吉の時代)久遠実成本師釈迦牟尼仏を本尊とし 高祖日蓮大菩薩を大導師に仰ぎ開山 境妙院日宗聖人(玉沢本山妙法華時 京都大本山妙顕寺兼帯)に依り創建される
 現 坂小学校の校庭と坂公民館が其の跡地なり 幾多歴史の変遷の中現在の市山新田ニ〇六番地に移転した。
     当山第三十二代真光日宗
     平成五年一月吉祥日  

【七面堂旧址】 (左側) 14:43
 更に、旧道は直ぐ先の「坂幼稚園」の手前を右に下りて行く。
 下り口に道標が立ち、来た方向に『箱根峠』、下りて行く方向に『題目坂・三島宿』と示されている。

  

 下りて直ぐ左に七面堂旧址の石碑が建っている。

 石碑の正面には『征夷大将軍足利尊氏公建立 七面堂旧址』、左面には、東海道中膝栗毛の弥次郎兵衛の狂歌『あしがわの ぶしょうのたてし なにめでて しちめんどうと いうべかりける  小林一九著書と刻まれている。

 七面堂とは、日蓮宗の護神七面大明神を安置する御堂のことである。


 左の写真は、坂の下から写したもの。上左方向が箱根峠。

【題目坂】 14:46
 上記七面堂旧址の右隣に箱根旧街道 題目坂の説明板が立ち、この先の題目坂は細い急階段になっている。

 (前文は今まで記してきた箱根旧街道の文面と同じなので略す)

【箱根旧街道 題目坂】

 (前略)
 ここ題目坂は、玉沢妙法華寺への道程を示す題目石から名付けられたと言われている。
 題目石は、現在法善寺に移されている。

     平成十一年三月 三島市教育委員会


【六地蔵】 (右側) 14:53
 題目坂の階段を下りたら左折し、三叉路の「市の山新田」信号を真直ぐ進む。すぐ右手に山神社がある。
 山神社、法善寺の門前を過ぎた先の右側に赤い屋根の地蔵堂があり、左隣に前後二組の六地蔵が祀られている。
 地蔵堂のお地蔵様は、火事が出ないように村人に代って毎晩見回りをしてくれるため、この辺りでは殆ど火事がなかったと伝えられている。
 六地蔵は、死後に必ず行かなければならない六つの世界「地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上」を表すと云われている。

 2002年に来たときは白い頭巾だけだったが、2016年の今回は赤い頭巾と前掛けに変っていた。
   


【臼転坂(うすころげざか) 14:56
 地蔵堂の直ぐ先に、地図に載っていない右に上る旧道がある。
  
 
 ここは臼転坂の入口で、箱根西坂で最後の石畳道になる。
 右に上ったすぐの所に道標箱根旧街道 臼転坂の説明板が立っている。
 道標には、右『臼転坂・三島宿』と示されている。

【箱根旧街道 臼転坂】
 (前略)
 ここ臼転坂は牛がこの道で転がったとか、臼を転がしたため、この名がついたと言われている。
     平成十一年三月 三島市教育委員会


【馬頭観音】
 (右側) 15:01
 臼転坂の途中に馬頭觀世音と書かれた大きな石碑と小さな石仏が並んでいる。
   


【夢舞台・東海道】 (左側) 15:05
 臼転坂を下り終わって、国道1号線に接する所に塚原新田(臼転坂)の『夢舞台・東海道』標柱が立っている。
 標柱には『三島宿(宿境までニ十八町) ← 三島市 塚原新田(臼転坂) → 函南町(宿境まで一里十五町)』と書かれている。

 足の痛みもピークに達する。


【箱根路碑】 (左側) 15:21
 『夢舞台・東海道』標柱では国道1号線に出ずに真直ぐ塚原新田の集落を進む。
 やがて「三島塚原I.C」信号手前で国道1号線に合流する。
 その合流した左側に西坂側箱根路の大きな自然石に刻まれた碑が置かれている。
 碑の右側面には『箱根路の碑 昭和四十三年八月』と刻まれていた。
 さすがにきつかった箱根路もここで終わり。京側から見ればここが箱根西坂の入口になる。
 東坂入口の碑は丸かったが、西坂は四角だった。

  


【初音ヶ原】 15:27
 「伊豆縦貫道」と立体交差する「三島塚原I.C」信号を渡ると、すぐ右側に初音ヶ原の石畳道が現れる。
 国道1号線の中央分離帯と右側(上り線)には松並木が続き、国道沿いとはいえ、気持ちがいい石畳道である。


2016年撮影(国道と石畳遊歩道)

2002年撮影(箱根峠方向)

【初音ヶ原石畳遊歩道について】
 江戸時代の東海道は、徳川家康により慶長九年(1604)に整備され、道の両側には松や杉の並木が植えられ一里ごとに塚がつくられました。
 しかし箱根路は急坂のため道が荒れ、しかも滑りやすいのでその対策としてやがて石が敷かれたもので、この初音ヶ原付近では現在の国道一号上り線に街道がありました。
 この歩道は、松並木や一里塚など、箱根旧街道の面影を色濃く残すここ初音ヶ原に、石畳遊歩道として整備されたもので、天下の険、箱根八里を徒歩や駕籠で往来した旅人の姿がしのばれます。
     平成二年三月 三島市教育委員会 建設省静岡国道工事事務所


【錦田一里塚】 (国道の 両側) 15:30
 初音ヶ原石畳道に入って程なく、国道を挟んで両側に錦田一里塚がある。
 下の西塚の写真で、塚の右側に説明碑、その隣に道標が置かれている。
 道標には『箱根関所跡 ←13km 錦田一里塚 2km→ 三島宿』と刻まれていた。 


西塚(初音ヶ原石畳側)

東塚(国道下り線側)
【錦田一里塚】 国指定史跡
 
江戸幕府は慶長九年(1604)、東海道をはじめ主要街道に並木を植えるなどして街道を整備した。その一環として一里(約四km)ごとに街道の両側に直径約一〇mの円形の塚を築き、その上に風雨に強いエノキや松を植え、これを一里塚と称した。
 一里塚は大名の参勤交代や旅人の道程の目安、馬や籠の賃金の目安、旅人の憩いの場等、多方面に活用されていた。
 錦田一里塚は江戸日本橋より始まる東海道の二十八里(約一一二km)の地点にあり、松並木の間に道路をはさんで向かい合って一対残っており、旧態を保っていて貴重であるので国指定史跡となっている。
     平成八年二月 三島市教育委員会


