中田宿・古河宿 (栗橋駅 → 古河駅 ) <旧日光街道6回目>

 

2011年10月22日(土) 雨のち曇時々雨

  自家用車で小山駅前のビジネスホテルへ行き、ホテルに車を預けてJRで栗橋駅に戻り、「静御前の墓」と「八坂神社」を見学後、前回終了した八坂神社前を11:00スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)

「幸手宿(後半)・栗橋宿」  「目次」  野木宿 ・間々田宿・小山宿」

 


【静御前の墓】 久喜市指定文化財(昭和53年3月29日指定) 10:30〜10:40

 栗橋駅前北側にある公園内に静御前の墓がある。

 正面の墓は新しいものだが、左手に「静女之墳」と刻まれた旧墓石が石の厨子内に安置されており、右手には、全国的にも数が少ない貴重な静桜が植えられている。
 本日は、「静御前まつり」の開催日で公園内は祭りの準備中であった。午後1時よりパレードが行われるとのこと。

  

【静御前の墓】

 静御前は、磯の禅師の一人娘として応安3年(1168)に生れたといわれ、白拍子と呼ばれる美しい舞姫に成長しました。

 干ばつが3年も続き、加えてその年も長い日照りで農民が大変困っておりました。そこで、後鳥羽上皇が寿永元年(1182)、京都神泉苑に舞姫100人を選び、「雨乞いの舞」を命ぜられました。最期に静が舞い始めると空がにわかに曇り、激しく雨が降り出し3日3晩も降り続いたといいます。後鳥羽上皇は静が15才でありながら類稀な才能を賞嘆され、褒美に「蝦蟇龍」の錦の舞衣を賜りました。この衣は現在、古河市中田町の光了寺に保存されております。

 平氏追討に功績があった義経の寵愛を受けた静が初めて義経に出会ったのもその頃のことでした。その後、義経は兄頼朝の不興を蒙り、奥州平泉の藤原氏を頼って京都を落ちのびました。静は義経を慕って京都を発ち、平泉へ向いましたが、途中の下総国下辺見付近で「義経討死」の報を耳にして悲しみにくれ、仏門に入り義経の菩提を弔いたいと再び京都へ戻ろうとしました。しかし、重なる悲しみと馴れぬ長旅の疲れから病気となり、文治5年(1189)9月15日、この地で死去したと伝えられています。

 侍女琴柱がこの地にあった高柳寺に遺骸を葬りましたが、墓のしるしの無いのを哀れみ、享和3年(1803)5月、関東郡代中川飛騨守忠英が「静女之墳」の墓碑を建立したものと考えられています。また、境内にある「舞ふ蝶の 果てるや夢みる 塚の陰」という歌碑は、江戸の歌人座泉の作を村人が文化3年(1806)3月に建立したものであります。(注)公式には、静御前の生没年は、はっきりしていません。ここに記されている内容は当時の伝承をもとにしています。

     久喜市教育委員会 静御前遺跡保存会


【静桜(しずかざくら)

 静桜は、静御前ゆかりの花であり、数の希少さとともに、学術的にもきわめて貴重な桜です。里桜の一種といわれていますが、ソメイヨシノのような一般の桜にくらべ、花期の訪れが遅く、4月中旬に開花します。花は、5枚の花弁の中に、旗弁といって、おしべが花びらのように変化したものが混じる特殊な咲きかたをします。

 このことから、開花した様子は、一見、八重と一重が混じったように見え、ほかの桜とは趣を異にした風情を見せています。この桜の原木は宇都宮市野沢にあります。地元の伝承では、奥州へと向った静が、義経の討死を知り、野沢の地に一本の桜を植え菩提を弔ったのがその名のおこりといわれています。その接ぎ木苗が、(財)日本花の会から寄贈され、この墓所に植えられました。