 西塚の左側には、箱根八里記念碑(鈴木宗忠)も建っている。

 「日々うらら 歩々道場の 一里塚」

【箱根八里記念碑】
 
 龍澤寺 鈴木宗忠 老師
 1921年、栃木県に生れる。
 1931年、美濃市清泰寺高林寶師に就き得度。1954年、龍澤寺僧堂掛塔。山本玄峰、中川栄渕両老大師に師事し嗣法する。1973年、龍澤寺住職拝命。雲衲接化の一方、イギリス、イタリア、ドイツに巡錫ロンドンに金剛寺建立。1982年、龍澤寺新座禅堂落慶。1990年遷化。
    社団法人 三島青年会議所
     1985年 歴史・史跡特別委員会 設置
     2003年 まちづくり委員会 修復 

【初音が原歩道橋】 15:35
 錦田一里塚の所で初音ヶ原歩道橋を渡って、更に石畳道を進む。
  


【谷田(やた) (左側) 15:50
 松並木と石畳の遊歩道が終わる所に『夢舞台・東海道』の標柱が立っている。
 標柱には『三島宿(宿境まで六町) ← 三島市 谷田(松並木) → 箱根宿(宿境まで三里十九町)
』と書かれている。


【歌碑】 (左側)
 「五本松信号」を渡る手前に歌碑が建っている。

 箱根八里の 馬子吹消えて 今は大根を 造る歌     源水

【リタイヤ】 
 国道一号線の「五本松信号」で足の痛みがピークに達した為、泣く泣く2016年の行程はここで終了とした。

 直ぐ先の「東海病院バス停」よりバスで三島駅迄行き、電車で帰宅。



 2016年12月18日 13回目の旅「五本松信号」で途中棄権(15:50)

 今回の記録:街道のみの距離は、13.0Km(元箱根港バス停~五本松信号)
         日本橋から二十八里ニ町(110.2Km)。
         寄り道を含めた実歩行距離は、16.8Km(元箱根港バス停~「東海病院バス停」)  総計180.0Km
         歩数:28,700歩(2016年)


 2018年4月4日 三島駅までの短い行程を消化し、余った時間で駅周辺を道草する。
 
三島駅から東海バスで「東海病院バス停」に行き、「五本松信号」を10:35スタート。


【愛宕坂】 
 「五本松信号」を渡った正面の塚状に箱根旧街道の案内板が立っているので、それに従って塚を右に廻りこむと、石畳(復元)の下り坂になる。
 ここは三島市街地に入る最後の急坂となる愛宕坂で、少し下った左側に説明板が立っている。
 2018年の桜は平年より一週間以上早く咲き、既にピークも終わり石畳の上には多量の花びらが落ちていた。



【箱根旧街道 愛宕坂】

 箱根旧街道は、一六〇一年から江戸幕府により江戸から京都まで整備された東海道の一部です。両側には松や杉が並木として植えられ通行の人や馬を保護し、また一里塚を築いて旅人の目安としていたようです。
 この旧街道は急な坂道なので、人も馬もすべって大変なとこでした。そこで幕府は、一六八〇年にそれまでの竹を敷いてあったものから、石を敷き詰めて「石畳の道」に改修した ものです。その石畳道を一七六九年に修理した記録によると、「愛宕坂では、長さ一四〇m、幅三.六mを修理した」とあり、当時の道幅がわかります。

 現在、この道は石畳風に整備されている所と、その下には往時(昔)の石畳が埋まっている所とがあります。
 ここでは、両側の松並木敷のうち、南側の並木敷だけを復原したもので、この先の初音原の松並木に続いています。
 江戸時代には、現在の東海病院の敷地には愛宕社ほかの社寺がありましたが、現在は、「愛宕山」と刻んだ碑だけが頭上のこんもりした小山に残っています。

     平成五年五月 三島市教育委員会


【川原ヶ谷(かわはらがや) (右側) 10:41
 下る途中に東海道本線の「旧東海道踏切」を渡るが、その手前右手に「箱根旧街道図」と『夢舞台・東海道』の標柱が立っている。
 標柱には『三島宿(宿境まで四町) ← 三島市 川原ヶ谷(箱根旧街道入口) → 函南町(宿境までニ里八町)』と書かれている。
  
   


【鞍掛け石】 (左側) 10:52
 踏切を渡って更に下って行く。
 下りきって「愛宕橋」を渡ると県道145号線(バス通り)に合流する。
 左側に「立正佼成会」の大きな看板が立っている次の道を左折すると、左角に鞍掛け石がある。
 かつては右側にもあった様だが、現在は民家が新築された時に撤去されたとものと思われ、左側しか残っていない。

【鞍掛け石】 
 ここ川原ヶ谷宝鏡院への入口の左右に一対ある。
 昔は馬乗り石といい、北にある川原ヶ谷神社に参詣する人がここで馬に乗ったと伝えられる。
     平成九年十月 三島市教育委員会

【宝鏡院(ほうきょういん) (左奥) 10:53
 上記鞍掛け石のすぐ先に宝鏡院がある。


奥に見えるのが山門

本堂
【宝鏡院・史跡】 
 『清和源氏足利尊氏』の三男、『足利二代征夷大将軍義詮(幼名-千寿丸)』宝鏡院を建立す。
 (建長元年己酉年歳)『建長寺開山勅詔大覚禅師』
 法の弟子『建長寺第四世勅詔普覚禅師宝鏡院開祖』となる。
 当時山門は、建長寺裏門を移した名工『甚五郎の作』と言い伝えらる。
 『足利義詮』(貞治六年十一月七日)三十八歳にて没す。
 法名『宝鏡院殿従一位左大臣道灌瑞山大居士』
 『足利尊氏公』第八代の『武将義政公』の弟『政知』は『田方郡北条館』にて『茶々丸』に殺さる。
 (延徳三年四月三日)五十七歳にて没す。
 法名『勝憧殿従三位左武衛九山大居士』、宝鏡院墓地に埋葬す。
 『本尊薬師如来』仏工師運慶の作と言ふ。

此の地三島神霊来る。
一、鞍掛けの石
   東海道入口両側にあり、将軍が参拝の折に下馬し、鞍を置いたる石と言ふ。
一、笠置きの石三島七ツ石
   『源頼朝公』参拝の折り笠を置いたる石と言ふ。


 山門のすぐ後ろに笠置きの石が安置され、『笠置き石・三島七石の一』と書かれている。
  

 本堂の左手から墓地に入り、突当りを右に進むと正面に足利義詮・政知の墓所がある。
  


【新町橋】 11:00
 街道に戻り、大場川に架かる新町橋を渡る。
 右側の欄干に橋の説明文が掲げられ、橋の上から富士山が見える。この日は霞んでうっすらと見えた。