 平成5年の静御前墓前祭で、日本花の会により墓所の桜から穂木が採られ、芽接ぎが行われたのをきっかけに、栗橋町では静桜を町のシンボルとして大切に育て、その数を増やすことを目的に「静桜の里くりはし」づくりを進めています。

 【静御前墓前祭】<主催 静御前遺跡保存会>

   毎年静御前の命日にあたる9月15日に行われています。

 【静御前祭り】<主催 久喜市栗橋駅前商店街事業協同組合>

   毎年10月中旬に開催されます。若者たちが静御前と義経に扮し、豪華な時代絵巻が呼び物。


【八坂神社】 (正面) 10:50〜11:00 

 前回、時間の都合で行かなかった八坂神社境内に入る。ここは狛犬ならぬ狛鯉(「除災の鯉」と「招福の鯉」)が拝殿の前に鎮座している。

 また、本殿の周りには小さな社が沢山並んでいた。

 この神社の神様は、慶長年間に利根川の洪水のとき渺々たる水波の中を鯉と亀とが運んできたものと伝えられています。この由緒ある神社に御参詣して招福・徐災の霊験あらたかな鯉を撫で身体をさすって下さい。

 健康(無病息災)家内安全・商売繁盛・縁結び・学業成就などの幸福を招く鯉です。


【関所番士屋敷跡】 (左奥) 

 八坂神社境内入口前の道を左に進むと、境内の角に、関所番士屋敷跡の木柱が立っている。


【房川(ぼうせん)渡と中田関所跡】 (左側) 11:15

 日光道中は「八坂神社前交差点」から利根川の土手道を戻るように上り利根川橋を渡る。橋の中央から茨城県古河市に入る。

 橋を渡り終えた交差点を左へ下がり、その先右カーブして行く道を進む。そのカーブの左側に房川渡と中田関所跡の説明板が立っている。

 江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から、大河川には橋をかけることを許さず、また、交通上の要地には関所を設けていた。当地は日光街道の重要地点で、街道中唯一の関所と渡船場の両方があったところである。

 利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流れの部分を『房川』(理由は諸説あって不明)とよび、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。やがて、関所は対岸の栗橋側の水辺に移されたので、普通には、『栗橋の関所』の名で知られていた。

 四人の番士が交代で、関所手形を改め、旅人や荷物を厳しく監視した関所は、明治二年(1869)の廃止令でなくされたが、二艘の渡し船と五艘の茶船を操る船頭たちによって、およそ四十間(約70m)の流れを渡した渡船場の方は、大正十三年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。

     平成元年三月 古河市教育委員会


【中田宿】 

 「利根川堤交差点」で右から来る県道228号線が合流し、その交差点を渡った左側の火の見櫓の下に中田宿の説明板が立っている。

 江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並となったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。

 中田宿の出発は、江戸幕府が日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成されたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を十五日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。

 本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長五三〇メートルほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。

 天保十四年(1843)の調査では、栗橋宿四〇四軒に対し、中田宿六九軒となっている。ただし、一一八軒とする記録もある。

     平成十九年一月 古河市教育委員会


【鶴峯八幡宮】 (左側) 

 中田宿説明板から7分進んだ左側に鎌倉時代の創建と云われる鶴峯八幡宮がある。

 社伝によると、鎌倉時代に源頼朝もしくは二代将軍源頼家が、鎌倉の鶴岡八幡宮の神主高橋氏をもって創建させ、のち天福二年(1234)下総国一の宮である香取神宮もまつって、八幡と香取の相殿にしたといい、中世には栗橋方面にまで勢力をもった有力な神社であった。

 もとの名を上伊坂八幡宮と称し、上伊坂の地にあったが、江戸時代初期に、中田と上伊坂の村民によって、宿場町として中田宿が現在の利根川橋下の河川敷に造成されたおり、その東方の古墳上にまつられ、長くこの地の守護神であった。さらに大正元年(1912)利根川の改修工事による中田の町並みの移転にともなって、現在地に移座した。

 宝物には鎌倉時代に書写されたとする市指定文化財の法華経がある。さらに、永禄七年(1564)の紀年銘を持ち水海城主簗田氏寄進と伝えられる鰐口があったが、残念ながら現存していない。また少なくとも享保年間(1716〜36)には、近郷近在の神官によって奉納されていたと伝えられる太々神楽が市の無形文化財に指定されている。

     平成十九年一月古河市教育委員会


【光了寺】 (左側) 11:30

 鶴峯八幡宮のすぐ先に静御前ゆかりの光了寺がある。

 静御前の遺骸を葬った高柳寺は光了寺の前身であり、後鳥羽上皇から賜った「舞衣」等の遺品拝観は要予約とのこと。

 光了寺の由緒は、説明板の下部がかすれて読めない箇所が多かったので、一部分を載せる。

 光了寺は昔、武蔵国高柳村(埼玉県栗橋町)にあって、高柳寺といい、弘仁年間(810〜823)に弘法大師が創立したと伝えられている。

 (中略)

 寺宝として、静御前が後鳥羽上皇からいただいた思賜の蛙螟龍(あまりりゅう)の舞衣などがある。

 また、山門をくぐった左側に芭蕉句碑が建てられている。

   いかめしき音や霰の 檜木笠


<昼食> 11:45〜12:15

 「古河第四小学校」はずれの歩道橋がある所を右折した国道4号線沿いの「山田うどん」で昼食としたが、その先JR東北線の踏切を渡った右側にある「俵屋うどん」の方が、雰囲気が良かった。


【茶屋新田の松並木】 

 JRの踏切を越えると、再びほぼ真直ぐな道が30分程続く。

 往時、ここ茶屋新田から原町出口まできれいな松並木があったが、昭和初期に道路拡張と松根油製造の為伐採されてしまった。現在は青年期の松が並んでいた。

 安政二年(1855)八月、幕末の志士清河八郎は旅中紀に次のことを記している。

 「ここから古河までは一里半の道のりで仙台道中最もきれいな松並木である。(中略)その並木の間から古河の天主閣が眺められ、また富士山も時には雲の上に姿を顕し景色がたいそうよい」

 この松並木を茶屋新田の松並木と呼ばれていた。


【原町一里塚】 (右側) 13:05

 直線道路がやや左カーブして国道354号線を超えた先右側、古河第二高校のグランド西端に原町一里塚が現存している。

 日本橋から16番の一里塚で塚の上には三本の大木が植わっている。

 ただ、道路から一段高いところで、細かいネットが張られているため写真撮影に苦労する。
  

 古河第二高校の敷地が終わった右側、増田家の門前に小さな道標が立っていて、「左にっこう」、「右みちのく」と刻まれていた。


【古河宿】 日本橋から15里35町(62.7Km)、鉢石へ20里4町20間(79.0Km)

 宿内人口 :3,865人、総戸数:1105軒(本陣1・脇本陣1・旅籠31)


【古河城御茶屋口門址】 (左側) 13:30

 原町一里塚から十数分で三叉路になり、日光道中は右カーブして古河宿に入って行く。

 三叉路の次の信号で左に入る道があるが、この入口に史跡古河城御茶屋口門址の石碑と御茶屋口と御成道の説明板が立っている。

【御茶屋口と御成道】

 「御茶屋口」、旧日光街道に面するこの口の名前は、かつてこの地に存在したとされる「御茶屋」に由来している。それは日光社参(徳川将軍が、神君徳川家康を祀る日光山へ参詣する行事のこと)に伴い将軍の休憩所として設けられたとされるが、江戸初期のごくわずかな期間に存在したと推定されるこの建造物について、今のところ、記録として残る略図以外にその詳細はわからない。

 ところで、徳川将軍の日光社参は江戸時代を通じて十九回おこなわれているが、古河城は、道中における将軍の宿城となることが通例であった。将軍の古河入城に利用された「御成」の入り口がこの御茶屋口である。