【三島市眺望地点 新町橋】
 新町橋は、この辺りが新町と呼ばれていたことから名付けられた大場川(通称:神川)に架かる橋で、江戸時代には東海道五十三次の三嶋宿の出入口として、多くの旅人がこの橋を渡っていました。
 快晴の日には、ここからすばらしい富士山の姿が見えることで知られていて、浮世絵師の安藤広重もこの辺りからみた雪景色の富士山を「東海道五十三次三島狂歌入り佐野喜版」に描いています。
 また、この橋の西側約600m先には、鎌倉幕府を開いた源頼朝が祈願したことなどで有名な「三嶋大社」があるほか、その三嶋大社東側には、旧暦を代表する暦として市の指定文化財にもなっている「三嶋暦」を製造販売していた河合家があります。
 この河合家の旧家は「三嶋暦師の館」として一般開放されていて、三嶋暦に関する資料がご覧になれます。


 橋を渡ってすぐ右折すると、350m先に三嶋暦師の館があると、案内板が掲げられていたが行かなかった。


【東見附跡】 
 「日の出町バス停」辺りが東見附跡との事だが、現在は何も無い。


【三島宿】 江戸から28里20丁(112km)、京へ97里 人口約4050人


安藤広重の東海道五拾三次之内・三島『朝霧』
 朝霧が出ている寒い早朝、箱根へ向かう旅人と四国へ向かう巡礼者を描いている。鳥居は三島大社。

 馬に乗っている人は飛脚とのこと。

 飛脚にも種類があり、良く知られているのが「継飛脚」。大量の荷物を毎月2日、12日、22日に運んでいたのが「三度飛脚」。これも徐々に荷物が増え、幕末には20度運ぶようになる。定期的に運んでいたので別名「定飛脚」とも云った。また、かぶっている笠は「三度笠」と呼ばれるようになった。

 飛脚は、通常宿場間の2里半(約10Km)を引き継ぎながら昼夜兼行で走っていた。最高は、江戸-京都間約500Kmを2日半(58~60時間)で走った記録がある。

 止まらずに引き継いで走っていたので、現在の駅伝のもとである。

 現在の三嶋大社の大鳥居(2018年撮影)


【妙行寺(みょうぎょうじ) (左側) 11:08
 「日の出町バス停」の先、左側に大きな御法燈が建っている奥が妙行寺
 山門は、明治期の小松宮家別邸の門を移築した由緒あるものとの事。また、本堂の前に大きな中国唐獅子型の狛犬が建っていた。
   


【三嶋大社】 (右側) 11:18~11:38
 「日の出町信号」を過ぎた先、右側に三嶋大社がある
上記【三島宿】の写真参照)
 2018年4月4日に訪れた際は、何かの祭事中らしく境内に屋台が並べられ華やかだった。桜も何とか残っていた。

 大鳥居をくぐって直ぐ右手に置かれているたたり石を2002年には見たが、2018年の時は見逃した。

【たたり石】
 此の石は大社前旧東海道の中央にあり、行き交う人の流れを整理する役目を果たしていた。“たたり”は本来糸のもつれを防ぐ具であり整理を意味する語である。後に往来頻繁になり、これを取り除こうとする度に災いがあったと言われ、“たたり”が“崇り”に置き換えて考えられる様になったと言われている。
 大正三年内務省の道路工事によって掘り出され、神社に於いて此処に据えられた今日では交通安全の霊石としての信仰がある。

 その直ぐ先右側に植えられている「相生松」の囲いの中に安達藤九郎盛長警護の跡の説明板が立っている。

【安達藤九郎盛長警護の跡】 
 治承四年(1180)源頼朝が源家再興を祈願し百日間毎暁蛭島より三嶋大社に日参するに際し従者盛長が此の所で警護したと伝えられている。


 現在は黒松と赤松が一つの根から生えだした縁起の良い『相生松』が植えられている。


 参道右手の池の周りに咲く枝垂桜が綺麗だった。
  

 左手の神池には厳島神社が建っている。

【神池】 
 天長四年(827)神池の水が渇れ天下大旱し神官の訴えにより朝廷は三嶋神殿に於て澪祭(雨乞)を行わしめた 六月十一日から十五日まで大雨降る 時の帝は当社に圭田を寄せ神官に禄金財帛を賜った(類聚国史)
 元暦二年(1185)八月源頼朝は神池に於いて放生会を行い その際糠田郷・長崎郷を三嶋社の料と定めた(吾妻鏡)

【厳島神社】 
祭神 市杵島姫命(天照大神の御子神)
 北條政子が勧請し殊の外信仰したと伝えられる
 当社は家門繁盛・商売繁盛・安産・裁縫等の守護神として広く信仰されている。 


 池の先の総門をくぐった左手に社務所(御朱印を頂く)、右手に宝物館、その後ろに神鹿園がある。
  
(総門)

 続く神門の手前右側に神馬舎が建っている。

【神馬舎】 
 神馬は慶応四年七月十日完成
 旧神馬舎に納められていたが戦後現在の神馬舎が完成し移したものである
 古くから当社の神馬は毎朝神様を乗せて箱根山に登ると言う伝説があり旧神官はお馬様が帰ったと言って朝食にしたと伝えられ子供の成長と健脚を祈る風習がある


 神馬舎の右側には、源頼朝と北條政子が百日の日参をした折に腰掛けて休息したと伝えられる腰掛石がある。
  (説明板の右後ろに見える石が腰掛石)

 神門の先には舞殿が見える。
  (神門)

 神門をくぐると右手に天然記念物の金木犀の老木がある。

【天然記念物 三嶋大社の金木犀】 
   樹高 約十米  目通り周囲 約四米
   枝條 約二百五十平方米
 昭和九年五月一日文部省告示第一八一号により文部大臣から国の天然記念物の指定を受けた
 学名を薄黄木犀という
 九月上旬より中旬にかけ黄金色の花を全枝につけ 再び下旬より十月上旬にかけて満開となる珍しい老木で樹齢凡そ壱千弐百年 幾百星霜旱魃や霖雨に耐え又は風雨に侵されるも樹勢尚旺盛にして 葉の光澤も美しく新緑に輝き誠に神々しい御神木で日本一のキンモクセイである
 開花時には馥郁たる芳香を放ち 風向きによっては一〇粁に及ぶという
【三嶋大社のキンモクセイ】(国指定天然記念物)
 この樹木はウスギモクセイの雄木として、日本有数のもので、大社の神木として大切に保存されている。樹齢は一二〇〇年を数えると伝えられ、訪れる参詣者の目を引いている。
 根回り約三m、 高さ地上約一mのところで二大枝幹に分かれている。枝の展開は円形であり、その先は地面に届くほど垂れている。
 九月上旬から中旬にかけて一度開花し、九月下旬から十月にかけて再び開花する。
 
淡黄色で可憐な花をつけ、甘い芳香を発するが、その香は神社付近はもちろん、遠方にまで及び、時には二里(約八km)先まで届いたと伝られている。

     平成九年十一月 三島市教育委員会


 神門本殿の間に舞殿がある。

【舞殿】 
 古くは祓殿と呼ばれ神楽祈祷を行ったが後には主として舞を奉納したので舞殿と呼ばれるようになった
 現在は舞の他田打ち神事(県無形文化財)・豆撒き神事・鳴弦式神事などの神事の他祈祷等も行う
 慶応二年十二月十八日の再建で昭和五年の伊豆震災の復旧工事まで一部改修を行ったのである 


 舞殿の後ろに
本殿が建っている。
 2018年に行った時は、本殿前の広場にテントを設営中で立入り禁止となっており、正面から参拝できなかった。


2002年撮影

2018年撮影

【三嶋大社本殿・幣殿・拝殿・舞殿・神門・彫刻】 国・市指定建造物
 三嶋大社の創建は明らかでないが、鎌倉時代(1192~1333)初期には関東総鎮守として源頼朝や多くの武将の尊崇を受けた名社である。
 一遍聖絵の社頭と現在のそれとではかなり異なり、焼失記録を見ると、文永五年(1268)と永仁四年(1296)に焼け、また延亨元年(1744)と安政元年(1854)の地震で倒壊している。今の社殿は万延元年(1860)から明治 二年(1869)にかけて再建されたものである。
 本殿は流れ造り(棟より前方の屋根が、後方の屋根よりも長く反っている建築様式)で切妻屋根(木を半ば開いて伏せた様な形の屋根)、棟には千木・鰹木をつけている。
拝殿は入母屋造(上部を切妻屋根とし、下部が四すみに棟をおろしている屋根をもった建築様式)で、前面には三間の向拝をつけ、正面に千鳥破風と軒唐破風がつく。

両殿の間には軒下に納まるように相の間が造られている。
この建築の様式は権現造といわれる。全国的にみて拝殿の大きな神社は数多いが、本殿の大きさは出雲大社とともに国内最大級であり、高さニ三m、 鬼瓦の高さ四mという豪壮なものである。

 彫刻は、伊豆国名工小沢希道、駿河国名工後藤芳治良がそれぞれ門人とともに技を競い合って完成した傑作である。
     
平成十六年三月 三島市教育委員会


【問屋場】 (右側) 11:41
 街道に戻り、「大社町西」信号を渡った次の十字路の右側に「三島中央町郵便局」があり、その右側面に問屋場の説明板が立っている。


自転車の後ろに説明板が立っている
【問屋場】 
 三島の宿は、慶長六年徳川幕府の交通政策として宿駅に定められ、海道有数の大宿として認められたが、この宿場の施設として同年この場所に問屋場(現・市役所中央町別館)が設置された。
 この施設は、幕府の役人をはじめ、海道を通行する公用の貨客を運ぶための人馬の調達を主目的としていた。問屋場には問屋年寄り、御次飛脚、賄人、帳付、馬指人足送迎役などあり、問屋場の北側に人足部屋がおかれ、雲助と呼ばれた篭かき人夫の部屋があった。箱根・小田原に比較して当時交通量が多かったこの三島宿に一か所の問屋場ですべてを賄っていたためここで働く役人や人足は相当数いたといわれ、助郷人馬の動員などと併せ人手不足をかこっていたことが史料で残っている。 
     三島市教育委員会

【上御殿橋】 (左側) 11:43
 次の「田町駅入口」信号左側の蕎麦屋の脇に上御殿橋の小さな欄干が残っている。
 街道を歩いていると分かりにくいが、道路の下には御殿川が流れている。三代将軍家光が宿泊する為に造ったという御殿の東側を流れていた事から「御殿川」と呼ばれるようになったと云う。
  


【圓明寺】 (右奥) 11:49
 次の駅へ続く大通りの信号を右折し、最初の信号を左折すると、少し先左側に圓明寺がある。
 この寺のこの山門は旧樋口本陣の門を移築したもの云う。

【円明寺表門(伝旧樋口本陣門)】 市指定建造物
 この門は、江戸時代に諸大名等が三島宿に宿泊する際に、泊るよう指定されていた宿である旧樋口本陣の表門が円明寺に移築されてきたものと伝えられている。
 門の様式は薬医門で切妻屋根(本を開いて伏せたような形の屋根)、瓦葺となっている。親柱を二本、脇柱を二本立て、その一・八m後方に別の四本の控柱を立て、これと親柱に梁をかけている。この梁で棟から降りてくる真束を受けているが、この真束は親柱と控柱の中間に降りてくるので、親柱と真束がずれている。これは門扉が親柱につくため、扉を内側に開いた時に雨にぬれないようになっている。
 この門を建てるのに用いられた各材は、比較的新しい時期に取り替えが行われているが、柱、桁、梁、扉は古く、昔のものと考えられる。
 また、薬医門の様式は鎌倉時代末期から室町時代初期にできたものといわれており、この様式が江戸時代の本陣の表門として残っていたことは非常に貴重なものであるといえる。
     平成八年十二月 三島市教育委員会


 また、この寺には孝行犬の墓があるらしいが見にいかなかった。
【孝行犬の墓】
 昔、円明寺の本堂の床下に、お母さん犬と五匹の子犬がなかよく住んでいました。
 お寺のお上人は、犬たちをたいそうかわいがり、それぞれに名前をつけてあげました。お母さん犬は多摩
(たま)、子犬たちは、登玖(とく)、都留(つる)、摩都(まつ)、左都(さと)、富寺(ふじ)という名前でした。六匹は番犬として、お寺の門を忠実に守り、お上人を喜ばせました。
 ところが、ある寒い冬の日、子犬の富寺が死んでしまい、それがもとで、お母さん犬まで病気になってしまったのです。
 子犬たちは、お母さん病気を治そうと一生懸命でした。都留と左登は、お母さんのそばを片時も離れず看病をしていました。
 一方、登玖と摩都は、雪の町へ出かけて行き、ある家の窓の下でしきりにはえました。それは何かをうったえるような悲しんでいるような声でしたので、その家の人が食べ物を与えると、食べようともしないで口にくわえて走り去ります。二匹は、お母さん犬に食べさせるえさをもらいに行ったのです。しかし、子犬たちの看病もむなしく、お母さん犬は、半年後の暑い日にとうとう死んでしまいました。
 この様子をやさしく見守っていたお上人は、「犬と人との変りはあっても、親を思う子の気持ちに変りはない」と、子犬たちの孝行ぶりにひどく感心しました。その後、残った四匹もお母さん犬の後をおうように相次いで死んでしまうと、六匹のためにお墓をたて、墓石にはその名前を深く刻み込みました。
 このことが東海道を往来する人々の口伝えによって、「三島円明寺の孝行犬」として広がったのです。


<昼食> 11:53~12:23
 駅前大通に戻って、「すみの坊 本町店」で三島名物のうな丼を食べる。
 近年のうなぎ稚魚高騰で、かなりの出費だったが、美味しかった。