 そして、「御茶屋口」から続く将軍御成の道は、諏訪郭(現歴史博物館)を北側に迂回、その後、幅一八〇メートルに及ぶ「百間掘」を渡す「御成道」を経由して城内に至る。杉並木で飾られた「御成道」と城内との接点には、石垣で堅牢に守られていた「御成門」が将軍をお迎えした。

 なお、将軍休憩の御殿というべき「御茶屋」破却後、その場所の一角には、「御茶屋口番所」が置かれている。これは、古河城下を通行する格式の高い大名や幕府閣僚たちの挨拶に対応する役人の詰所であり、明治維新を迎えるまで存続した。

     平成二十年一月 古河市教育委員会



 これより暫く日光街道から離れて、古河宿内を道草する。


【鷹見泉石(たかみせんせき)記念館】 13:40〜

 古河城御茶屋口址碑から左に入り、突き当りを右、左と曲がると古河城の出城・諏訪郭(現古河歴史博物館・有料)の掘に突き当たり、更に左に曲がると鷹見泉石記念館の綺麗に手入れされた素晴らしい外塀が現われる(下の写真)

 開館時間 9:00〜17:00  無料

【鷹見泉石記念館】

 ここは、古河藩が藩士たちのために用意した武家屋敷の一つで、隠居後もっぱら蘭学にいそしんだ鷹見泉石が最晩年を送った家でした。

 建物は、寛永10年(1633)古河城主土井利勝が、古河城の三階櫓を造ったときの残り材を使って建てたと伝えられ、もとの立坪は100坪もあり(現在の2倍以上)、屋敷全体は東西に長い他に比べて一段と広大な(現在の4倍以上)ものでした。

 土井氏の家中では、奥氏・潮田氏・鷹見氏など、もと家老を勤めた者が入った場合が多かった屋敷のように思われます。

 いくつも座敷のある長屋門もあって、元治元年(1864)には、天狗党の乱に巻き込まれ、幕府に降った水戸藩士100名余を一時収容した屋敷でもありました。それは、泉石の子忠正が家老となり、城内の屋敷に移って空家になっていたときのことでした。

 維新期、この屋敷は再度入居した鷹見家の所有となり、泉石の残した膨大な資料は、この家で代々子孫に守られ今日に伝えられたのです。

 平成2年、「鷹見泉石記念館」として開館されました。

     記念館のパンフレットより


【繍水草(しゅうすいそう)堂】 〜13:55

 鷹見泉石記念館の庭から続いて、隣の奥原晴湖画室である繍水草堂に行ける。

 明治時代を代表する女流画家奥原晴湖(1837〜1913)の画室です。

 画室は当初、埼玉県熊谷にありましたが、晴湖亡き後その一部が古河の実家に移築されました。

 保存にあたり画室を更にここに移築し旧屋敷図を基に玄関と廊下を復元しました。


【福法寺】 14:0

 歴史博物館から日光道中に戻る途中の一本手前の道(ぬた屋甘露煮店前)を左折すると了正寺の隣に福法寺がある。この寺の山門は古河城の幹門だった。

【旧古河城乾門】 古河市指定文化財・建造物 昭和43年4月1日指定 

 この門は江戸時代の旧古河城内の二の丸御殿の入り口にあって、乾門と呼ばれた門である。これを明治六年(1873)の古河城取り壊しの際、福法寺の檀家が払い下げを受けて同寺に寄進・移築した。

 この門の構造は平唐門と呼ばれる型式で、両側には袖塀がつき、向って右側に潜戸がある。かつての古河城の姿を現在に伝える数少ない遺構として貴重である。

     平成二十年一月 古河市教育委員会


【肴町】 14:05

 福法寺からそのまま北に向い次の十字路を右折した日光道中街道までの一角が肴町と呼ばれる。

 右折して日光道中までの中程に建つ米屋「米銀」の向いに肴町の説明板が掲げられている。

【肴町の由来】

 その昔、元和の五年(1619)に奥平忠昌公が古河城主として移封された時代のことです。

 忠昌公は、お城の増築や武家屋敷の拡大のために町屋の大移動をはかり、中心部に新しいまちづくりを行いました。後の大工町や壱丁目、石町、江戸町等は皆その時に名付けられたものです。

 江戸時代に古河城下を通過する諸大名は、使者を派遣し挨拶をしに参りました。古河藩からは役人が出向いて歓迎の接待をしたものです。その役所のひとつに使者取次所があり、別名を御馳走番所と言いました。現在米銀の在る処がそれで、今の中央町二丁目麻原薬局角から中央町三丁目板長本店の間、道巾三間半、長さ二十二間五尺の通りは、「肴町」と呼ばれるようになりました。

 以来、この肴町通りは古河城裏木戸を経て城内にお米やお茶、お酒をはじめその他の食糧品を供給し、城内との交流の道として栄えて参りました。

 今日、食糧品を扱う大きな店の構える通りとなっているのもその縁でありましょうか。

 歴史の重さがしのばれます。

     肴の会

 米屋の看板「御馳走番所 肴町 米銀」の左隣に古河藩使者取次所址の石碑が立っている。

【史蹟 古河藩使者取次所址】 

 使者取次所ハ本碑ノ西ニ接續セル元肴町約五十坪ノ地内ニ在リテ御馳走番所トモ呼ビ町役人大年寄ノ詰所ニシテ十萬石以下ノ大名城下通行ノ際ハ其取次ヲ行ヒ藩廳ヨリハ掛員出張シテ應待セシ役所ニテ明治四年廢藩置縣ト同時ニ廢廢止セラレタリ本碑ハ地元壹丁目熊本藤兵衛舩江豊三郎両氏寄贈ノ資ニ依リ之ヲ建ツト云

     昭和十二年六月吉日 茨城縣古河史蹟保存會長 同古河町壹丁目總代



 肴町通りから日光道中に戻る。


【篆刻(てんこく)美術館】 14:15

 次の「本町二丁目交差点」を左折して230m左側に、大谷石の蔵を立派な持つ煉瓦の建物が篆刻美術館である。

 篆刻美術館は、平成3年に開館した日本で始めての篆刻専門の美術館。篆刻は印章から発展したもので、700程前に中国でおこったもの。四書・五経・漢詩などから語句を選び、篆書という古文字を用いて柔らかい石や木に刻んで印の様に押したものを鑑賞するものである。

 開館時間 9:00〜17:00(休館日 月曜)  有料(¥200)

篆刻美術館表蔵棟・裏蔵棟(旧平野家表蔵棟・裏蔵棟)】 国登録有形文化財(平成10年10月9日登録)

 表蔵・裏蔵とも、ここで酒類卸売業を営んできた平野家の耐火石蔵として、大谷石を用いて、大正九年(1920)に建てられました。その建築を手掛けたのは、地元古河の棟梁・石工たちでした。

 表蔵は、切妻造・桟瓦葺・平入の石造三階建てで、建築面積は、二十九平方メートル。妻面の開口部には優美な反りのある庇を設けて、老舗の風格を見せています。かつて内部は、一階は洋間・二階は納戸として使用され、三階には数奇屋風書院の座敷がありました。

 この表蔵と中庭をはさんで建てられた裏蔵は、切妻造・桟瓦葺・平入の石造二階建てで、建築面積は六十六平方メートル。ごく標準的な倉庫用の石蔵でした。

 どちらも、古き良き時代の古河を象徴する建造物として、地域のランドマークになっていますが、平成二年〜三年に古河市が行った改修工事を経て、現在は篆刻美術館として、保存・再生・活用が図られています。