【樋口本陣跡】 (左側) 12:24
 駅前大通と旧東海道の交差点に戻って、左側の「刃物店」と「茶店」の間に樋口本陣跡の説明板が掲げられている。



【東海道三島宿・樋口本陣跡】 
本陣について
 本陣とは江戸時代五街道などの宿場に設けられ、大名、公家、幕府役人等が宿泊した施設で、大名宿とも言いました。
 三島の宿はここに樋口本陣、道をはさんで北側に世古本陣がありました。
 本陣の建物は書院造りで、門構え、玄関、上段の間、控の間などの部屋や湯殿、庭がある広大なものでした。
 三島市郷土資料館には樋口本陣文書(市指定文化財)と宿泊した大名の関札があります。なお三嶋大社には樋口本陣の茶室「不二亭」も移築されています。
三島宿について
 三島は古くから伊豆の中心地として栄え、三嶋明神の門前町として大変な賑わいを見せていました。
 
慶長6年(1601)徳川家康は宿駅制度を作り、最終的には東海道に53の宿駅を設け、三島宿は江戸に本橋から数えて11番目の宿でした。また、三代将軍家光が参勤交代を制定した事により各大名の東海道往来が多くなり、箱根に関所が設けられると三島宿は「天下の険」箱根越えの拠点としてさらに賑わうようになりました。
 また、東西を結ぶ東海道と南北を結ぶ下田街道・甲州道との交差する位置にあった三島宿は、さまざまな地域の文化や産業の交流地点ともなっていました。伝馬、久保、小中島、大中島の4町辺りが宿の中心地で、実際の運営もこの4町が核となり行われていました。
 三島宿は初代安藤広重の浮世絵代表作「東海道五十三次」では、三嶋明神鳥居前を出立したばかりの旅人が描かれています。また文政9年(1826)に訪れたオランダ医師シーボルトが三島・箱根の自然観察記録を、安政4年(1857)には三島宿に泊ったアメリカ人ハリスが、宿泊先(世古本陣)の日本庭園の素晴らしさを日記に書いています。
                                                                                     (『三島アメニティ大百科』より)
 なお江戸時代の三島宿や樋口本陣の復元模型等が三島市郷土資料館(楽寿園内)に展示されています。
     本町・小中島商栄会

【世古本陣跡】 (右側) 12:26
 樋口本陣跡の向いに世古本陣跡の石碑のみが建っている。
  


【四ノ宮川】 (右側) 12:28
 本陣跡の直ぐ先、右側にせせらぎの様な小さな川、四ノ宮川が流れている。

【四ノ宮川】 
 楽寿園小浜池から流れる自然河川。現在、上流部は「源兵衛川の水辺としての散歩道」として川の中を歩く遊歩道が整備された。古代より小浜池の宮島に伊豆四の宮広瀬神社が祀られており、ここを源流とする河川名が付いた。上流部一帯は「広瀬」とも称されていた。本来の河川は広瀬橋の上から東南方向へ流れ、近世東海道を横切り、御殿池(南本町)の西側を南下して中郷耕地を潤していた。しかし、戦国時代末期に寺尾源兵衛らにより、広瀬橋から南へ水路「源兵衛川」が開かれると水流が減少し、近年は暗渠化され本来の流路が解りにくくなっている。

【蓮馨寺(れんけいじ) (右側) 12:32
 街道を進むと程なく「伊豆箱根鉄道駿豆線」の「広小路踏切」に差し掛かり、右には「三島広小路駅」がある。
   

 その「広小路踏切」の手前右側に蓮馨寺がある。入口右側には『聖徳太子堂建設碑』が建っている。
  

 山門をくぐると直ぐ右手に安永七年(1778)の芭蕉老翁墓と寛政十年(1798)の日限地蔵の供養碑が建っている。
 墓の側面の刻印は下記蓮馨寺の説明文を参照。
  

 供養碑の左手には日限地蔵堂が建っている。

【日限地蔵尊(日限のお地蔵さん)の縁起】 
 江戸の昔、一人の旅人が夜更けの箱根路を三島宿に向かって歩みを速めていました。その時突如として強盗が現れ、持っていた刀で旅人に切りつけ旅人は気を失ってしまいます。翌朝ほほに落ちる朝露に目を覚ましますと、傍に首から肩に袈裟がけに切られた石のお地蔵様が横たわっていました。我に帰った旅人は、お地蔵様が自分の身代わりになってくれたと悟り、近くの人々の助けを借りて縁のあった蓮馨寺に運び、お祀りをしたと言われています。その後この話が近隣に伝わり、多くの参詣者でにぎわったと伝えられています。当初は「身代わり地蔵」と言われていたようですが、いつからか「日を限ってお願いすると叶う」と言われ、「日限のお地蔵さん」日限地蔵尊と呼ばれるようになったと伝えられています。残念ながら蓮馨寺の日限地蔵尊の記録は、過去に起きた火災等により全て消失し残っておりません。ただお地蔵様が何処か二ヵ所のお寺に分身されお祀りされていることがわかっていました。 八十年ほど前に、横浜市港南区日限山の福徳院に分身されっていることが、続いて長野県岡谷市の平福寺に分身されている両寺院様からのお問い合わせて判明しました。平福寺には嘉永三年(1850)に、福徳院には慶応三年(1867)に分身が勧請され、以来多くの信仰を集めているとのことです。次の文章は平福寺の平成二十六年十一月の寺報に載っていました一節です。 「日限地蔵尊は日を限って一心に願うと、不思議にも叶うと言い伝えられる願かけのお地蔵様です。江戸時代、下諏訪の市十郎という金物商が伊豆に行商に出掛け、有名であった三島宿蓮馨寺の日限地蔵村の分身を頂戴したことに由来します。」と。福徳院にも同じような由来があるそうです。この時代三体のお地蔵様は、 「三大日限地蔵尊」と称され多くの信仰を集めていたそうです。
 蓮馨寺の長年の願でありましたお地蔵様のお堂が完成致しました。一1人でも多くの皆さまが気楽にお参り出来、 「日限のお地蔵さん」の御尊徳に浴され、健康で心穏やかな日々を得られますよう祈念致します。
 また、お堂の中は「永代供養堂」になっております。永代供養についてのご相談をお受けしております。          合掌
     浄土宗 蓮馨寺


 その先に、太子堂、正面に本堂が建っている。

   

 太子堂前の掲示板に、蓮馨寺の説明が載っている雑誌のコピーが貼られていた。
【蓮馨寺】 
 昔この辺が君沢郡であったことから君沢山と号しました。寺の後方の地を蓮沼と云い、蓮沼があって蓮の花の香る寺という意味から蓮馨寺と名付けられ、浄土宗、三蓮馨寺(川越・岡崎・三島)の一つで昔から伊豆の浄土宗の取締であったとききます。元は華厳宗でしたが真言宗になり、浄土宗に変わったといいます。
 山門入口左側に唯念の雄渾による「南無阿弥陀仏」の碑があります。唯念は日光の円蔵であるとの説もありますが、それは疑問です。
 山門を入るとすぐ右側に芭蕉の墓が建っています。左面には「いざともに麦穂くらはん 草枕 はせお」と、右面には「嵐雪三世六花庵乙児
(いつじ) 門生 陶官鼠建之 旹(とき)安永七年戊戌十月十二日」と刻んであります。
 芭蕉は七回東海道の旅をしているそうですが、当時の住職に翁の弟子がいて寺に立寄ったといいます。一説によればこの句は「野晒紀行」の際の貞享二年(1685)四月初旬、韮山の僧が芭蕉をしたってはるばる尾張の国まで追いかけてめぐり会ったとき詠んだものとされています。「穂麦」は「青ざし」のことで、未だ熟さない青い麦をもぎとり、臼でひてこしらえた食物のことだそうです。
 松尾芭蕉が亡くなったのは元禄七年(1694)十月十二日で、遺体は大津市内の義仲寺に葬りました。芭蕉死後八四年たってなぜ当寺に墓が建てられたかというと、安永時代に、この駿豆地方に雪門の句風が流行しました。「嵐雪」は服部嵐雪のことで、芭蕉門人一〇哲の一人といわれ、其角と共に芭蕉の古参高弟です。その嵐雪が風光の地沼津に六花庵(雪は六角の花のいい)を開き、富士市山身の渋谷六花が二代目を継ぎ、三代目を松本乙児が継いで、その弟子である官鼠(三津出身)が芭蕉の命日に当って供養のため、芭蕉に縁の深いこの寺に墓を建てたものです。


【源兵白旗橋】 (左側) 12:39
 蓮馨寺より少し戻った源兵衛川
(げんべえがわ)源兵白旗橋(げんぺいしらはたばし)が架かっていて、川と橋の説明板が立っている。

 【源兵白旗橋】 
 江戸時代に駿豆五色橋の1つに数えられていました。
 三島市では他に青木橋、赤橋、沼津市には黒瀬橋、黄瀬川橋があります。
【源兵衛川】 
 源兵衛川の源流は楽寿園の小浜池にあります。広瀬橋より下流は、中郷地区の農業用水のために人工的に作られた川で、温水池まで1.5km続いています。川の名称は、この計画を立て、河川工事に深い関わりをもった寺尾源兵衛に由来するといわれています。
 昔は豊富だった水量も、昭和35年(1960)頃から、上流での企業の水の汲み上げなどが原因で激減し、川の汚染もひどくなりました。平成2年(1990)に、この川の流域は農林水産省の「農業水利施設高度利用事業」の一環として、「源兵衛川水環境整備事業」の指定を受けました。14億円の事業費により流域が整備され、水も工場の冷却水を流してもらい、昔のような美しい水辺環境を取り戻しています。また、市民により「源兵衛川を愛する会」が結成され、定期的な河川清掃や、ホタルの幼虫放流などの活動を通して親水化は維持されています。

【時の鐘・三石神社】 (左側) 12:40
 源兵衛川の右側、三石神社の境内に入るとすぐ、川辺に時の鐘が建っている。

【時の鐘】 
 三石神社の境内にあるこの鐘は、「時の鐘」と呼ばれ、江戸時代から町民に親しまれてきました。特に大きな鐘が宝暦11年(1761)に川原ヶ谷の鋳物師沼上氏によって造られ、三石神社境内に設置され、三島八景の一つにも数えられていました。
 三島宿の人たちは、この鐘の音で時を知りました。しかし、第二次世界大戦時にはこの鐘も供出され、現在の鐘は昭和25年(1950)に市民の有志によって造られたものです。
 時の鐘の存在は、当時の三島宿の賑わいを忍ばせるものとして、市民に親しまれています。


 時の鐘の奥に三石神社の社殿が建っている。

【三石神社 御由緒】 (擦れて読みにくい為、冒頭の一部のみ記載する)
 創建の年代は詳らかではないが、源兵衛川の川辺に三ヶ石と称する巨石があって其の上に社殿を建て、稲荷の神を祀り、三石神社と唱えたという。
以下略


 社殿の左手の川の中に古いが渡っている。
 2018年に訪れた時、近寄った写真を撮り忘れたので、2002年の写真と拡大した2018年の写真を載せる。
  
2002年 2018年(時の鐘の後ろ) 



 三石神社の裏に廻って、2002年の写真の樋の奥に写っている道に出て、「雷井戸」や「水の苑緑地」に行こうと計画していたが、2018年の時は裏道が工事中で通行止めの為、踏切まで戻る。

 13回目の街道旅は「広小路踏切」迄とし、残った時間で周辺の名所めぐりをする。


【雷井戸】 (東海道の南側) 12:55~13:00
 「広小路踏切」を渡って、直ぐ左折。
 「三島中央病院」の横を進み、踏切を左折してから3本目の十字路を左折すると「下源兵衛橋」が現れ、右手が水の苑緑地入口
 そのまま直進すると左角に「三島メディカルセンター」、右角に「源兵衛川」の案内板が立つ小公園がある。
 小公園の向いの民家の間に非常に細い道があり、入口の地面に雷井戸のプレートが埋め込まれている。
  

 細道を入って行くと、突き当りに雷井戸の説明板が立っていて、その前を右に廻りこむと、清流が湧き出している大きな雷井戸がある。

【雷井戸】 
 かつて、この井戸は田町水道といわれ、地域住民、約70世帯の人々の飲料水を供給する簡易水道でした。しかし、管理費用と水量及び衛生面から問題が生じ、市水道へ転換せざるを得なくなりました。こんこんと湧き続ける雷井戸の水は、今は生活用水として利用されることはありません。現在では三島ゆうすい会の有志が、井戸の水利権や土地を買い上げ、会員の手によって大切に管理されています。井戸は円形で直径約3m、深さは約1.5mあります。その昔、雷が落ち湧水が湧き出したことから雷井戸と言われるのではないかという説もありますが、井戸にまつわる文献も残っていないため、この説も定かではありません。昭和30年代ごろまでは、この付近に数多くの湧水があり、南本町湧水群と言われていました。豊水期の総水量は、日量3万t余もあり、付近に水神を祀ってありましたが、その後、湧水量は減少し、ついに枯渇したものもあります。

【源兵衛川・水の苑緑地】 (南側) 13:02~13:30
 「下源兵衛橋」に戻り、源兵衛川沿いのせせらぎコースを散策する。
 川沿いには桜の木が多く、この日は満開を過ぎた直後の花吹雪で、流れの一部は花筏状態だった。
 大通りの「一本松バス停」にぶつかった所で、遊歩道はその先にも続いているが、ここから引き返した。
  入口(下源兵衛橋) 