     平成十一年三月 古河市教育委員会


【古河街角美術館】

 篆刻美術館の隣にレンガ造りの街角美術館が建っており、ここは、平成7年に市民創作活動の発表の場として開館したもの。

 開館時間 9:00〜17:00(休館日 月曜)  無料


【永井路子旧宅】 14:20

 街角美術館のすぐ先左側、2階建て土蔵造りの建物が、作家永井路子の旧宅である。

 直木賞作家、永井路子さんの旧宅を修復して一般公開している建物だが、この度の東日本大震災の影響で屋根が崩れ、「しばらく休館」の紙が貼られていたため、残念ながら外観だけの見学となった。
 永井路子は東京生まれだが、間もなく母親の郷里である古河に移り、結婚するまでの20年間をここで過した。

 旧宅は江戸末期に建てられた二階建て土蔵造りの建物。1950年代に永井家から別の所有者に譲渡された際、店蔵の南側の住宅部分の一部が取り壊されて建坪が縮小されているとのこと。
  


【古河城下本陣址】 (左側) 14:27
 「本町二丁目交差点」に戻り、交差点を渡った左側「ジョイパティオ」入口の赤い電話ボックス前に古河城下本陣址と刻まれた石碑が立っている。

  

 次の信号を右折すれば古河駅である。


【古河城下高札場址】 (右側)

 古河城下本陣址の向かい側のビルの前に史跡 古河城下高札場址と刻まれた石碑と説明板が立っている。

【高札場と本陣】

 日光街道の宿場町としての古河宿の中心は、もと二丁目とよんだこの辺であった。文化四年(1807)の古地図によると、高札場がこの場所にあり、斜め向かいに本陣と、問屋(といや・とんや)のうちの一軒があり、またその向かい側に脇本陣が二軒並んで描かれている。

 高札場は、親を大切にとか、商いは正直にとか、キリシタンは禁止だとかいった幕府の法令や犯人の罪状などを掲げたところである。

 本陣と、その補助をする脇本陣は、合戦のとき大将の陣どるところに由来して、大名・旗本をはじめ幕府関係の高級役人・公卿・僧侶などの宿泊・休憩所で、古河の本陣は百十七・五坪(約四百平方メートル)もあった。どこの宿でも最高の格式を誇っていたが、経営は大変であったといい、古河の脇本陣はのち他家に移っている。

 問屋は、人足二十五人、馬二十五疋を常備し、不足の場合は近村の応援を得たり人馬を雇ったりして、この宿を通行する旅人や荷物の運搬一切をとりしきった宿場役人のことで、他にも三〜四軒あって、交代で事にあたっていた。

 街道沿いの宿町は、南から原町、台町、一丁目、二丁目、(曲の手二丁目)、横町(野木町)と続き、道幅は五間四尺(約十メートル)ほど、延長十七町五十五間(約千八百五十メートル)余あり、旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛女(遊女の一種)がことのほか多い町だったという。

     平成元年三月 古河市教育委員会


【道標】 (左右) 14:33

 「古河駅入口信号」の次の信号がある交差点右側の歩道の真ん中に「右 筑波道」、左側歩道の真ん中に「左日光道」と刻まれているコンクリートの丸い道標が立っている。

 この交差点道標に従って左折するのが日光道中である。ここからレンガ道となる。
  


【脇本陣跡】 (右側) 

 左折してすぐ右側の神宮寺駐車場には少し前まで「大田屋旅館」が建っていて、旧脇本陣だったが、2005年に解体されてしまった。

 上記、高札場の説明文中、二丁目に脇本陣が二軒並んでいたとあるが、ここを入れると古河宿に脇本陣は三軒になってしまう。天保十四年の記録では脇本陣は一軒だけなので、上記高札場の説明がおかしいのか??