  木道 
桜吹雪 


【伊豆国分寺石柱】 (東海道の北側) 13:35
 「広小路踏切」に戻って、「三島広小路駅」の左側に接する北西への斜めの道を進むと、最初の右(北東)へ曲がる道の角に、大きな石柱が建っていて、正面に『佛舎利菶安之浴窟』(「菶」と「浴」は、フォントに無いのでこの字を選んだが、写真で確認して下さい)、左面に『伊豆国分寺』、右面に『昭和丗一年十月建立』と刻まれている。
  


【伊豆国分寺】 (北側) 13:37
 上記石柱の所で、右折(北への道で、上記写真に写っている北東への道では無い)すると突当りに伊豆国分寺がある。
  

 山門をくぐると直ぐ正面に本堂が建っていて、その本堂の裏手に廻ると伊豆国分寺塔跡があり、八個の礎石と石柱が建っている。
 塔跡の説明文は山門手前の右側に立っている(上の写真に写っている)。

【伊豆国分寺塔跡】 国指定史跡
 国分寺は奈良時代に聖武天皇(在位724~749)の命により、国ごとに建てられた国立寺院である。僧寺と尼寺のニ寺制をとっており、天平一三年(741)ごろから徐々につくられたといわれる。
 伊豆の国分寺は、泉町、広小路北方の一帯に建てられっていたと推定されるが、現在国分寺の本堂裏にある塔跡だけが残っており、国史跡として指定されている。
 塔跡は高さ約六〇cmの土檀の上にあるが、すでに南半分は失われている。現在八個の礎石が二列に置かれているが、西側の二個は移動したものである。残された礎石から、塔は七重の塔で、高さは約六〇mにも及ぶものであったことが推定される。
 昭和三一年の日本大学教授軽部博士の調査で、寺域は東西八〇間、南北一〇〇間の長方形で、建物配置も東大寺伽藍配置であったことがわかっている。
     平成八年二月 三島市教育委員会

【長圓寺】 (北側) 13:51
 伊豆国分寺前の通りを東に、駅大通に向かう。
 伊豆箱根鉄道の踏切、歌舞伎橋、広瀬橋を渡ると、ここにも源兵衛川の遊歩道があった。
 この道は、鎌倉古道の「広瀬通」と呼ばれている。
 やがて駅への大通りに出たら左折し三島駅に向かう。
 曲がって170m程進んだ、駅に向かって左側に長圓寺がある。この寺の山門は世古本陣の門と云われている。
  

 境内に本陣主、世古六大夫の説明板が立っている。
『ふるさと人物シリーズ』【世古 六太夫(せこ ろくだゆう)】 天保九年一月十五日~天正四年十二月三十一日(1838~1915)
三島を危機から救った最後の本陣主
 世古六太夫は川原ケ谷村(三島市川原ケ谷)に栗原嘉右衛門正順を父として天保九年(1838)一月一五日に生を受けました。六太夫は世古家相続後の名前。通称は六之助、緯
(いみな)は直道と称しました。栗原家には甲斐源氏の一族であり甲州山梨郡日川村下栗原に館を持つ城主だったという伝えが残り、この旧家で六之助は少年時代を過ごします。一四歳の時、江戸初期より三島宿本陣を務めていた世古家に入り、本陣業務や副業だった三度飛脚運送業の手伝いに従事し、閑を見つけては四書五経を読み剣道を習って人間に磨きをかけ、一五歳で、世古家の嗣子に決まります。本陣主及び三島宿の問屋役を務めるなどの働き盛りに、人生最大の山場を迎えます。世は幕府崩壊が迫り新政の夜が明けようとする動乱の時。慶応三年。韮山濃兵の世話係を務める六太夫は、箱根関所を破り逃走した薩摩の浪士脇田一郎ほか二名を代官手代と協力して原宿一本松で召し取っています。翌明治元年。幕府を脱した二百余名が沼津・霊山寺に陣取り、脇本陣・柏屋鈴木伊兵衛方に本陣を置き、明神前に陣を張る官軍とが三島宿を挟んで対峙した際には、問屋役人でもあった六太夫は三島明神の矢田部式部らと必死で両者の調停をはかり、戦禍に巻き込まれる寸前で一触即発の危機から三島を救いましたが、結果、六太夫は幕府に通ずる者との嫌疑を受け官軍に捕らえられます。
 明治時代。一転、実業家として、また三島の教育を発展させる立役者としてめざましい活躍をみせます。明治五年に伝馬所跡に設立した私学学校「開心庠舎
(かいしんしょうしゃ)」に、続いて一二年に三島の小学校の前身となる新校舎建設に際し、物心両面に及ぶ尽力を惜しみなかったといいます。また自らは通信運輸事業を展開して三島の郵便局の礎を築きます。
 二八年、三島を引き払った後、沼津・牛臥に旅館「三島館」を建て、大正四年(1915)に没するまで当時の各方面に亘る著名人とも交遊をもって晩年を過ごします。享年七八歳。
 法名「本行院直道日壽居士」
 当長円寺墓地に埋葬されています。
     平成一〇年二月 三島市教育委員会


【白滝公園】 (北側) 13:57~14:04
 長圓寺を出た次の信号の右角に白滝公園がある。
 まず、公園に入らずに信号を右折するとすぐ井戸を汲むからくり人形”めぐみの子”がある。
 2018年の時はまだ動いていなかったが、2002年に訪れた時は、近くに寄ると声を出しながら手押しポンプで富士山の雪解け水をくみ出してくれた。あまり冷たくはなかったが、美味しく頂いた。
  

 更に、右手に進むと「桜川」にせり出す様に白瀧観音堂が建っている。

【白瀧観音堂】 
 このお堂は平安時代末からここ水上の地に在って観世音菩薩がお祀りされている 当時は現在地より北に位置し堂のかたわらに白いしぶきをあげる瀧が落ちていたところから白瀧観音と尊称され白瀧寺という尼寺の本尊であったと伝えられる江戸時代にはこの地に移り清水寺と称したと言われ明治初期に一時荒廃したが市内本町にある常林寺十七世達玄大和尚これを見いだき寺内に奉祀された これを機に当地でも有志がお堂を再建し分祀する様になり現在この縁をもとに毎月十八日常林寺住職が出向し例祭を催している
     講中一同 謹誌