【武家屋敷の面影を残す町並み】 (左奥) 14:40

 日光道中は、次の十字路を右折するのであるが、武家屋敷の面影を残す町並みを見る為に、直進して杉並通りに行く。

 「ホテル山水」の向かいにあり、確かに白い土塀が続く武家屋敷風の通りとなって、いい雰囲気である。

 但し、残念ながら、この後出会った町の歴史愛好家の話によると、この土塀は往時の武家屋敷ではなく、民間人が昭和5年頃に武家屋敷風に建てたものとのことである。
  

 分かれた十字路に戻ると、日光道中から見て左側に、先ほどは気が付かなかったが煉瓦造りの建物を無造作に解体している現場があった。ここも歴史愛好家の話によると東京駅の建物と同じ本物の煉瓦で造られた歴史的建造物だったとのことである。解体終盤であったが、壊してしまっては惜しい建物だったのではなかと想像できる煉瓦造りの壁であった。古河の人は歴史遺産保存の風潮が低いと言っていたが、「日光街道古河宿」の幟を立てている宿場町だけに、何とか残せなかったものかと思いつつ、記念に煉瓦のかけらを拾ってきた。


【武蔵屋】 (右側) 14:45

 日光道中を右折するとすぐ右側に、創業100年という川魚料理の老舗、武蔵屋がある。

 ここは天保時代より遊郭だったが、現在の建物は明治二十年代とのこと。明治四十四年から川魚料理店となり、伝統のタレを使用し続けているうなぎ料理が自慢 とのこと。
  

 ここで写真を撮っていたら歴史愛好家が自転車で通りかかり、武蔵屋についてのうんちくから古河宿の話になり、10分の時間を頂ければガイドブックに載っていない所を案内するとの提案となった。

 本日は野木駅まで行く予定であったが、10分程度なら問題ないと思ってついていったら、これが大番狂わせとなってしまった。

 結論から言うと、この人とこのあと2時間も古河の町案内に付き合うことになってしまった。

 コースは、武家屋敷風町並みに戻り、その西南にある正定寺松井家老屋敷跡五葉松割烹和田家→日光街道を越えて古河駅に向う途中の古い蔵群大聖院古河駅前土産物店と喫茶古河駅


正定寺】 

 永井路子旧宅のすぐ先の道を右折して2分入った左側に正定寺がある。

 この寺の山門は旧土井家江戸下屋敷の表門だったものを移築したもので、立派な門なので一見の価値はある。境内には土井利勝の像も建っている。

【旧土井家江戸下屋敷表門(正定寺黒門)】 古河市指定文化財・建造物(昭和43年4月1日指定)

 この門はもと東京の本郷にあった旧古河藩主土井家の下屋敷の表門であったが、昭和八年(1933)に土井家の菩提寺である当正定寺に移築・寄進されたものである。

 江戸時代の大名屋敷に多く用いられた薬医門と呼ばれる型式で、両側に袖塀がつき、向って左側に潜戸がある。また、屋根瓦には、土井家の家紋である「水車」があしらわれている。

     平成二十年一月 古河市教育委員会


【五葉松】 古河市の名木古木に指定

 正定寺から更に北に進み突き当りを右に曲がったすぐ左角の屋敷内に大きな五葉松が植わっている。

 肥前唐津より古河藩の屋敷に持ってきた盆栽を地植えしたものが巨木化したものとのこと。

 推定樹齢  二百八十年

 樹   高  7.0m

 幹 廻 り  1.8m

     平成二年十二月吉日 古河市


【松井家老屋敷跡】 

 正定寺から北に進み突き当りを左、右へ曲がった左側で、現在は住んでいる人がいない。



 6回目の旅終了(16:30) 古河駅。

  JRで古河駅から小山駅に 行き、西口駅前の小山国際第一ホテル泊。

  本日の記録 : 街道のみの距離は、6.9Km(八坂神社入口〜古河宿・武蔵屋前)

           日本橋から十六里六町(63.5Km)

           寄り道を含めた実歩行距離は、14.5Km(栗橋駅〜古河駅) 累計90.7Km。

           6時間 22,900歩。

 

「幸手宿(後半)・栗橋宿」  「目次」  野木宿 ・間々田宿・小山宿」