 公園に接して清流桜川が流れている。

 【桜川】 
  普通河川 延長4,150m(市管理)
概要
 菰池や白滝公園を水源とする桜川は、三ケ所用水とも呼ばれ、旧三島宿・錦田村字中・旧中郷村字中島の三ケ所の農業用水となっています。
 桜川は、農業用水としての利用が主であるため、横浜ゴム付近で複雑に分水されていて、それぞれ中、藤代町、森永製菓南の耕地などへ導水されています。流末は、大場橋付近で暗渠になっており、梅名橋付近から御殿川に流れています。
 また、白滝公園付近には”はや”が生息しており、川沿いを歩く人が思わず足を止めて川の中をのぞき込んでいる風景に出くわします。
 白滝公園は昔から『水泉園』と呼ばれ、富士の湧水にふさわしい地名として市民から親しまれています。
     三島市


 公園内に入ると、いたるところに溶岩が露出し、湧水と桜川が一体となっている。



【白滝公園】 
 白滝公園内には大きな欅の木々があり、ここちよい木陰をつくっている。足元には溶岩が露出し、あちこちに富士山の雪解け水が湧き出し、少し離れた菰池(こもいけ)からの湧水と合流し、桜川となっている。

 かつてここは三島の一大湧水地で、楽寿園と一体の溶岩の上にできた森林であり、三島駅への道路によって分断され孤立した水源地となった。湧き出る水量が多く滝のように流れ落ちることから『白滝』と呼ばれたのが名前の由来である。


【楽壽園】 (北側) 14:04~14:19
 白滝公園の向いに楽壽園の正門がある。三島駅を出て右手に行けば直ぐ駅前入園口もある。
開園時間  4月~10月 9時00分~17時00分
        11月~3月 9時00分~16時30分
休園日   毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
        年目年始(12月27日~1月2日)
入園料   300円
見学に要する時間
  日本庭園 20分
  郷土館   15分
  万葉の森 15分
  動物園   20分


 2002年に訪れた時は、三島駅から近い駅前口から入ったが、今回は正門から入り小浜池の周囲を左回りで見学した。
 2002年の時もそうだったが、今回も小浜池には水が無く、残念な景色だった。


小浜池

楽寿館
【楽寿園】 国指定天然記念物・名勝
 六万㎡におよぶ楽寿園は、小浜池を中心とする富士山の基底溶岩流の末端にあるという溶岩地形と、その溶岩中から数か所にわたって地下水が湧出している現象が天然記念物として指定されている。また、それとあわせて特殊な地形・地質に人口を加えて生み出された固有の美観が、名勝として指定されている。
 しかし、昭和二三年(1890)に小松宮彰仁王の別邸がここに築かれ、その後明治四四年李王世殿下の別邸、昭和に入って個人の所有となったが、昭和二七年(1953)三島市立公園「楽寿園」として市民に公開された。
     平成九年十一月 三島市教育委員会

【小浜池】 
◎いつからこのような景色なの

 昭和37年4月6日に水位が0cmを観測しました。
 それ以前は常に満水の状態でしたが、あれから50年になりますが、渇水した状態が1年のうち大半を占めています。
◎なぜ水がないのかな 
 昭和30年代中頃からの高度経済成長により、私たちのまわりの環境がとても変わりました。(人口増加・工場の増加・道路の舗装・河川工事・田んぼの減少・山林伐採など)さまざまな原因が重なり小浜池は現在の姿になりました。
◎いつ来れば湧水が見られるのかな
 例年梅雨時から11月頃まで池に水が湧くことがあります。
 また、富士山の積雪や台風・梅雨時の雨が多いと湧き出ることがあります。
 近年では、平成23年9月21日~平成23年12月5日の間、7年ぶりに満水になりました。
 (150センチを超えると満水とご案内します。また、7~8年に一度満水になるといわれています。)

 楽寿園は約1万年前の富士山噴火の際流出した溶岩(三島溶岩流)の上にできた自然公園です。小浜池の景観や庭園に対して昭和29年3月20日付けで国の天然記念物及び名勝に指定されました。


 ここから、左手に回るとなかの島があり、後ろ側に石橋はあっても対岸に通り抜けは出来なかった。
  

 更に左へ回ると、水鳥が泳いでいて唯一水をたたえている池があったが濁り水だった。
 その先、郷土資料館・万葉の森・動物園・お休み処等があるが寄らなかった。

 小浜池の後ろ側に回ると楽寿館の入口がある。
 この館の見学ツアーは、12:30を除き、9:30~15:30の1時間おきに計6回行っており、所要時間は約30分。
 私は時間が合わなかったので残念ながら見学しなかった。

【楽寿館】 市指定建造物

 この建物は明治二三年(1890)に小松宮彰仁親王の別邸として建てられたものである。
 建築様式は全体的に京風の数寄屋造り(茶室風に造った建物)で、今では数少ない明治時代中期の貴重な建造物である。建築用材も非常に吟味されており、現在では入手困難なものも少なくない。
 
特筆すべきは、応接用の部屋であった『楽寿の間』の装飾絵画である。幕末から明治にかけての一流日本画家の競作が一堂に集められており、県指定文化財となっている。
 三島市では、小松宮彰仁親王の別邸として使用された由緒と、国の名勝天然記念物に指定されている園内の一部との照合を考慮し、この建造物を文化財として指定した。
     平成八年十二月 三島市教育委員会


 正門に向かう途中で、溶岩小洞穴が見られる。
  

 園内には、2002年のとき観賞した立派な赤松”いこいの松”があるが、今回見逃してしまい、大変残念な思いをした。
 2002年に写した写真を載せる。
  


【愛染院(あいぜんいん)跡の溶岩塚】 (北側) 14:20
 正門から駅大通りに出て、駅に向かうと直ぐ右手に交通安全祈願の像の後ろに愛染院跡の溶岩塚がある。



【愛染院跡の溶岩塚】 市指定天然記念物
 三島溶岩は粘性の小さい玄武岩の溶岩で、富士山から約四〇km流下してきたものである。溶岩塚とは、溶岩流の表面の部分が固まっても、内部はパイプ状になっており、末端付近の表面が押しあげられる作用により小丘となったものをいう。ここ愛染院跡にはこの繰り返しによって、溶岩の堆積がいっそう高まり、このように小高い溶岩塚が形成された。
 この溶岩塚は三島溶岩流の末端であること、また岩石や火山活動の研究に貴重であることから指定して保存を図ることになった。
 愛染院は、室町時代に三島神社別当職を勤めたことがあるともいわれている旧市内随一の大寺院であると推定され、当時はその愛染院の庭園の一部ではないかといわれているが、確証はない。
     平成八年二月 三島市教育委員会  


 この塚の裏側は、愛染の滝と命名されているが、水は流れていない。
  


 この後、三島駅より帰宅。



 今回の記録:街道のみの距離は、2.3Km(五本松信号~三島広小路駅)
         日本橋から二十八里二十三町(112.5Km)。
         寄り道を含めた実歩行距離は、8.7Km(「東海病院バス停」~三島駅)  総計188.7Km
         歩数:14,400歩(2018年)

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